「皆んな我慢しているのだから」という言葉が 、
学校でも会社でも本当に多く使われたこの二年間。
「皆んなが・・・」という言葉が、
日本ではものすごく大きな強制力になる。
なので法的に強制などされなくても、
周りを見て合わせようとする人が大多数。
学校教育では、自分で何か考える事よりも
上から言われた通り従う人間を作っていく。
会社に勤めてもそれが続く場合もある。
自分の発言や行動の理由を聞かれても 、
数秒の沈黙の後に
「 皆んな言ってるから 」
「毎日TVで言ってるから」
「 このご時世だから」
「 常識だから」
「 これが普通だから」
こういう答えしか出てこないというのは、
自分の頭では全く考えてないし
自分の感情は全く動いていないという事。
すでに ロボット化が始まっている。
「自分が・・・」
と考えたり言う前に先に周りを見て、
他の人は?
今どんな傾向?
とりあえず合わせていれば嫌われない。
という思考がどうも定着している感じ。
一人になりたくない。
誰かといつも一緒に居たい。
そのためには嫌われたくない。
人から悪く思われたら生きにくい。
というのもあると思うけど、
この考えも学校教育の影響は大きいと思う。
何でも多数決で決められるし、
「社会に出たら必要な事」として
集団行動を教えられる。
個人単位ではなく集団単位で、
集団の中で周りに合わせて周りに役立つ
集団の中の一員としての個人。
こういう人であることが良しとされる。
自分には耐え難い辛い事があっても 、
もう限界で逃げたくても
「 世の中にはもっと辛い人も、
もっと苦労している人も沢山いる」
という理由で、
「 だから逃げずに立ち向かうか
我慢して耐えなければならない」
この理屈が何故か普通に通っている。
これが今の世の中の常識。
個人単位なら、どんなことも
自分にとってどうなのかで考える。
それが集団単位だと、
他の人達がどうなのかという話が入ってくる。
他人と自分は別なのにおかしい話。
この記事の最初に書いた、
「皆んな我慢しているのだから」という言葉も
これと同じ考え方からきている。
人のためになら自分は我慢するとか
人に何か役立つ事をするのがいい事というのも、
自分個人よりも周りを優先という事かと思う。
人の役に立たなければならない。
誰かのために生きなければ意味が無い。
という考えは、
一般的で 正しいとされているけど
そんなに頑張って
「自分が何かしてあげられる誰か」を
求めなくても ・・・
自分のために生きたっていいと思う。
個人個人が自分の好きな事や楽しみを追及しても、
そんなに恐ろしい世の中にはならないはず。
機嫌のいい人が増えて不都合なのは、
ピラミッド型の世界のトップに君臨している
重いエネルギーが好きな人達だけだと思う。
いつも人の顔色を窺ったり、
周りに合わせる事ばかり考えて
嫌われないように生きていると
個性のエネルギーは輝きを失う。
好きなように自分を表現し、
それでたとえ一人になったって
また新しい出会いは必ずある。
自分一人でも楽しくなれば、
べったりとした人間関係も要らなくなる。
今の日本では
「それなりに友達はいるけど
いつも一緒にいて全て分かり合える
パートナーや友達は居ない 」
というので悩む人は多い。
けれどそういう存在がいなくても、
それなりに友達がいるなら十分。
完全に同じ考えの人は居ないし、
それを求めるとかえって苦しくなる 。
「いなければならない」
という 思い込みを捨てれば平気。
「いつも必ず一緒にいてくれる誰か」を
求めるのをやめて 、
むしろ一人で行動してみることで かえって
色んな人と知り合える。
楽しい事も増える。
べったりの付き合いでなく
少しだけ接点があるという緩い関係。
その中にこそ新しい広がりがある
「集団が先」「集団の中の個人」の考えから、
個人が先、自分という個性を大事にする考えに
変える事で人生は大きく変わる。
それが、言われているように本当に
周りに多大な迷惑を及ぼす事なのかどうか
ちょっと変えてみて実験してみるのも
悪くないのでは?
違うと思ったらやめればいいだけのこと。
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