最果ての地にて愛をつなぐ⑪ 第7章 新しい居場所

小説 最果ての地にて愛をつなぐ



時間を気にするのは当たり前だと思っていた。
いつも時間に追われるのも、そういう物だと。
時計を見ないという事で、こんなにもゆったりとした気持ちになれるという事を梢は初めて知った。
昨日の夜何時に寝たのか知らない。
朝食というのか昼食というのか、それは昼までの間のいつ食べてもいいらしい。
この事は昨日聞いていた。

好きなだけ寝て、自然に目が覚めてから顔を洗って着替え、下へ降りていくと、食堂に居るのは梢以外に二人だけだった。
年配の男性と、もう少し若い男性。どちらも一人旅らしい。
「おはようございます」と声をかけると二人とも笑顔で気持ちよく挨拶を返してくれた。
この人達はもう帰るところらしく、荷物を持って降りてきている。
昨日自分より後から来て泊まった、一泊だけのお客さんかなと梢は思った。
特に会話するわけではなくても、他の人達と空間を共有している感も悪くない。
ここで会う人達は本当に気持ちのいい人ばかりだから、それもあるのかもしれないけれど。

セルフサービスでパンを焼く形で、バターやジャムや蜂蜜などが並んでいる。
新鮮な野菜のサラダの皿や果物の皿が、ラップをかけて並べてあり、ゆで卵がカゴに入って置かれていた。
普段は起きるのが遅めなのもあって朝あまり食べない梢も、ここの美味しそうな食べ物を見ると思わず全部取ってしまう。
もしかしたらもう昼に近いのかもしれないが。
パンが焼けたタイミングで、健太が淹れたてのコーヒーを持ってきてくれる。
このサービスも有難かった。

食べ終わってしばらく外を眺めながらゆっくりしていた梢に、健太が話しかけた。
今日は昼から休みなので、よかったらこの辺を案内するという誘いだった。
強引な感じも全然なく、どちらにしてもまた散策に出かけようと思っていた梢は誘いに乗ることにした。
ここに一台だけある車はスタッフ皆の共用で、今日は仕事にも使うらしく借りられなかった。
仕事用とは言っても空いていれば使える事もあるらしい。

お客さん用に無料で貸し出している自転車があるので、梢はそれを借りた。
健太は自分用の自転車を持っている。
昨日は徒歩だったけれど、それより少し遠くまで行けると思うとワクワクしてくる。
今日もよく晴れていて暑いけれど、この暑さがまた気持ちいい。
この辺りの気候は、湿度の高い京都の気候とは違ってカラッとしている。
風もあるので、暑すぎて外は無理というほどでもない。
天気もいいし、せっかくの1日を部屋で過ごすのは何かもったいない気がした。

海の景色を横に見ながら自転車で走るのは爽快だった。
歩くのとはまた違って、昨日より広い範囲を観れるのが楽しみだった。
梢は、ゆっくりと景色を眺め、特に印象的な景色があれば時々止まって写真を撮る。
そのペースに合わせて、健太は時々振り返り確認しながらゆっくり走っていた。
梢には、そういう気遣いもとても嬉しかった。

道の途中で健太は、民宿と取引のある店をいくつか教えてくれた。
陶芸をやっている店もあって、そこの器を見ると民宿で使っている物と同じと分かった。
昨日行ったカフェの器も似ていると思ったが、作っているところが同じだったのだ。
他にも、家具や小物などの木工製品の店、金物屋、花屋、本屋、パン屋、理髪店、美容院、車の修理屋、自転車屋など。
漢方を扱っている診療所もあった。
診療所は保険診療ではなく自由診療なので高いと言えば高いけれど、ここの人は滅多に病気にならないから保険料を毎月払うより結果的に安いらしい。
「俺は怪我で一回世話になったぐらいかな。気さくでええ先生やで」と健太は話した。
パン屋では国産小麦を使って毎日自家製のパンを焼いていて、民宿でも昨日行ったカフェでもここのパンを使っているとのこと。
工場で大量に作られる物と違い、一つ一つ丁寧に作られている。ここのパンはたしかに美味しかった。
民宿のテーブルや椅子は、ここの木工製品の店のものということだった。
飽きのこないスッキリしたデザインで、丈夫で長持ちするように作られている。
この地域の中で店同士が知り合いで、互いに自分のサービスを提供し合って生きているとのことだった。
家事の代行や、便利屋のような仕事をしている人もいるし、インターネット関連に強い人はそれを仕事にしている。

皆がお互いに得意な事を人に提供し、苦手な事や出来ない事は人の提供するサービスを利用する。
そういうシンプルな仕組みが、この地域の中で出来上がっているらしい。
今のところ子供から年寄りまで全部で50人ほどで、この地域の中では、お金を介さずにサービスを提供し合う事もあるという。
健太の話を聞いて、梢は昨日カフェで見た事を思い出した。
カフェで飲食をした時、健太と喜一が、お金ではなく野菜で払っていた。
梢の食べたカフェのメニューの値段は800円だったから、それの二倍とすれば1600円。
あの量の野菜をスーパーで買ったとしたら、それ以上の値段になるのは間違いない。
どちらの側にも、損な取引ではなかった。
「金で払ったとしてもどうせその金でなんか買うわけやろ。直接の方が早いで」
健太が言うのは考えてみればその通りだった。
「もう一つええ事はな・・・」
健太が少しだけ声を落とした。
「金でもらわへんかったら税金かからんやろ」
「たしかに・・・」
本当にその通りだった、これは脱税でも何でもない。物々交換には税金はかかってこない。

ゆくゆくはもっと自然に、交換するという意識すらない感じでみんなが協力し合って、暮らしていくようになればいいと思うと健太は話した。
今でも十分、世の中の状況とは違っている。
お互いに余計な干渉はせず、自分は自分人は人。でもお互いの存在を感じ、得意な事を提供し合い協力し合う関係。
そんな暮らし方が、ここにはあるという。
梢は、自分がここに来てからずっと感じていた心地よさの正体はこれだったのかと思った。

途中で色んな店を観ながらゆっくり1時間くらい走った後、座れる場所を探して休憩した。
置いてあるベンチに座ると、ここからも海岸が見渡せる。
近くには、積み上げられている沢山のテトラポットが見え、少し遠くには海を行く漁船の姿も見えた。
健太が持ってきていた冷たい麦茶を二人で飲みながら、この地域の事、お互いの仕事の事など色々話した。
初対面の時からそうだったが、健太は気さくでありながら押しつけがましさは全くない。
余計な干渉はしないけれど人間味がある。

昨日初めて会った慶や薫も、そういえば同じだった。初日に少し話したオーナーの喜一も。
ここの人達といると、梢は心からリラックスできて余計な気を遣わずに済んだ。
何でも気軽に話せるし、逆に会話が途切れても気まずさが無い。
たまに沈黙がしばらく続いても、波の音を聞きながらその間を楽しむ事さえできた。
何か話さなければという余計な神経を、使わなくていい雰囲気がある。

前に勤めていカフェでもこの感じは体験しているけれどそれは珍しい事で、カフェを辞めた時は、二度とこういう人達とは会えないかもしれないと思っていた。
今までを振り返っても、学校でも最初の職場でも時々感じていたのは、押しつぶされそうな閉塞感だった。
そんなことも、健太には平気で話すことができた。
「波長の合うもん同士は何となく集まるんやろ」
「こんなにおるって知らんかったわ」
「それでもかなり少数派やけどな。今の世の中から観たら俺ら、変な奴やで」
健太が笑いながら言うので梢も笑った。
どんどん閉塞感を増して異様に変わっていく世の中の様を見ては、深刻になっていた自分に気が付く。
深刻になったからといって何かが解決するのでもない。
ここの人達は、世の中の状況に関係なく楽しく過ごしている。
周りの状況に振り回される事なく、皆それぞれ自分を生きている。

「もうちょっと宿泊日数増やそかな。まだいける?」
梢は、昨日から考えていた事を聞いてみた。
残りの預金を計算しつつ、次の仕事を早めに探すとしてあと一週間くらいはいけるかなと思った。
「確かあの部屋はまだ次入ってないし、梢ちゃんが大丈夫なんやったらいけるで。いつまで延ばす?」
「一週間ぐらいいけると思うねんけど。待って。今もう一回計算するわ」
梢はスマホを取り出してお金の計算を始めた。
こんなことも、見栄を張らずに平気で言えるところが楽だった。

「あのな」
ふいに思いついたように健太が話し始めた。
「もしよかったらやけどここででバイトは?日払いの時給制やし、合うかどうか気軽に試せるで。もし続いたらやけど交代でもう一人入ってくれたら俺らも休みやすいし、誰かおらんか三人で探しとったんや」
「ほんまに?私でええんやったらやりたい。車の免許も無いけど」
「それは大丈夫や。侑斗も15歳やから車の免許まだ無いし、そんなにしょっちゅう遠くまで行くわけでもないし。今のとこ俺と喜一さんだけで十分や。仕事は料理、掃除、片付け、受付とかそんなもんやで。カフェの仕事と近いやろ」

健太はさっそく喜一に話してくれて、梢のここでのバイトが決った。
宿泊をもう一日だけ延ばして、その次の日からはバイトで入る事にした。
住み込み用の部屋はまだ空いているらしく、今日見せてもらう事になった。
荷物は鞄一つだし、夏なので布団も要らないくらいでほとんど何も買わなくていい。タイミングいいなと梢は思った。
続けるかどうかも、気軽にやってみて決めていいと思うと健太は言ってくれた。
健太がここで働き始めたのも客として来たのがきっかけで、最初から続ける決意なんか特になかったという。
やってみてたまたま仕事が自分に合っていたから、気がついたら続けていたということだった。
今のところ三人でもけっこう忙しいので丸一日の休みは少ないが、仕事と遊びの区別はあまり無いような状態だし、てきとうに交代で半日休んだりしているのでストレスはないらしい。

明日が、客としてここに泊まる最後の1日になる。
梢は存分に楽しもうと思った。
仕事探しはとりあえず保留でと思っていたけれど、予想外の展開で仕事まで見つかった。
これからどうしようと凹みかけたけれど、旅行に行くという行動をしてみて本当に良かったと梢は思った。

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