見えない檻 後編

自営業者の日常雑記


塀に沿って、私と明日香ちゃんはひたすら進んだ。

最初は必死で走ったけれど、ずっと走っていては体力がもたない。

まだ追手が来る様子も無いので、途中からは歩いた。

時刻は深夜なので、全ての住居が明かりを消していて、辺りはシーンと静まりかえっている。

私達は、歩きながら色々な事を話した。

私が父のノートのことを少しずつ話しても、明日香ちゃんは特に驚かなかった。

数年前から色々な事に疑問を持って、できる限り調べようとしていたらしい。

その頃が、まだインターネット上にも自由に閲覧出来る様々な情報があり、本も自由に読めたギリギリの時期という事だった。

私の方が年上なのに・・・何も考えずその頃を、ぼーっと生きていた事が少し悔やまれる。

明日香ちゃんは、母親がむしろそのタイプで、最初全然わかってくれなかったけれど根気よく話していったという事だった。

どこの家も似たようなものなのか。

しっかりした人が一人居れば何とかなるらしい。

明日香ちゃんは私と同じ信用スコアCのランクで、母親が一つ下のDランク。

私とほぼ同じような家に住んで、同じような生活をしていたらしい。

ある時「結婚許可」が来て、一人暮らしの母親を残して移動したと言う。

私もそうだったけど今思えば、あれは許可じゃなくて命令そのものだ。

市街地のこちら側の壁には「危険区域」「立ち入り禁止」の目立つ表示があちこちにある。

上には有刺鉄線が張ってあるし、こっちから見ると本当に入っては危ない何かがあるように見える。

真実を知ってしまうと、よくもこれだけ堂々と図々しい嘘が吐けるもんだと、怒りを通り越して感心するばかりだ。

塀のあるこの地域は、最も貧しい人達の住居が並んでいる。

信用スコアでFランクと言われる人達。

父のノートを読んでからは、支配者で非人類種の彼らが決めたそんなランク付けなど、何の意味も無いと思ってるけど。

ランクの低い者から、一番危険とされている立ち入り禁止区域の近くで、上になっていくほどそこから離れられるという建前らしい。

本当は、塀一枚隔てた向こうには広大な敷地を持つ美しい庭が広がっているのだから、こっち寄りの方がむしろ環境はいいのかもしれないけど。

Fランクの人達が住むコンクリートの箱のような集合住宅は、小さな通気口が付いているだけで窓も無く、一部屋のスペースも寝るのが精一杯な位狭いようだ。

共同トイレと、コインを入れれば数分間使える共同シャワーが外にあるけれど。

ゆっくりと湯船に浸かる楽しみも、自分の好きな物を所有して部屋に置く楽しみも、ここには存在しない。

雨風がしのげるだけ外よりマシというだけで、刑務所とさほど変わらないのではないかと思う。

信用スコアA-1の彼らの生活を見てしまった後で、あまりの違いに愕然とする。

市街地にいた時の私の生活だって、ここと大して違いはしない。

ユニットバスが室内にあって、ここよりは部屋がちょっとだけ広い程度で、同じようにコンクリートの箱。

常に監視カメラで見張られ、会話も聞かれていて、決められたスケジュール通りに生活しなければ、すぐに警告のメッセージが来る。

彼らの支配下に居る限り、私達にとって自由に無い。

以前は、あの生活が普通だと思っていたけれど・・・父のノートを読んで、彼らの生活を実際に見て、彼らに支配されている事をはっきりと知った。

知る事はショックだったけれど、だからこそ抜け出したいと思えた。

「半年も居るとね、屋敷で働いてる人達とも少しは繋がれるようになるよ」

「本当?挨拶しても誰も返してくれないし、機械と接してるみたいだったけど」

「私も最初はそうだった。おそらく会話は禁止だから。それでもあの人達の中にも色んな個性の人が居て、本当は屋敷から抜け出したいと思ってる人も居たよ。長く居ると少しずつ分かってくる」

「それはそうだろうね。私も一度、すごくショックな光景を見たから。今日もそうだけど、それより前にも・・・」

使用人の制服姿の若い男性二人が、脱出計画を話していた時すぐに殺されたらしい場面。私はそれを見てしまった。

明日香ちゃんにそれを話すと、そういう事があそこでは度々あったと言う。

「いつも助けられなくて、ただ見ているだけでどうする事も出来なくて、

本当に悔しかったし悲しかったけど」

「遠隔で何か操作しているとしたら、周りに誰が居てもどうする事も出来ないよね」

「屋敷で働いている人達はおそらく皆んな、体にマイクロチップ入れてるから・・・それだと、自分の生殺与奪の権利を握るのは、雇い主側って事になる」

「私は、お父さんがそれを知ってたから助かった。マイクロチップ入れるの止めてくれたし。普段あんまり感情出さない方なのに、あの時だけはすごい剣幕で言われたから今でも覚えてる。私はその頃何にも知らなくて、入れたら色々と便利なんだろうぐらいに思ってたし」

「表ではいい事しか言わないからね。ほとんどの人はそう思うよ。もしあの時、流行りに乗ってマイクロチップなんか入れてたら、希望ちゃんも私も今頃生きてなかったからね。逃げたと分かった時点で即消される」

「ほんとだね。怖すぎる」

その時は何気ない決断が、後で生死を分ける。

止めてくれた父に本当に感謝だ。

明日香ちゃんは、じっくり半年間かけて脱出を計画していて、私よりもかなり多くの事を知っていた。

屋敷から通じる地下通路が、どんな風になっていて、どうやったら市街地に出られるか。

市街地に出たら、そこからどっちへ向かえば山間部を目指せるか。

塀の向こうの市街地は、どんな形で住居が並んでいるか。

市街地と彼らの居住地を隔てる塀は、どこまで続いているのかと思うほど長かった。

いくら履き慣れた靴でも歩き通しで足の裏が痛くなってきた頃、明日香ちゃんが、自分はここから一旦市街地の中に向かうと言ってきた。

そこに住んでいる母親と会って合流するためで、私に無理について来てとは言わなかった。

「市街地は監視カメラだらけだし、彼らに雇われた人間も多いのは知ってるよね?ここでグズグズしている間に捕まるかもしれないし、真っ直ぐに山間部へ向かった方が逃げ切れる確率は高いかもしれない。ここまで一緒に居られただけでも随分と心強かったから、本当にありがとう。ここからは、別行動で行く?後で会えるかもしれないし」

「私の事考えてくれてありがとう。だけど、良かったら一緒に行くよ。一人より二人三人の方が、何かあった時も対処出来る気がする」

「分かった。ありがとう」

私達は、二人で連れ立って市街地の奥へと進んだ。

信用スコアFランクの人達の居住区から、Eランクの人達の居住区へ、そこを抜けてさらに先へ進んで行く。

「私達の住んでた所と、ほとんど同じだね」

私と父が住んでいた場所と同じような、集合住宅がズラリと並んでいる。

「集合住宅の形って全部一緒だから。先に場所の見当つけてないと、多分迷うと思う」

「そうだよね。今は暗いし余計わかりにくいかも。まだかなり先?」

「もう近いはず。この辺りは見覚えあるから・・・」

言いかけて、私の一歩前を歩いていた明日香ちゃんが突然振り返って方向を変えた。

「見つかったかも。逃げよう」

小声でそう言ったあと、すぐに走り出した。

私も続いて走った。

私は全く気がついてなかったけど、誰か潜んでいたのか。

「先回りされたかも」

路地に逃げ込んでから、明日香ちゃんがそう言った。

「私がお母さんに会いに行くって予測されてたかも。希望ちゃんは家に今誰も居ないから帰らないだろうし、家に寄るとしたら私だから。追手が先回りして待ってたみたい。黒い制服の人が二人見えた」

黒い制服というと、私がここから移動する時も家に来た彼らか・・・汚れ仕事を請け負っている人達のようだから、逃げた人間を捕まえるのも彼らの役目なのかと思う。

「暗闇であの格好だと見つけにくいよね。こっちが不利か」

「そうでもないよ。彼らだけ夜目がきくわけでも無いし。この辺りの道なら、多分私の方がよく知ってる」

「お母さんとの合流は?」

「これくらいの期間で私が逃げてくる事は、予想して待っててくれるはずだから。いつでも出られる用意はしてくれてると思う」

「家が分かるなら表通りを避けて、とりあえず行ってみる?」

明日香ちゃんが見たと言う追手の二人は、路地に逃げ込んだ私達を見失ったらしい。

この辺りは似たような道ばかりで、一度見失うと見つけにくいはず。

私は明日香ちゃんの後から走って、お母さんの住む家の方へ向かった。

向かいながら、考えまいとしても最悪の予想が、頭の中をよぎる。

私達の家は、外から勝手に鍵を開けられてしまう。

私は以前それを体験した。

先回りした彼らが、お母さんを拉致して家の中で待ち伏せしているということも、あり得なくはない。

少し先の建物の中から、誰かが走って出てきた。

追手が来た?

そう思って逃げかけた時、明日香ちゃんが「待って」と私を止めた。

「お母さん」

「え?そうなの?」

走ってこっちに向かって来たのは、確かに女性だった。

「良かった。もしかしたらあいつらが先に家に行ったんじゃないかって思って・・・」

明日香ちゃんも、言わなくても考えている事は私と同じだったらしい。

「来たよ。返り討ちにしてやったけどね。来るだろうって前々から予測してたから良かったよ。何にも考えずに普通に暮らしてたら、間違いなくやられてたと思うけど」

部屋をわざと真っ暗にして、追手が鍵を開けて入ってきたところでフラッシュライトを使って視覚を奪い、その間に鉄パイプで殴り倒したと言う。

なかなか逞しい人だと思う。

お母さんは見たところ40代半ば位で、明日香ちゃんとは全然似ていなかった。身長165センチの私と同じくらいだから、この世代の人にしては大柄で筋肉質。明るめの色に染めた髪はショートカットで、直線的な濃い眉と切れ長の目が凛々しくて、ちょっと中性的な感じ。

明日香ちゃんが、お母さんに私を紹介してくれた。

気さくな人みたいで、すぐに打ち解けて話せた。

「そっちに車隠してるから行こう。歩いて行くよりその方が早い」

「車ってどこで調達したの?」

明日香ちゃんが聞いた。

私達のランクの人間は、個人で車を所有する事は出来ない。

「かっぱらったんだよ。奴らが乗って来た車」

お母さんが運転して明日香ちゃんが助手席に乗り、私は後部座席に乗って後ろから追手が来ないか確認し続けた。

「この車も多分追跡されてると思うけど」

「そうだろうね。それでも行ける所まで行って、山間部に行ったら乗り捨てればいいし」

「遠隔で爆破とかされたらヤバくない?」

「市街地でそれはやらないと思うよ」

「そうか・・・そうだよね。市街地の人達に知られたくないから、派手な追跡はしないとは私も思った。爆破だったら事故で誤魔化せるかと思ったけど、やっぱり目立つもんね」

「山間部でならやるかもしれないから、それまでに車を捨てないとまずいけど」

このまま山間部まで行けたらいいのに。

そう願いながら私は、車の窓から油断無く外を確認していた。

明日香ちゃんのお母さんの家には、勝手に鍵を開けて、黒い制服の二人の人物が入って来たらしい。

明日香ちゃんが逃げたと屋敷から知らせが行き、命令に従って元の住居へ先回りしたのだと思う。

明日香ちゃんのお母さんは、鉄パイプで倒した相手のポケットから車のキーを奪って、近くに置いてあった彼らの車を盗んだ。

この事もおそらくもう知られていると思うし、いつ追いかけて来られるか分かったもんじゃない。

それでも、歩いて山間部へ向かうつもりだった事を思うと本当に助かった。

足の裏が痛いし、足全体が筋肉痛でもう限界な感じ。

普段の生活では、全力で走ったり長距離を歩く事なんて滅多に無かったし。高校の部活以来かも。

山間部に入っても彼らは追ってくるかもしれないけど、歩かなくていい今のうちに出来るだけ体力を回復しておきたい。

視線だけは油断なく外に向けながら、私は痛む足をさすったり揉んだりしていた。

「来てる!後ろから」

追ってくる車が見えて、私は二人に伝えた。

「前からも来てる」

明日香ちゃんが、私の方を振り返って言った。

前後から追い詰めて、諦めさせて停車させるつもりなのか。

それとももっと強硬手段に出て、体当たりしてでも止める気なのか。

昼間なら運送や配達の自動運転の車など沢山走り回っているけれど、この時間になると街中にほとんど車の姿は無い。

今もそうで、他の車は見かけなかった。

多少無茶な運転をしても、他の車とぶつかって事故を起こす可能性はほとんど無さそうに思える。

「運転が荒くなるかもしれないけど、頑張ってつかまってて」

そう言われて座り直した途端、車は大きく揺れた。

車一台やっと通れるくらいの細い路地に入る。

一方通行を逆走しているかもしれないけど、今気にしてるどころじゃ無いのは分かる。

前と後ろから来られたら、横に逃げるしかない。

車は、路地を抜けるとまた別の細い道に入り、さらに途中に分かれ道があればそこに入り、追ってくる相手を翻弄するように複雑に走り回った。

私はすでに方向感覚が無くなっている。

「お母さんは逃げる事だけ考えて。道順は私が把握してるから大丈夫」

「頼むよ」

前で交わされる二人の会話を聞いて、私は安心した。

こっちは何の役にも立ってないけど。

散々路地を走り回った後、広い道路に出た。

前を見ると、道を塞ぐように彼らの車が止まっていた。

「まだ居たのか。しつこい」

再び素早くハンドルを切って、すぐ横の路地に入った。

この道は行き止まりだ。

抜けられない。

おそらく三人同時にそう思った。

その瞬間、こっちに体当たりする気で後ろから追って来ていた彼らの車が、止まるタイミングを失ってそのまま突っ込んでいった。

次の瞬間、道を塞いでいる車に激突して派手な音を立てた。

「一旦戻って。すぐ道があるから」

「了解」

明日香ちゃんが言って、お母さんがバックで車を出し、来た道を戻る方向に走らせる。

路地から出た時にチラッと見えたけれど、彼らの車は二台とも大破したらしい。

それでもあれくらいなら、死人は出てないと思うけど。

すぐには追って来れまいと思う。

「そこ。右に入って。そのまま真っ直ぐ」

「次のところ左。このまま行けば出られる」

明日香ちゃんの言った通り、再び広い道路に出た。

振り返ると、さっきの二台とはまだ別の、追ってくる車が見えた。

けれど、かなり距離はある。

少し引き離してから再び路地に入り、明日香ちゃんの案内で方向を変えながら走った。

「もう大通りに出なくても、この道を真っ直ぐ行けば山の方に行けるはずだけど・・・」

明日香ちゃんの記憶は合っていたらしい。

途中から、同じ形の集合住宅を見かけなくなった。

工場のようなのが沢山ある中を抜けて行くと、ついに山が見えてきた。

「そろそろ車捨てる?」

「山道の手前まで行ったらね」

「あそこから入ったって丸わかりになるけど。まあ仕方ないか」

「山に入ってから道を変えれば大丈夫でしょ」

山道に入る手前で、私達は車を降りた。

私は、さっき車の中にあった懐中電灯を盗って来ていたので、それを使って足元を照らした。

舗装されていない土の道を、木の枝をかき分けながら進む。

並んで歩ける道幅は無く、懐中電灯を持った私が先頭で一列になって進んだ。

歩き始めて数分経った頃、背後で物凄い爆発音が響いた。

私は思わず、ギャーと叫び声をあげて飛び上がった。

さっき乗り捨てた車が、遠隔で爆破されたらしい。

振り返って見ると二人は、頭を低くしてしゃがんだだけで声は立てなかった。

急に恥ずかしくなってきた。

「やっぱりやられたね」

「乗ってなくて良かったよ」

「私達が死んだかどうか見に行くと思うし、その間は時間稼げるね」

「死んでないと分かったらまた追ってくるだろうけど。この道だと車では来れないね」

「今のうち、少しでも遠くへ行こう」

私はまだ体の震えが止まらないのに、二人は平然と話している。

足がガクガクしている事に気付かれないように、私は平静を装って歩き続けた。

土の道を歩くのは、アスファルトの上を歩くのと違って不思議と疲れ方が少ない気がする。

急な上り坂というのでもないし、足元に注意して木の枝を避けながら、慎重に進んでいれば問題無かった。

ある程度奥まで進んだというところで、少しだけ開けた場所に出たので、ここで一旦座って休憩を取ることにした。

照明はこの懐中電灯しかないけど、今日は月明かりだけでもけっこう明るくて、夜の森の中と言ってもそんなに怖い感じはしなかった。

夜中にこれ以上奥まで行くと、道に迷ったり野生動物に襲われる危険もあるかもしれない。

それなら夜が明けるまでもう間も無くだし、ここで少しだけ休んだ方がいいという話になった。

考える事は大体、三人共通らしい。

明日香ちゃんのお母さんは、リュックの中にペットボトルの水を入れて持ってきていて、それを私達にも少しずつ分けてくれた。

体力の消耗と精神的緊張で、喉はカラカラだった。

水をこれほど美味しいと思ったのは、生まれて初めてかもしれない。

私は地下道を探すことだけで精一杯で、そこまで頭が回らなかった。

飲み水の事まで気が付いて、持ってきてくれた事が本当にありがたい。

やっぱり別行動もしなくてよかった。

飲み水も無く一人で山の中を歩き回っていたら、今頃どうなっていたかと思うと恐ろしくなる。

家でお父さんが居なくなって一人になった時の、心細さを私は思い出した。

やっぱり、人との繋がり、周りの人の存在って大きい。

今日は危機的状況の中で会って、相手の顔もしっかり見ていないような状況だったので、やっと少しゆっくりお互いの事を話せた。

明日香ちゃんのお母さんの名前は、みゆきさんと言って幸という漢字一文字で書く。

見た目はもっと若く見えたけど、年は51歳だった。

明日香ちゃんがまだ3歳の頃に、旦那さんは交通事故で亡くなってしまい、働きながら女手一つで子育てをしてきたらしい。

なるほど逞しいわけだ。

「だけど知識の方はさっぱりでね。明日香から聞かなかったら、この生活に何の疑問も無かったし」

「子育てとか仕事とか忙しかったからじゃないですか?」

私は思ったままを言ってみた。

「それもあるけど今思えば、意図的に忙しくさせられてるんだよね。考える暇を与えない。長時間働いてヘロヘロに疲れて帰ってきて、ぼーっとテレビ見て一日が終わる。そうなったら表に出てるニュースしか頭に入ってこないし、何にも考えずに全部信じるからね」

「お母さんだけじゃなくて、ほとんど皆んなそうなんだよね。だから彼らが君臨していられる」

「私もつい最近までそうだったから、人のこと言えないです。父のノートを見てなかったら、多分今でもずっと何の疑問も無くあの生活してたと思うし」

「知らない方が良かったと思う?」

明日香ちゃんが聞いてきた。

「それは思わない。支配者がどういう存在なのか・・・それ以前に支配者が居ることさえ知らなかったけど。知らないでそこに居るのって最悪だと思う。知っててもそこに居たいって私が決めて居るんならいいけど。私は二度とあの生活に戻りたいとは思わない。知ったから、こうやって選べるんだと思う」

私は、父が連れ去られた時の事と、その時見つけたノートの事を、もう一度簡単に話した。

「荷物はほとんど捨ててきたけど、このノートだけは鞄に入れて持ってきたんです。だけど、食糧と水は持ってくるべきでしたね」

「希望ちゃんも多分私と同じような状況だったと思うけど、あの屋敷から持ち出すのは難しいよ。すぐあやしまれる」

「それはそうかもね」

「鞄に重い物入れてたらあんなに走れないし」

背後でガサッと音がした気がして、私は振り向いた。

「誰!?」

突然、近くの草むらから獣が飛び出してきた。

それは低く唸り声を上げていて、今にも飛びかかってきそうに見える。

もしかして狼とか?

冷たい汗が背中を伝い落ちた。

「逃げたらダメだよ。走ったら追いかけてくるから」

幸さんが、小声でそう言った。

そうだ。こういう時、相手を刺激してはいけない。

私は懐中電灯も地面に向けた。

「背中を向けないで。相手の方を見たままゆっくり後ろに下がって」

私は頷いて、言われた通り一歩ずつゆっくり下がった。

獣が現れた方から、再びガサガサと音がし始めた。

今度はさっきよりはっきりと聞こえる。

仲間を連れてきたとか?

私はもう生きた心地がしなかった。

突然、獣が激しく吠え始めた。

この鳴き声って、犬?

狼じゃなくて野犬とか?

だとしても怖いには違いない。

それともまさか追手が、犬を連れて探しに来たとか?

だったら更に最悪。

激しい絶望感が襲ってきて、私は気を失いそうになった。

「どうしたんだい。ウメキチ。何か居るのかい?」

犬の後ろから草むらをかき分けて、小柄の人物が姿を現した。

声からして、どうも老人らしい。

え?追手じゃなかったの?

私は、持っていた懐中電灯でゆっくりと相手を照らした。

小柄なお婆さんが立っていて、その横にはお爺さんも居る。

彼らの前にいるのは、逞しい体つきの黒い犬だった。

「もういいよ。ごくろうさん」

お婆さんは、犬に向かってそう言って背中を撫でた。

「あらまあ。人間が三人も」

「脅かしてすまなかったねぇ。侵入者かと思ったもんだから、こいつは吠えて知らせてくれたらしい」

追手ではなかったし、この人達に敵意は無いみたい。

一気に力が抜けて、私はその場にへたり込んだ。

「希望ちゃん大丈夫?」

「大丈夫。もう終わったかと思った」

二人の住居は、もう数十メートル山奥に入った場所にあった。

時代劇でしか見たことが無いような茅葺き屋根の家。

湧き水が得られる場所が近くにあり、裏には井戸と小さな畑もあるし、山菜なども豊富に採れて暮らしには困らないと言う。

最初見た時夫婦かと思ったけれどそうではなく、二人は兄妹だった。

利兵衛と久栄という名前を教えてくれたので、私達も名乗った。

87歳と85歳と聞いたけれど、動きもキビキビしていて年齢よりずっと若々しく見える。

私達がどうしてここに居るのかも、二人は特に聞こうとしなかった。

今日は疲れてるだろうから休んだらいいと言ってくれて、事情は明日にでもゆっくり聞くからと言ってくれた。

自分達に危害を加えようとする人間かそうでないかぐらい感覚で分かると、ちょっと不思議な事を言った。

私達にしてみれば、もちろん有難い。

普通なら怪しまれても仕方ない状況だと思うし。

二人は生まれた時からこの辺りで育っていて、以前は村人が数十人居る小さな村落だったらしい。

人が街に出て行ったり、老衰で亡くなったりして徐々に減っていき、今では自分達二人しか居ないと話した。

そこには悲壮な感じは全く無く、二人は見るからに健康そうで、暮らしを楽しんでいるように見えた。

ウメキチと呼ばれた犬は二人の愛犬で、元は野生の犬だったらしい。

この辺りでよく見かけるので食べ物の残りを与えたりして、交流を持つうちに居着いたということだった。ウメキチは漢字で梅吉と書くという。

使っていない部屋は物置にしていて狭いからということで、納屋を貸してくれた。

梅吉が番犬として一緒に寝てくれるようなので、とても心強い。

あの場所で座ったまま仮眠を取るつもりでいたので、屋根のある場所で寝られるのはものすごくありがたかった。

今は九月の半ばで、ちょうど季節も良くて寝やすい。

大きめの麻袋をいくつか貸してもらえたので、土間にそれを敷いて鞄を枕にして眠りについた。

走ったり歩いたりで疲れていたのもあり、すぐに眠気がきた。

地面は固いけれど土の温もりがある。

屋敷のあの部屋よりも、何故かこの場所の方がとても心地よく感じた。

翌朝、自然に目が覚めた。

鳥の鳴き声が聞こえ、納屋の戸を開けると心地良い風が入ってくる。

太陽の光が差し込む。山の夜明けだ。

目覚ましの音もしない。

AIからのメッセージも来ない。

体が自然に目覚めた時間に、自分が起きたいと思ったから起きる。

これは最低限の自由だと、父のノートに書いてあった。

最近までそれを知らなかったけれど。

時間なんて気にせず好きなように起きるのは、何と心地いい事かと実感した。

幸さんも明日香ちゃんもまだ寝ているので、私は一人で外へ出た。

梅吉が、後からついてきてくれた。

梅吉と一緒に、朝露の降りた道を歩く。

母家の方に行くと、味噌汁のいい香りが漂ってきた。

玄関の引き戸は開けっ放しだったので、私は中に向かって声をかけた。

「おはようございます。昨日はありがとうございました」

料理をしていた久栄さんが顔を上げて、挨拶を返してくれた。

「納屋の床は固かったと思うけど、少しは寝れたかい?」

「十分眠れました。土の温もりって、なんか気持ちいいんですよね。ほんとに助かりました」

「味噌汁と漬物とご飯で良かったら、一緒に食べるかい?」

「いいんですか。ありがとうございます。いただきます」

昨日の夜は普通に食べたというのに、遠慮する余裕が無いぐらい空腹だった。

珍しく運動したせいかもしれない。

土間の横に一段高くなった畳の間があり、ちゃぶ台が置いてあった。

私も食器を並べるのを手伝ったりしていると、裏の畑から利兵衛さんが帰ってきた。

幸さんと明日香ちゃんも起きてきて、皆んなで朝ごはんを食べた。

土鍋で炊いた玄米、自家製の胡瓜の漬物、玉ねぎの味噌汁というメニューだった。

屋敷で食べた豪華な朝食も美味しかったけれど、それ以上にこういう食事の方が私は好きだと思った。

何だかわからないけど、食べるとすごく活力が漲ってくる。

屋敷の食事では、たしかにすごく美味しくはあるけれど、こういう感覚は一度も無かった。

幸さんも明日香ちゃんも「美味しい」と感激していて、皆んな遠慮無くご飯と味噌汁のおかわりをしてしまった。

梅吉は土間で汁かけご飯を食べている。

お腹がいっぱいになって落ち着いた頃、私達は改めてお世話になったお礼を伝えて、ここに居た理由を話した。

二人は特に驚く事もなく聴いてくれた。

「儂らは生まれてこの方ここしか知らんから。街がそんな風に変わった事も全然知らんかったなぁ」

「ここでは新聞とか取ってないし、テレビも買ったこと無いしねぇ。あ、そうそう忘れるとこだった。そういえば何日前だったか・・・まだそんなに日が経ってないけど、男の人が二人来たよ。今日のあんた達みたいな感じでねぇ」

「ほんとですか?!どんな人でした?」

「もしかして希望ちゃんのお父さんなんじゃない?」

「年をはっきり聞いたわけじゃないけど見た感じ一人は若くて、あんた達よりちょっと年上ぐらいかねぇ。もう一人は年配で、50代半ばくらいだったと思うよ。親子かと思って聞いたらそうじゃなくて、同じように街から逃げてきた仲間だって言ってたよ。他にも居たらしいんだけど、気の毒に途中で殺られたらしくてねぇ・・・」

「追手が来て捕まったんですか?」

「そうじゃなかったらしいよ。逃げ切れたかと思ったら、体に埋め込まれてる何とか言うやつが作動して、急に苦しみ出して死んじまったって言ってたなぁ。恐ろしいねぇ」

「マイクロチップですか?遠隔で操作して、人を殺す事も出来る」

「そうそう。それそれ。ここに来た二人はそれを埋めてなかったから助かったらしい」

私は、スマホに入っている父の写真を二人に見てもらった。

「年配の方の人って、もしかしてこの人じゃないですか?」

「・・・多分、この人に間違いないと思う」

「そうだねぇ。私もそう思う。もうちょっと髭が伸びてたけど」

「あんたに似てもいるし、間違いないだろう」

「希望ちゃん、良かったね!」

「ありがとう。良かった・・・」

私はよく父に似ていると言われる。

この写真は普段の父そのままに映ってる感じだし、二人が父と会ったのは数日前だから記憶に新しいと思うし、きっと間違いない。

家で父の個人識別番号が消えた時も、感覚的に父は生きていると思っていたけど、今それが確信に変わった。

父は一人ではなく、一緒に逃げている仲間も居るようで本当に良かった。

一緒に逃げてきた何人かが、いきなり目の前で苦しみ出して死ぬのはショックだったと思うけど。

私も屋敷に居る時に、その光景を見た。あれはなかなか忘れられるもんじゃない。

「もっとゆっくりしていってくれれば、あんた達とも会えたのにねぇ」

「追手がここに来たら儂らに迷惑がかかるからって、一晩泊まっただけで行っちまったよ」

「水と食糧は少し持って行ってもらったから、2~3日はもつと思うけどねぇ。この山を越えたら海沿いに出るから、そこを目指して行ったよ」

「父にも良くしていただいて、本当にありがとうございました。私もこれから追いかけたいです」

「良かったら一緒に行くよ」

「そうだね。多い方が安心だし」

「ありがとう!助かる」

「もう行くのかい?」

「長く居て迷惑がかかるといけないので。一晩泊めていただいて本当に助かりました」

「朝食ごちそうさまでした。ありがとうございました」

二人にお礼を言って、私達は出発準備をした。

幸いな事に天気もいいし、暑くなく寒くなく歩きやすいと思う。

山を越えて海岸へ抜けるまでの道順も教えてもらった。

利兵衛さんと久栄さんも、十年前くらいまでは何度か通った道だと言う。

この辺りはほとんど開発も進んでいないし、道は変わっていないはずと教えてくれた。

聞いた感じ複雑な道順では無いし、今から丸一日歩けば山を越えられるかもしれない。

「梅吉を連れて行くかい?」

「だけど帰りが・・・」

「梅吉は自分で帰ってくるから大丈夫だよ」

「凄いですね」

「何から何まで申し訳ないけど、それなら頼んでいいですか?」

「いいよ。遠慮しないで」

「ありがとうございます。本当に助かります」

いただいた水と食糧を鞄に詰めた。

リュックを持っているのは幸さんだけだったから、私と明日香ちゃんは風呂敷をもらって食糧を包んだ。

これで今日一日分は十分足りるし、明日まで少しいけるかもしれない。

「梅吉。この人達を海岸沿いまで、案内してくれるかい?」

久栄さんがそう言うと、梅吉はワンと鳴いて尻尾を振っている。

承諾の意思表示らしい。

「それじゃあ頼むよ」

その一言を合図に、梅吉が先に立って歩き出す。

杖代わりになる太い木の枝も一本ずつもらって、私達は出発した。

数分も歩かないうちに、さっきまで居た家の方から煙が流れてきた。

何か焦げ臭いし、パチパチと音も聞こえる。

梅吉が立ち止まった。

すぐに方向を変えて、吠えながら家の方へ走って行く。

「何かあったんじゃない?」

「もしかして家が燃えてるとか?!」

「戻ろう!」

私達も、梅吉に続いて走って戻った。

燃えたのは納屋の方だった。

普段から溜めている雨水を使い、二人が何とか消し止めようとしている。

私達もすぐに井戸から水を汲み上げて、出来る限り手伝った。

納屋は母家と少し離れているので、母家まで燃え広がるのだけは防ぐことが出来た。

それでも、水浸しになった納屋の中は悲惨な状態だった。

昨日泊めてもらった納屋の屋根はすっかり焼け落ちて、中に置いてあった道具や保存食も、ほとんどダメになってしまっている。

柱や壁はある程度残っているものの、修理して元通り使えるようになるまでには相当な時間がかかりそうだ。

「不自然な燃え方だね」

燃え落ちた天井の方を見上げて、幸さんが言った。

「今朝見た時は、火の気になる物なんて何も無かったのに・・・」

明日香ちゃんも、燃えた後の床を隅々まで確認して首を傾げている。

「もしかして・・・上から狙われて焼かれたのかも・・・」

私は、父のノートに書いてあった事を思い出していた。

手っ取り早く広い土地を空けたい時、逆らう人物に対して脅そうとする時、彼らが使う方法。

「だとすると、私達がここへ来た事で・・・」

「迷惑をかけないうちに早く出ようとしたけど、すでに遅かったって事か」

「本当にすみません。こんなに良くしてもらったのに」

私達は一生懸命謝ったけど、二人はあまり気にしていない様子だった。

「謝らなくていいよ。あんた達が焼いたんじゃないし」

「そうだよ。気にしなくていいよ。だけどこの焼け方は確かに変だねぇ。家や納屋が火事になったのは、この年まで生きてる間には何回か見たことがあるけど、普通下から燃えるからね」

「上空から狙われて焼かれたか。そんな事もあるんだなぁ。納屋の方が大きいし、母家と間違えたんじゃないのか?だとすると助かったって事だ」

利兵衛さんはそう言った。

母家は、炊事をするための土間と、一段高くなった四畳半くらいの畳の間が二間だけ。トイレも風呂場も外だし、確かに建物の大きさとしては納屋の方が大きい。納屋は十年前くらいに大幅に修繕したという事で、見た目も母家より新しい感じだった。

上から見ても、この辺りに家の屋根があるのは見えてしまうと思う。

他にも近所には、空き家になったまま放置状態の家が点々と残ってはいるけれど・・・・屋根も手入れされて人が住んでいそうな新しさが感じられるのはこの家しかない。

私達が山に逃げ込んだ先にこの家があるのを知った彼らが、ここを焼いた。

気にしなくていいと言われても、相当な迷惑をかけている気がする。

私達が死んだかどうか確かめに追手が来たら、またさらに迷惑がかかる。

「こうなったら儂らもここを出るとするか」

利兵衛さんが、突然そんな事を言った。

日常の何気ない話をするのと同じ調子で、まるで何でもない事みたいに。

「私も考えてたよ。その方がいいかもしれないねぇ」

久栄さんは、そう言ったかと思うとすぐに部屋の奥へ行き、箪笥から何やら出して揃え始めた。

「あの・・・出るって?お二人ともこの家から出て行くって事ですか?」

この展開についていけなくて、私は聞いてみた。

「追手が来るかもしれないし、ここも焼かれないとは限らないからねぇ。

まあ焼かれたって鍋と釜と布団ぐらいしか無いけど」

久栄さんは答えながらさっさと荷物をまとめて、風呂敷包みを持って土間に降りてきた。

かかった時間はわずかニ分ほど。早い・・・

「私達のせいで・・・」

明日香ちゃんが言いかけると、利兵衛さんがそれを制した。

「それは言いっこなしだよ。儂らが世間の事に疎いから知らんかっただけで、そこまで開発とやらが進んでるなら、あんたらの事が無くても遅かれ早かれここにも来るだろうよ」

「若いとは言わないけど、私らがまだ元気で動ける間に移動できるなら、かえって良かったぐらいだねぇ」

本当に二人は気にしていないらしい。

「この村の人数が減り始めた頃に、海沿いで暮らす事を望んで出て行った人達も居たから。私らと同年代だけどまだ生きてるなら、そっちへ行けば会えるしねぇ。十年前に会った時は元気だったよ」

「ちょっとずつ人が出て行ってついに儂ら二人だけになった時は、ここに残るか移動するか、かなり迷った時期もあったからなぁ。あの時は引っ越さなかったが、今度こそその時期かもしれん」

利兵衛さんも、持って行く物をさっさと風呂敷包みにまとめて、庭に干してある植物、土間にある食糧も持てるだけ持った。

私達三人が、どうしていいか分からずただ突っ立って見ている前で、出発準備が終わってしまった。

出て行くと言い出してからここまで、せいぜい五分程度。

恐ろしく決断が早い人達だ。

だけど・・・ここにも追手が来るかもしれない事、家を焼かれる可能性を考えたら、ゆっくりしている余裕は無い。

これくらいでちょうどいいのかもしれない。

「私達はこの辺りの事何も知らないんで。お二人が道順に明るいならすごく助かります」

二人がもう出て行くことを決めているのを見て取ると、幸さんがそう言った。

確かにそれはその通りで、道を知っている人が居るというのは心強い。

だけどその一方で、高齢の二人が長時間険しい山道を歩くことが、体力的に大丈夫なのか心配でもあった。

実際「この道を行き来したのは十年前までで以降は行ってない」と、ついさっき聞いたばかりだし。

その頃の体力ならまだ何とかいけたのかもしれないけど、年取ってからの十年は大きい。

けれど二人はもう行くと決めているし、今更それを言うのは失礼かなと思い、私は口には出さなかった。

二人がこのままここに居たら居たで、別の意味で危ない可能性を考えると、体力的にきつかろうと出て行くしか無いのかもしれないし。

道を知っている二人が先頭で、私達三人が続き、後ろから梅吉がついてきてくれた。

お年寄りの足に合わせてゆっくり歩くという意味でも、この順番がいいのかなと最初は思った。

けれど歩き始めて一時間も経たないうちに、私の認識は大きく間違っていたことに気がついた。

利兵衛さんも久栄さんも、歩くのが速い。

舗装もされていない凸凹の山道も、慣れた様子でスタスタ歩いて行く。

二人とも、この年代の人としては標準くらいだと思うけど小柄で、歩幅も大きくないはずなのに。

それに80代半ばという年齢なのに。

私は、ついて行くのに必死で歩かなければならなかった。

最初は話しながら歩いていた明日香ちゃんと幸さんも、だんだん口数が少なくなり、ついに無言で一生懸命歩いている。

梅吉が、時々トコトコと私達の前にやってきて「大丈夫か?」という顔をして振り返る。

何とか頑張ってるなと確認して、また後ろからついてきてくれる。

私達って梅吉にも心配されているらしい。

先頭の二人は、余裕で会話を交わしながら歩いている。

「今のところ十年前と道がほとんど変わってない」とか話しているので、道に迷う心配は無さそう。そこはすごく安心した。

朝からずっと天気がいい事も、歩きやすい季節という事も幸運だった。

途中道が狭くなって、獣道のようなところを一列に並んで通らないと進めない事もあったけど。

道を知っていて案内してくれる人がいるのは、すごく心強い。

一緒に歩いてくれる明日香ちゃんと幸さんも居るし、梅吉も居る。

あの屋敷からどうやって抜け出すか考えていた時は、全て一人で何とかしなければと思っていたから。

根拠は無いけれど父が無事に生きている気がするという感覚だけが、唯一の救いだった。

屋敷から出て市街地に行き、そこから山間部を目指せば、どこかで父に会えそうという漠然としたイメージしか持っていなかった。

明日香ちゃんが居なかったら、屋敷から市街地へ簡単には出られなかったと思う。

あそこで手間取っていたら、彼らに追いつかれて捕まるか殺されたかもしれない。

幸さんが居なかったら、彼らの追跡を振り切って山間部までたどり着くことは出来なかったかもしれない。

そして今は利兵衛さん久栄さん、それに梅吉に、大いに助けられている。

食事をご馳走になったり泊めてもらえたことで体力を回復出来たし、道案内のおかげで知らない山の中を迷わず歩ける。

それに二人は、父に会っていた。この事は本当に大きい。

人との出会いって、本当に奇跡の連続だと思う。

あの屋敷から出ること。

そして父に会う事。

この二つをはっきり決めた時から、必要なタイミングで必要な人と繋がれる不思議。

途中でついに体力が持たなくなってきて「もう少しゆっくり歩いてください」と、先頭の二人にお願いしてしまった。

それで少しペースを落としてくれて、四時間ちょっと歩いたところで山頂に着いた。

普段こんなに歩くことは無いので、足が棒のようになっている。

幸いなことに靴擦れは無いけど、足の裏も痛くなってきた。

明日香ちゃんも幸さんも、かなり疲れている様子。

ここまで来ると平らな場所があるので、一旦休憩ということになった。

やっと座れる。

水筒のお茶と梅干し入りおにぎりをもらって、ゆっくり食べていると、疲れた体に再び活力が蘇ってくる。

「今のところ誰も追いかけては来ないみたいだけど、まだ来るかな」

明日香ちゃんが言った。

「燃えた納屋に誰も居ないのを確認したら、また来るんじゃない?安心はできないよ」

幸さんがそう言って、私もその通りだと思った。

「だけど原因はほとんど私なんだよね」

「あの街から逃げたかったのは私達も同じだよ」

「何で原因が希望ちゃんなの?」

「あの儀式の場面を見たのが私だから。彼らにとっては絶対知られたくないことだよね」

「それだったら、彼らだけが特別な生活をしてる事だって同じだよ。知られたら皆んなの不満が爆発するのは間違い無いし。危険区域だとか嘘吐いてる事もそうだよね。私は半年もあそこに居て全部知ってるから、彼らからしたら消したい存在だと思う」

「お父さんのノートに書いてあったけど、立場が上に行くほど人数が少なくなって、トップ近くに居るのはかなり少人数らしいよ。だから、色々バレるのを彼らの方が本当はすごく恐れてる」

「たしかに人数で比べたら一般庶民の方が圧倒的に多いもんね。多人数で反旗を翻されたら怖いからそうならないように、余計な事を知った者は生かしておけないって事でしょ」

「その話、あんたのお父さんからも聞いたよ。街では色々と大変だったんだなぁ。だけど、儂らの村ではそんな事知らずに暮らしてたし、その支配者とやらが居なくても庶民の暮らしは困らないって事だろうよ」

利兵衛さんが言った。

「本当にそうですよね。私はノート読むまで考えた事なくて、上の立場の人が居てくれるから社会が回るんだって信じてましたけど」

「希望ちゃんだけじゃなくてほとんどの人がそう信じてるから、今も彼らが安泰なんでしょ。本当の事が分かったら、もうあんな所に一日だって居たくないけど」

20分くらい座って休んだ後、私達は再び歩き出した。

追手が来ないとも限らないから、あまりゆっくりはしていられない。

今度は山を降りる。

歩き出す前、上るよりは楽だろうと思ったけれど、案外膝に負担がかかる。

少し急な下り坂もあり、足を滑らせないように踏ん張っていると筋力を使う。

滑り落ちて怪我でもしたら大変なので慎重に降りる。

明日香ちゃんと幸さんも私と同じような感じで、辛うじて進むのに一生懸命で、話す余裕も無さそうだ。

無言で不器用に山を降りる私達を、梅吉は今度も心配して時々見に来た。

「山道に慣れてないと下りはかえって疲れるかもしれないけど。慌てないでゆっくりおいで。この辺りも道は変わってないみたいだし、ここからは

分かれ道も少ないし、道順は分かりやすくなるよ」

久栄さんが私達の方を振り返り、そう言って励ましてくれた。

午後になっても晴天は続いていて、天候が崩れそうな気配は無い。

ここを降りて真っ直ぐ進めば、あとは海沿いに出られるはず。

このまま順調に行けば夕方までには山を降りられると、さっき利兵衛さんが言っていた。

明るいうちに目的地まで行けるのはありがたい。

山を越えたら安全というわけではないけれど、とりあえずそこまで行ってから、後のことを考えたい。

それから一時間くらいは、何事も無く歩いていられた。

下り坂にも慣れてきて、余分な力が入らなくなると少し楽に歩けるようになった。

「何あれ?もしかしてこっちに来てる?」

明日香ちゃんが、突然上を見て言った。

さっきから何か音がしてるなあとは思ったけど。

ヘリコプターか。

「追手が上から探してるとか?」

「下にも誰か居て、位置を知らせて捕まえるつもりかも」

辺りを見回したところ、今見える範囲には人は居ないと思う。

気配も感じられない。

「まだ見つかってないのかもしれないけど、道に居たら目立つかも」

「左右に分かれて、茂みの中を進もうかねぇ。もうそんなに遠くないし、この道に沿ってれば迷うことは無いから」

久栄さんがそう言って、私達は歩いていた道から離れた。

足場は悪いし丈の高い草が生えているし、木立をかき分けながら進むのは大変だけれど、捕まるよりはいい。

マムシでも出てくるんじゃないかと心配になるが、今は考えまいと思った。

突然、近くの枝がバシッと音を立てて折れた。

反対側でも同じ音が響く。

「危ない!隠れて!」

明日香ちゃんの声が聞こえた。

何が起きてる?

私は頭を抱えてしゃがみ込んだ。

「撃ってきてる!」

「バラバラに逃げよう!下へ向かって」

さっきのって銃撃だったのか。

しゃがんだまま草木の間から、恐る恐る上を見た。

一度通り過ぎたヘリコプターが、またこっちに戻ってくる。

まさか撃ってくるとは。

位置を確認して捕まえるのかと思っていたら、もっと直接的方法で私達を消したらしい。

「頭を上げるんじゃない。そのままこっちへ」

利兵衛さんが、先に立って草むらを掻き分けながら誘導してくれる。

梅吉が後ろからついてきてくれている。

私は、利兵衛さんの背中を見ながら必死でついて行った。

道の反対側を見ると、久栄さんについて走り降りていく明日香ちゃんと幸さんの姿が見えた。

大丈夫。皆んな無事逃げてる。

間をおかずに、彼らは再び撃ってきた。

すぐ近くの木の幹に弾が当たり、枝が弾け飛んだ。

撃ってきたらすぐに身を伏せて、また立ち上がって走る。

蹴躓いて転びそうになる。

生きた心地がしない。

すぐ近くを弾が掠めた。

私は素早く身を伏せて、再び立ち上がる。

そして一歩踏み出した時、足を滑らせた。

しまったと思った時にはもう遅かった。

草木にぶつかりながら、勢いよく斜面を滑り落ちていく。

落ちるのを止めようとバタバタしてみても無駄だった。

滑り落ちる自分の体を止められない。

利兵衛さんが手を掴もうとしてくれたけれど間に合わなかった。

滑り落ちていくのを止めようとするとかえって怪我をしそうで、途中からもう抵抗するのをやめた。

こうなったらどうにでもなれと思って滑り落ちるに任せていると、太い木の幹に体が引っかかって止まった。

あちこちぶつけて擦りむいて、顔や腕には無数に傷ができた。

服に覆われている部分は傷にはならなかったけれど、多分青あざだらけになっていると思う。

体のあちこちが痛いけれど、骨が折れたりはしていないらしい。

良かった。

これなら歩けそうだ。

私は、ゆっくりと体を起こした。

この木のおかげで止まれたわけだ。

「ありがとう」

私の体を受け止めてくれた大木の幹にそっと触れると、暖かさが伝わってきた。

枝を払ったり杖のように使うために持っていた木の棒も、風呂敷包みも、

途中でどこかに転がって行ってしまった。

たすき掛けにしていた鞄だけが、唯一無事だった。

もう一度滑り落ちないように慎重に、私は一歩ずつゆっくり斜面を移動した。

歩道から随分外れてしまったらしい。

落ちる時石にでもぶつかって切ったようで、右側の髪の生え際がズキズキと痛む。

手で触ると、べったりと血が付いた。

首から上の傷は小さくてもけっこう派手に血が出るらしいから、大した怪我ではないと思う。

けれど、血の跡をたどって彼らに追って来られても困る。

上着を脱いで、それを強く押し当てた。

しばらく押さえていれば、多分出血は止まるはず。

ヘリコプターの音はもう聞こえない。

諦めて去ったのか?

一緒に居た皆んなの姿も見えない。

まさか誰か撃たれたとか無いよね。

無事に逃げてくれたと信じたい。

皆んなも、私が撃たれて死んだか怪我したかと思って今頃心配してるかもしれない。

利兵衛さんは私が落ちたことを知ってるし、皆んなに知らせて探しに来てくれるかも。

だとすると下手に動かない方がいい?

でも、このまま誰にも見つけてもらえなくて夜になったら怖いかも。

私達を消そうと狙っている彼らが、まだ諦めてない可能性だってあるし。

追手が来るのは上空からだけじゃないかもしれない。

ここから真横に移動していったら歩道に戻れるかもしれないけど、それだと目立つし、追手からも見つかりやすくなってしまう。

このまま斜面を降りて、どこに出るかわからないけどとにかく下まで行くか。

そう思って下を見た時、何やら黒い物が、こっちに向かってくるのが見えた。

斜面を駆け上がってくる逞しい体が見えた。梅吉だ。

私を探しに来てくれたらしい。

真っ直ぐに私の方に走ってきた。

安心したら体の力が抜けて、私は地面にぺったりと座り込んだ。

「梅吉。ありがとう」

梅吉に抱きつくと、温かな体温が伝わってきて更に安心する。

梅吉は、慰めるように私の顔をペロペロと舐めてくれた。

血だらけで泥だらけなのに、梅吉は気にしない。

私の体が大丈夫なのか心配している様子が伝わってきたので、私はサッと立ち上がって三歩ほど歩いて見せた。

これを見て梅吉は、私に大きな怪我は無いと分かって安心してくれたらしい。

ついて来いという感じで、時々振り返りながら先に立って歩き始めた。

道を斜めに移動しながら歩道に戻って、そこからは歩きやすかった。

梅吉は迷いなく歩いていくので、私はただ信頼してついていった。

途中からは少しずつ道幅が広くなって、麓に向かっているのが実感できた。

時々上空を見上げて確認しているけれど、追ってくるヘリコプターの姿は見えない。

もし山の方から追手が来たとしても、私より先に梅吉が気がついてくれるだろうと思うと安心していられる。

私は歩くことだけに集中して、一歩一歩山を降りていった。

夕闇が迫る頃、私はついに麓まで辿り着いた。

ここまで来て、梅吉が急に走り出した。

どうしたの?

もしかして向こうに皆んなが居る?

人の姿が見えた。

誰か手を振っている。

日除けの大きな帽子をかぶっていて顔が良く見えないけど。

「希望ちゃん!」

向こうから大声で呼んでくれた。

明日香ちゃんだ。

すぐに走って行って再会を喜びたい気持ちはあるけれど、体がついていかない。

喉がカラカラで息が上がっていて、大声で叫び返す元気も残っていない。

私は手を振って応えるのがやっとで、ゆっくりと歩いて行った。

雑木林の中に、ぽつんと一軒だけ建っている家。

外から見た感じ、かなり傷んでいるようだけど。

正面の戸の横には、大きく枝を広げた大木が立っている。

その木陰には梅吉が居る。

明日香ちゃんは、家の前で手招きしている。

ここに何があるんだろう。

皆んな居るのかな。

明日香ちゃんの表情が明るいところを見ると、悪いことが起きたわけではなさそうだけど。

「希望ちゃん、ボロボロだね。私も人の事言えないけど」

「けっこう派手に落ちたからね。梅吉が来てくれてほんと助かった」

「私もお母さんも落ちたよ」

明日香ちゃんはそう言って笑った。

見ればあちこち傷だらけなのは、私と同じようなものだった。

私が見た時は、まだ二人は久栄さんについて走ってたけど、あの後落ちたのか。

「だけど安心して。皆んな助かったから。それとね。希望ちゃんが、めちゃくちゃ喜ぶことがあるからお楽しみに。入って」

「お父さん!」

部屋の中に皆んなが居て、その真ん中に父が居た。

髭が伸びてるけどそれ以外は、最後に会った時と変わらず元気そうだった。

「良かった・・・」

静かな喜びが、安心感が、ジワジワと湧き上がってきて胸がいっぱいになる。

「ボロボロだな。怪我は大丈夫なのか?」

「骨とかは平気だから。お父さんも大丈夫でほんとに良かった」

自然に涙が溢れてくる。

本当に良かった。

父は生きているという感覚はずっとあったし、利兵衛さん達に聞いてからはそれが確信に変わったけれど。

それでもやっぱり会ってみるまでは、確実に安心は出来なかった。

会えるまでに自分の方が死ぬかもしれない可能性もあったし。

「うまく誤魔化して薬は飲まなかったからな。たまたま誤魔化せる内容の治験だったのは、ただ運が良かっただけだが」

「あのノート、全部読んだよ。見本帳の方のメッセージもわかった」

「そうか。希望だったらきっと、読み取ってくれると信じてたよ」

父は本当に嬉しそうに言った。

「あのノートが無かったら、結婚許可が出た時大喜びしてたかも。移動させられる前にギリギリで読み終えて、これだけは没収されずに守ったよ」

私は鞄の中から、少し表紙が折れて傷んでしまったノートを取り出した。

ここに居る皆んなが、私と父の再会を心から喜んでくれた。

明日香ちゃんも、幸さんも、利兵衛さんも、久栄さんも、会ってからまだ間が無いのに、何だかずっと前から一緒に居たような気がする。

あの後、銃撃を受けながら藪の中を逃げて、明日香ちゃんと幸さんも私と同じように、足を滑らせて斜面を転げ落ちた。それでも運良く見つけやすい位置で止まったから、久栄さんがすぐに行って助けたらしい。

二人とも擦り傷だらけではあるけど、大きな怪我はしていない。

私の方が離れた場所まで行ってしまったようで、利兵衛さんが、自分で探すより早いかと梅吉に頼んだと言っていた。

利兵衛さんと久栄さんは「久しぶりに沢山歩いたねぇ」「まさか撃ってくるとはなぁ」とか言いながら、怖がっている様子も無く疲れた顔さえ見せない。

この人達って本当に、めちゃくちゃ強い。

体力的にも精神的にも。

この場にいる人の中で、一人だけ初対面の人が居た。

父と行動を共にしてきた男性。

私以外の皆んなはちょっと前にもう会っているものだから、私が入って行った時は特に紹介もされなかった。

明日香ちゃんが途中で「そう言えば初対面だよね」と気がついて紹介してくれた。

「この人は翔太さん。希望ちゃんのお父さんと一緒に居た人だよ」

「はじめまして」

私が挨拶すると、その男性は笑顔で答えてくれた。

「こんにちは。はじめまして。お父さんとそっくりですね。最初見た時娘さんだってすぐわかりました」

「よく言われます」

翔太さんは、私より7歳上の32歳だった。

仕事は建築業で、機械の修理を仕事とする父とは職人同士、話しも合ったらしい。

体格がガッシリしていてちょっといかつい感じなので、知らなかったらパッと見は近寄りにくいかもしれないけど。

笑顔は人懐っこい感じでとても素敵なので、私は初対面から惹きつけられた。

翔太さん含めここに居る人達は皆んな、会ってから間もないのに何の違和感も無く打ち解けている感じ。

同じように命懸けの逃走を経験してきたからかもしれない。

そういえばお互い名前もちゃんと知らなかったねと言いながら、それでも話が盛り上がっている事に皆で笑った。

あらためて全員が自分の名前を言って、父も「広一」という名前を皆んなに伝えた。

皆んな下の名前しか言わない。

これでも十分通じ合える。

治験の途中で脱走してきた時、父と翔太さん以外にあと2人居たらしい。

利兵衛さんと久栄さんは、少し前に父からこの話を直接聞いていた。

父達が参加させられたのは新薬の治験で、普通に生活しながら時間が来たら薬を飲むというもので、監視はそれほど厳しく無かったらしい。

普段居る住居よりも広い場所で、食事も普段の配給の物よりいい物が出るので、逃げようと考える人など滅多に居ないからだろうという事だった。

私が、Aランクの彼らの敷地内に行った時に見聞きした状況と似ている。

そうでなくても、つい最近までの私も含め、この世の中のシステムが普通だと考えている人間がほとんどだから。

逃げるなんていう発想は、まず持たないと思う。

それでも、父と同じように何かのきっかけで疑問を持ったのか、逃げたいと考えている人はゼロではなかったらしい。

治験を行う施設に行って数日経った頃、同じく治験に参加していた中の数人で、その意志を確認し合えたという。

監視役の者達の多くが居なくなる時間帯を狙って脱出。

何が生死を分けたかというと、体にマイクロチップを埋め込んでいたか否か。

逃げた事が知られたら、すぐに遠隔操作で始末される。

ほとんどの人間に対してこれが出来るから、施設では普段それほど頑張って監視していないという事もあると思う。

私達にしても、もしマイクロチップを入れていたら今頃ここにいなかったはずだし、支配層の彼ら以外は皆んな同じ事だ。

マイクロチップを入れていなかったという事も、ここに居る全員の共通点。

その選択があったから、誰も消される事なくここで会えて、この繋がりが出来た。

私の場合は、マイクロチップを入れる事に反対してくれた父のおかげだ。

この家は、以前は別荘か何かだったような造りで、使われないまま放置されて年月が経っているような状態だった。

管理会社の連絡先も何も書いてないし、売り物件なのかどうかも不明。

鍵は一応かかっていたけれど、簡単に開けられそうな物だったから父が開けたらしい。

錠前破りということになるし犯罪なんだけど、私達も逃げてくる間に色んな事をやってきている。

逃げ切ろうと思えば、それくらいは気にしていられない。

「これで逃げ切れたと思う?」

明日香ちゃんが言った。

「もしそうなら、このまま皆んなで暮らすのもありかもね」

なかなかいいアイデアかも。

このメンバーなら、何となくやっていけそうな気がする。

「ここの持ち主が来たらヤバいよ」

幸さんが言った。

たしかにそれはそうだよね。

「その前に移動すればいいんじゃない?」

明日香ちゃんは楽観的だ。

「だけど・・・移動するとなるとお金が要るよね。少しは持ってるけど、使ったらバレるし」

一銭も使わずに移動するのは難しい気がする。

「奴らが現金を無くそうと必死だった理由がこれだからな。キャッシュレスにして数字だけで管理すれば、誰がどこで何を買ったかすぐに把握できる」

ノートにも書いていた事を父が言った。

「たしか犯罪防止って理由だったよね。まあ彼らからすれば、今の私達って全員犯罪者なんだろうけど」

「彼らの作った世界と関わる限りはね。だけど離れたら関係ないでしょ」

明日香ちゃんは、またしても楽観的なことを言ってくれる。

「そんな事できるの?」

「それで生きてきた人がここに二人もいるじゃない」

「そうか・・・」

利兵衛さんと久栄さんは、個人識別番号も持ってないし、信用スコアのランク付けもされてない。

AIの監視システムも付いてない家で、何不自由無く暮らしている。

「儂らは昔ながらの生活だからなぁ。若い人だったら不便で大変かもしれないが」

「慣れてるとこれで何ともないし、けっこう快適なんですけどねぇ」

電気、ガス、水道の契約もせず自給自足。

その話は、二人の家でお世話になった時に聞いていた。

保険証も無いのかと驚いて聞いたところ、病院に行った事が無いから保険証の事など考えたことが無かったと笑っていた。

1ヶ月前だったら考えもしなかったのに、不思議と今は・・・そんな生活を私もしてみたいと強く思う。

「だけど、利兵衛さんと久栄さんはいいとしても、個人識別番号がある私達って全員、個人情報完全に把握されてるよね」

「銃撃があった時に三人とも足踏み外して落ちたじゃない?あれで、弾に当たって死んだって思ってくれてないかな」

「それは私も考えたけど、死んだかどうか確かめに来るよね。多分」

「来るとしたら明日じゃないかな。夜中に山を捜索するまでは、多分しないと思う」

翔太さんが言った。

たしかに、ここで話している間にも時刻は夕方から夜へと移っていた。

「今日はここで休んで、夜が明けたら知り合いに会いに行ってみるよ。前に行ってから十年経ったし、同じ場所に居るかどうか分からんが。船を出してもらえたら移動出来るかもしれない」

利兵衛さんが提案してくれた。

「私らの事は向こうの情報に無いわけだし、多分顔もはっきり見られてないし、もし見つかっても大丈夫だと思うよ」

久栄さんもそう言ってくれる。

そこまで世話をかけてしまうのはどうかと思い、皆で話し合ったけれど、結局他にいい案も浮かばなかった。

この建物は何年も、もしかしたら何十年も掃除などしていないらしい。

床のあちこちにカビが生えているし、埃が積もってザラザラしていて相当に汚れていた。

外の地面の方が、よほど清潔なんじゃないかと思えるほどだ。

それでも、追手が来た時の用心ためには、ここで寝た方がいいという話になった。

麻袋とか風呂敷とかビニールシートとか、持っている物を出し合って床の上に敷いた。

幸い寒くもないし、掛け布団が無くても気にならない。

歩いたり走ったり山の斜面で足を滑らせて落ちたり、かなりの運動量だったせいか、体中の筋肉が悲鳴をあげている。

鞄を枕にして横になると、すぐに眠くなってきた。

翌朝、目を覚まして周りを見ると、皆んなもう起きていた。

利兵衛さんと久栄さんは、早朝まだ暗いうちに出発したということだった。

梅吉には、こっちに残って皆んなを守ってくれと頼んで行ったという。

今は6時半過ぎだ。

空を見ると、昨日と違ってどんよりと曇っている。

「今のところ追手が来た様子は無い」

外を見回りに行っていた父が、帰ってきてそう言った。

「まずは山に入って死体があるかどうか確かめるはずだし、その間くらいは時間の猶予があると思う」

「どっちにしろいつまでもここに居るわけにはいかないよね」

幸さんが言う。

確かに、追手が来るのは時間の問題だと思う。

利兵衛さんと久栄さんは出かける前に、知り合いの家がどの辺りにあるかは教えてくれていた。

とりあえず全員で、その方向に向けて歩いていくぐらいしか今は思いつかない。

父が戻ってから数分後に、梅吉も戻ってきた。

危険を知らせる時は吠えて警告してくれるので、普通に戻ってきたということはまだ危険は無いのかと思う。

最後に翔太さんが戻ってきたのは、それから30分近く経ってからだった。

「俺達が逃げ続けてることは、おそらく奴らに知られてると思う。騒ぎになるのを避けてんのか、大々的に探したりはしない様子だけど。通行人を呼び止めて何か見せて、聞いて回ってる奴が居る。俺が気付いただけでも五人は居た。あまりしつこく観察してるとこっちが見つかる恐れもあるし、適当に切り上げて戻ってきたけど」

見回りに行ってきて分かった事を、詳しく伝えてくれた。

翔太さんは奴らに顔を知られていると思う。

父と同じく髭が伸びだことで少し人相が違って見えるだろうというのと、帽子を目深に被って顔を見られないようにしたと言うけど。

それでも見つかる可能性は十分あるし、適当に切り上げて帰ってきて正解だったと思う。

「警察の聞き込みみたいな感じでやってるんだね」

明日香ちゃんが言った。

「完全に犯罪者の扱いだよね。まあ彼らから見たらそうなんだろうけど」

「五人一緒に居たら目立つかな」

「それはそうかも。一人ずつバラバラに逃げて、向かう場所だけは決めておくのはどう?」

もう一度全員で、利兵衛さんと久栄さんが言っていた場所を確認した。

ここよりも、かなり海岸線に寄った場所。

船を出せる場所なんだから当然そうか。

まずは海岸まで歩いて、そこから更に海岸線に沿って、かなりの距離歩かないといけない。

その知り合いが今も同じ場所に居るのか、会えるかということ自体確かではないけれど。

うまくいきますようにと願うしかない。

そして、もしうまくいかなくても、奴らの支配から離れることだけは絶対に諦めない。

必ず何か方法はあるはず。

数分ずつ間を空けて一人ずつ出ようかと話している時、外から人の話し声が聞こえてきた。

声の感じから、若い男女が数人で歩きながら、賑やかに話している。

こちら側は、その声が聞こえて来ると同時に話すのをやめた。

相手が誰か、何を話しているか確認しておきたい。

私は窓の側まで行って、そっと戸外の様子を覗いて見た。

歩いているのは男性が二人、女性が二人。カップルかな?

家の裏手の方から近付いて来ている。

この辺りに遊びに来てる人達みたいな雰囲気だし、追手とかでは無さそうだけど。

「どうする?このままやり過ごせば大丈夫と思うけど」

私は小声で皆んなに伝えた。

鍵は壊したあとで、内側からも掛けられない。

「外から見たら空き家にしか見えないし、普通に通りずぎるんじゃない?人が近くに来たからって逃げたら余計に怪しまれるし」

私達は、息を殺すようにしてその場にじっとしていた。

外から、話し声が聞こえてくる。

「ねぇ。ここって空き家?」

「ボロボロだからね。誰も住んでないでしょ」

「幽霊とか居たりして」

「やめてよ。変なこと言わないでよ」

「ちょっと入ってみる?」

「勝手にそんなことしていいの?」

「誰も見てないし」

「ほんとに幽霊とか居ても知らないからね」

最悪だ。

入ってくるかもしれない。

この家には勝手口などは無いし、窓から出れば見られるし。

家の中に隠れられるほどの場所も無い。

それ以前に、ここまで近くに来られてから下手に逃げたり隠れたりすると、かえって怪しまれて面倒なことになるのは目に見えている。

だけど、玄関から入ってこられたら確実に鉢合わせてしまう。

父が、立ち上がって玄関の方に歩いて行った。

私達の方を振り返り、頷いて見せる。

任せてくれという事なのか。

おそらく扉のすぐ前あたりで、入ってみようとか幽霊がどうとか、外の人達はまだ話している。

父は、玄関の扉を中から押して開けた。

「ぎゃああああ!!」

「開いた!!」

「何?!」

扉の近くにいた四人は驚いて飛び退き、父の方を見た。

そこに居るのが幽霊でも何でもなく普通の人間だと分かって、少し落ち着きを取り戻したようだ。

「驚かせて悪かったな。外で話し声がするもんだから・・・」

「すみませんでした。人が住んでると思ってなくて」

「ごめんなさい」

四人は慌てた様子で口々に謝った。

「謝らなくていいよ。俺達も住んでるわけじゃないから」

父が「俺達」と言ったことで四人は、他にも人がいると認識したようで家の中に目を向けた。

私達は、特に隠れるでもなく積極的に出て行くでもなく家の中に居た。

「移動で最近来たばかりで、この辺りの事はよく知らないんだよ。今日は、行っていい範囲内でちょっと散策しようと思ってね。通りかかったらここの扉が開いてたから、何の建物だろうと思って入ってみだんだ」

父はスラスラと作り話をした。

聞いていて嘘っぽくは聞こえないし、このメンバーだと全員家族に見えなくもない。

うまく誤魔化せたかなと思う。

「そうだっんですね。良かったぁ。さっき幽霊がどうとか言っちゃったし。住んでる人が聞いてたらめちゃくちゃ失礼な話だし、怒らせたかもって思って焦りました」

女性の一人がそう言って、笑いが広がった。

結局全員で外へ出て、しばらく建物の前で皆んなで話した。

私達のことは勝手に家族だと思ってくれてるみたいで、それならその方がいいので誰も否定しなかった。

彼ら四人も、遊びに来ているだけでこの辺りの住人ではないと言う。

服装や持ち物からして見るからにお金持ってそうだし、信用スコアBランクあたりの人達かなと思う。

船を持っている友達がこの近くに住んでいて、今日はその友達との待ち合わせ場所に向かう途中だったと言う。

連絡を取り合って場所を聞いて、歩いていたら途中にこの建物があったから、ちょっと気になって近付いてみたということだった。

今、二人の友達が船の方に居るらしい。

ここから真っ直ぐ海岸沿いまで行った場所で待ち合わせだから、もし行く方向が同じなら乗っていくかと聞いてくれた。

「ほんとですか?五人も乗って邪魔にならないんなら、乗せてもらえたら嬉しいけど」

明日香ちゃんが言った。

「気にしないでください。どうせ船を出すわけだし、ちょっと人数増えたって同じですから」

男性の一人が、笑顔でそう言ってくれた。

「ありがとう。助かったぁー。普通に歩くつもりでいたし、乗せてもらえるなら有難い」

幸さんも、長距離歩くのはもう辛いようで喜んでいる。

たしかに有難い。

昨日からの疲れが抜けてないし、私もこれ以上あんまり歩きたくない。

利兵衛さんと久栄さんが言っていた場所は、海岸線に沿ってさらに長い距離を歩かないといけない。

それしか手段が無いと思ってた時は普通に歩く気でいたけど、楽な方法が目の前に来たら乗りたくなる。

いつ追手が来るかわからないし、ここから早く離れたい。

本当は、誰にもあんまり顔を見られたくないんだけど。

この人達が何も気が付いてないなら、大丈夫か。

行く方向が同じでついでだという事なら、大して迷惑はかからないかと思う。

海岸線まで歩きながら話して、結局乗せてもらう事になった。

ここから近い場所で、漁村があって船着場がある所というと一ヶ所しか無いらしく、聞けば私達が行こうとしている場所と同じだった。

利兵衛さんと久栄さんの知り合いも、きっとその村に居るんだと思う。

確実に居るかどうかはわからないけど、もし居てくれて船を出してくれたら、そこからさらに別の場所へ逃げられる。

海岸に近付いていくと、夏の間だけ営業しているらしい店もあり、山の麓よりは少し賑やかな感じになってきた。

それでも海水浴シーズンはもう終わっているので、人はほとんど歩いていない。

その事にホッとする。

私達が逃げて居なくなった事は、世間一般には公表されてないと思うから、人を見るたびに恐れなくていいんだけど。

一つだけ心配なのは、こうして歩いているうちに、もしも追手が来たらどうするかという事。

四人には申し訳ないけど、そうなったら黙って一目散に逃げるしかない。

今更本当のことなんて言えないし。

海岸沿いまで来ると、美しく整えられた景色が広がっていた。

店もあり、遊歩道もあり、海の中に突き出すような形で作られているテラスがあった。

船も沢山あって、どれも想像していたより大きくて美しい。

もっと田舎で、もっと自然な感じを想像していたので驚いた。

確かに綺麗なんだけど、あまりいい感じがしないのは、人工的な場所だからかもしれない。

支配層の彼らの手が入っているように思えてしまう。

実際そうなんだろうけど。

「綺麗なところだね」

「整いすぎてて意外」

明日香ちゃんも幸さんも、悪くは言わないけど感じていることは多分私と同じなんじゃないかと思う。

何となくそれが伝わって来る。

父と翔太さんは、それ以前にこの人達を信用していない。

それも何となく伝わって来るから分かる。

話しかけられれば適当に合わせて話すし、船に乗せてもらうことに反対はしなかったけど。

梅吉も、この人達には決して寄っていかない。

父と翔太さんが、信用していないにも関わらず船に乗ることを避けなかった理由までは、私には掴めなかった。

案内された船は、想像していたよりずっと大きくて美しかった。

「ちょっと曇り空だけど、雨は降らないみたいですし」

「甲板に居る方が気持ちいいかも」

「いい景色が見れそうですね。ありがとうございます」

「僕達は下に居るんで、どうぞ上でゆっくりしてくださいね」

「30分くらいで着いちゃうんで、ちょっとの時間ですけど楽しんでください」

四人は下に降りて行って、私達は甲板に上がった。

彼らの友人が操縦しているらしく、間もなく船は動き出した。

空が曇っているとはいえ潮風が心地良く、遠くまで見渡せる。

何となく感じる違和感で気持ちがスッキリしなかったことも、一瞬忘れてしまうくらいの気持ち良さ。

「泳げない人は居ないかな?」

父が皆んなの顔を見ていきなり聞いた。

私は泳げるし、皆んな大丈夫みたいだけど、何でこんなこと聞くんだろう。

泳ぎに来たわけでも潜りに来たわけでも無いのに。

「沖へ出る前に、飛び込んで泳ぐぞ」

父は、船の進行方向を指した。

「泳ぐ?!何で?!寒いし水着とか持ってないし」

利兵衛さん達と約束した場所は確かにそっちだけど、せっかく船で移動できるのに何でまた・・・

「邪魔になる服は出来るだけ脱いで、岸から見えにくいこっち側から行くか」

翔太さんまで、当然のようにそんな事を言った。

もしかしてここへ来るまでに、こっそり父と二人で打ち合わせてたのかもしれない。

「今のところ追手は来てないんじゃない?」

幸さんが聞いた。

追手が来てるのだとしたら、私も気が付いてなかった。

実は彼ら四人が支配層側の人間で、私達の事を上に報告してるとか?

もしかして船が着いた途端、そこに彼らの手下が待ってるとか?!

下に彼らが居るなら聞こえてはまずいと思い、私は声に出しては言わなかった。

だけど父と翔太さんはさっきから、普通の声で話してるけど・・・

「あの四人は、乗ると見せかけてすぐ降りたに違いない。おそらくもう居ない。それに自動操縦で、彼らの友人なんて最初から居ないと思う」

「まさかそんな事って・・・」

私が驚いているうちに、明日香ちゃんと幸さんは走って確かめに行った。

「ほんとだ。誰もいない!」

「こっちも無人だよ!」

「騙されたって事?」

「少しは気付いてたんじゃないのか?」

父がそう言って笑った。

「何となく違和感はあったけど、まさかそこまでとは。このままぼーっと乗ってたら、降りた場所で捕まるとこだったね」

「その可能性もあるが、奴らはそれよりもっと早く決着をつける気かもしれない」

「え?どういうこと?!」

「だから早く降りた方がいい」

「荷物は全部捨てよう」

「これだけは持って行くからね」

わけがわからないまま、私は上着と靴を脱いだ。

Tシャツとジーンズなら、何とか泳げると思う。

父のノートをビニール袋に入れて、借りた風呂敷に包んで背中に結え付けた。

9月の海だ。

冷たそうだけど、きっとそんな事は言っていられない事態なんだと思う。

一つだけ気になっていた事を聞いてみた。

「お父さんも翔太さんも、あの人達の事信用してなかったよね。そこまでは分かったけど、何で船に乗るのやめようとしなかったの?」

「俺達が死んだと思うまで執拗に追って来るなら、これが逃げるチャンスでもあるからだよ」

なるほど。父の答えを聞いてやっと納得した。ここで逃げるつもりらしい。

「天候も俺達に味方してくれたな」

翔太さんは、そう言って空を見上げた。

どんよりと曇っている上に、霧がかかっている。

岸からこちら側は、きっと見えにくいと思う。

私達四人と梅吉が、次々と海に飛び込んだあと、船はそのまま先へ進んで行った。

あっという間に距離が離れて行く。

そういえば、聞いていた進行方向より斜めに少しずつ沖の方へ向かっている。

外から見るとそれが分かるけれど、乗っている時は気付かなかった。

数分後、凄まじい爆発音が響き、火柱が上がった。

2055年 母のノートと私の日常

ここに座って海を眺めるのが好きだ。

子供の頃からずっと、これは変わらない。

海の色も、空の色も、雲の形も毎日違う。

瞬間瞬間、形を変えていく。

見飽きることが無い。

向こうに漁船が見える。

父が帰ってきた。

近付くのを待って手を振ると、父も私に気が付いた。

同じように手を振って応えてくれる。

今日は沢山釣れたかな。

私は岩から降りて、砂の上を裸足で歩く。

吹き抜けていく潮風が心地いい。

家に戻ると、祖父が畑から帰ってきたところだった。

シシトウ、ナス、ピーマン、トマト、ズッキーニ、キュウリ。

収穫してきた野菜を、カゴの中から出して並べている。

「沢山採れたね。ありがとう」

「暑すぎて枯れた物もあるが、何とかこれくらいはな」

「十分足りるでしょ」

さて今日は何を作るか。

父が獲ってくる魚を見てから考えよう。

母は、涼しいうちに屋根を直すと言って朝から梯子を持ち出していた。

明日香さんが手伝いに来てくれるみたいだし、私が行かなくても大丈夫と思うけど。

今年は梅雨の時期に一度雨漏りもあって大変だったから、屋根も限界なのかもしれない。

今のうちにしっかり直しておかないと。

祖父は野菜を置くと、早速日本酒の瓶を取り出している。

徳利に酒を注ぎ、猪口を二つ。

それと、つまみになりそうな物を探している。

「これ持って行っていいか?」

「いいよ。好きなだけ持って行って」

魚の干物は沢山ある。

食べ物の管理を任させれているのは私なので、祖父はいつも私に聞いてくれる。

シーフードカレーを煮込みながら、私は母のノートを開いた。

随分前に書いた物らしく、表紙の色も変わっている。

整頓していたら出てきたと言って、つい最近見せてくれた。

2030年の日付が書かれている。

母が、ちょうど今の私に近い年だった頃書いたものらしい。

ただの古い日記かと思ってたけど、昨日何となく気が向いて読んで見ると、これが突拍子もない内容だった。

読み始めると、私はすぐにのめり込んだ。

少しでも時間がある時は、これを読むのが楽しみになった。

あまりにも非現実的な内容だし、作り話かと思ったけどどうもそうではないらしい。

日記と言うからには書いてあるのは事実だよねと母に確認したら、もちろん事実だとあっさり返ってきた。

母が嘘を吐く人じゃないのは私も良く知ってるし。

祖父が前に、親友の幸さんのことを「共に死地を超えてきた仲間だ」とか言ってたけど。

「ただの飲み友達じゃないの?何だか知らないけど大袈裟な」って、その時は思ったけど・・・

母のノートを読んで、あれって本当だったんだと確信した。

父と母が出会ったのも、まさにその時だったらしい。

ごく少数の支配層によって完全管理された、何の自由もない世界。

それは、今でもどこかに存在しているのかもしれない。

私にはとても考えられない、監獄のような世界だけど・・・

そういう世界もあるんだなと思った。

母は若い頃、そういう世界を当たり前だと思って生きていたらしい。

今の母を見ると考えられないけど。

祖母が早くに亡くなって祖父と二人暮らしだった母は、祖父のノートから真実を知ったらしい。

支配者の存在。

この世界の仕組み。

自分達庶民が置かれている立場。

私には当たり前の真実であるワンネスということについても、母は20代半ばまで知らなかったと書いていた。

個人識別番号とか、信用スコアとか、AIによる監視システムとか、驚くようなことがあまりにも沢山書かれていて、どこか遠い世界の事のように思える。

だけど紛れもなくこれは国内で起きていたことで、それも大昔の事なんかじゃなくほんの二十数年前の事らしい。

祖父はそういう世の中に疑問を持っていて、その事を書いたノートを母が読んで、今度は母が書いたノートを私が読んでいる。

山の幸にも海の幸にも恵まれた、自然豊かな場所で私は育った。

母のノートに書いてある学校というものには行ったことがないけれど、読み書きや計算など必要な知識は、祖父や両親、近所の人達から教わった。

同世代の友達も近所に十人以上居るし、一緒に遊んだり勉強したりして子供時代を過ごした。

釣りも畑仕事も家の修理も掃除も何でもやれるけど、何と言っても一番好きなのは料理だから、それを任せてもらっている。

皆んなが持ってきてくれる食材を見て何を作るか考える時、メニューを決めて作っている時、私の料理を皆んなが美味しいと言って食べてくれる時、最高の幸せを感じる。

祖父と母が、管理社会から抜け出すと決めてそれを実行して、その時に父とも出会って、他にも一緒に行動した人、助けてくれた人が居て、皆んなでここに住居を定めて・・・その流れがあったから、私という存在が生まれて今ここで生きている。

そう思うとなんかすごく不思議な気がする。

私はここで生まれて育ってすごく幸せだから、この流れに関わってくれた皆んなにありがとうを言いたい。

「真っ黒な煙が上がり、炎が海に広がっていく様子を、私は呆然と見ていた。

あんな豪華な船でも平気で爆破して吹き飛ばすんだと、妙なところに感心したりしながら。

こっちを信用させるためには、それくらいやるのかなとも思った。

だけど・・・今度こそ私達が全員死んだと、彼らは思うに違いない。

幸いなことに波は穏やかで泳ぎやすい。

ゆっくりと泳ぎながら、皆の無事を確認する。

目指す方向は、こっちで合っているはず。

途中から梅吉が一番前に行き、私達を誘導し始めた。

しばらくすると、小さな漁船がこっちに向かって来るのが見えた。

漕ぎ手が一人。

それに、利兵衛さんと久栄さん兄妹。

知り合いには会えたらしい。

そして、私達五人のために船を出してくれた。

本当に有難い。助かった。

私達は一旦、利兵衛さんと久栄さんの知り合いだという漁師さんの所で休ませてもらった。

お風呂を使わせてもらった後、おにぎりと焼き魚、熱い番茶をいただいて、生き返ったような気持ちになった。

ここは、同じ船着場でも最初に見た所とはまるで雰囲気が違っている。

小さな民家が数軒あり、漁に使う船がいくつかあるだけで、おしゃれな施設や遊歩道などは一切見られない。

漁村らしく、ここで人が生きている生活感が伝わってきて、私はこっちの方がずっと好きだなと思った。

ここには、彼らの支配は及んでいないらしい。

さっきの場所とそれほど離れてはいないので意外だったけれど、家が数軒しかないし認識されていないのではないかという事だった。

利兵衛さんと久栄さんに会った時も思ったけれど、彼らの支配が全てのエリアに及んでいるわけではないというのを知って気持ちが明るくなった。

このままここで皆んなで住むというのもありだけど、念のためもう少し離れた方が無難ではないかという話になり、漁師さんに船で送ってもらうことになった。

少し離れても行き来出来ない距離ではないし、ここの漁村の人達とは連絡を取ることが出来るし遊びに来ることも出来る」

「ここに住むようになって、もうすぐ一年になる。

追手が来る様子は無い。

最初の頃は、もしかしたらまた来るんじゃないかと常に警戒していた。

けれど多分、もう大丈夫なんじゃないかと思う。

私達の個人識別番号は消されて、死んだことになってるといいけど。

明日香ちゃんは、流産したことでしばらく体調がすぐれなかったみたいだけど、今はもうすっかり元気になっている。

好きでもない相手の子供を産むのもどうかと思っていたので、これで良かったのかもしれないと話してくれた。

私達が行った場所にも、住んでいる人達は数人居た。

一軒一軒の家は離れているけれど、徒歩で行き来できる程度の距離だ。

ここの住民は全員がお年寄りだったけど、皆さんすごく元気そう。

隠さず事情を話しても嫌な顔をされるような事はなく、人が増えるのは嬉しいとむしろ歓迎してくれた。

皆さん親切で、私達がまだ住む場所が無いのを知って納屋を貸してくれたりテントを貸してくれた。

持ち主不明のようで、どう見ても数十年放置されているボロボロの家があったので、私達は時間をかけて少しずつそこを直していった。

ここの人達に聞いても、ずっと前から空いていて持ち主も知らないという事なので、多分問題無いと思う。

山の麓にあるその家は、徒歩で海岸沿いまで出られる場所にあり、近くに川もあった。

電気ガス水道の契約をせずに暮らしていた、利兵衛さん久栄さん兄妹も、生活のための工夫を色々と教えてくれた。

この場所なら、魚、海藻類、貝、山菜など、食材は豊富にある。

落ち着いたら畑を作る事も出来そうだ」

「翔太さんと付き合い始めたのはいつだったか。

はっきり付き合おうと言ったわけでもないのでよくわからない。

いつの間にかお互いに好きという気持ちが出てきて、気が付いたら一緒にいたという感じ。でもそれだけで十分だと思う。

個人識別番号も無い私達は、結婚という形は取っていない。

ただ、お互いに好きな気持ちがあり、一緒に居たいから一緒に居る。

それだけの事。

そして私達の間には、先月生まれたばかりの娘が一人居る。

考えでみると、もしここで暮らしていなければ、自分の好きになった相手と一緒に住む事さえ無かったわけで・・・それを考えるとゾッとする。

結婚なんて自分で決められるものではなく、許可という名の命令によって決められるものだった。

以前の私は、それを普通だと思ってたわけだけど。

出産は指定された病院で彼らの管理の元、行われるもので、子供が出来ても自分で育てられるわけではない。

生まれた時から子供は個人識別番号で管理され、彼らの持つ商品という扱いになる。

私達もそうだったように。

私は、周りの人達の手を借りてここで出産した。

そしてこれからも、周りの人達と一緒に娘を育てていく。

ここに来てからというもの、時間で管理されることはなく、好きな時に好きな事をして好きなように生きている。

娘もこれから、そんな人生を歩んでいくのだと思うととても嬉しい。

私は人生の途中まで、自由な生活というものを知らなかったけれど、だからこそ、それがどれだけ尊いものか分かったという事も言える。

娘が大人になる頃には、それも教えてあげたらいいのかも」

母のノートには、市街地に居た頃の生活の事、ある日突然祖父が連れ去られた時の事、命令による結婚で移動させられた事など、詳しく綴られていた。

そこで見たもの、体験したこと、そこから逃げた時の事も。

それはゾッとするような恐ろしい内容だった。

おそらく市街地に居るほとんどの人達は、その事は知らないんだと思う。支配層の彼らの正体。

その時の母は祖父とも離れてしまい、見知らぬ場所で一人で考え、行動して、突破口を見つけた。すごい事だと思う。

明日香さんと知り合ったのもこの時だったらしい。

今でも母と明日香さんは親友同士。

明日香さんのお母さんの幸さんは、祖父と親友同士。

母は父と知り合い、恋愛が始まった。

この時の皆んなを助けてくれたのが、利兵衛さんと久栄さんの兄妹。

二人の愛犬の梅吉。

私が子供の頃、すでに90歳を過ぎていた二人はまだ十分に元気だった。

梅吉ももう若くはなかったと思うけど、すごく元気だった。

私が15歳くらいの頃、梅吉が死んでしまい、そのあと続けざまに利兵衛さんが亡くなり、久栄さんが亡くなった。

100歳を超えてもまだ元気だった二人は、最後まで寝込むようなことは無かった。

梅吉もそうだったけど、ある日、朝起きてこないなあと思って見に行ったら亡くなっていた。

私もその時の事はよく覚えている。

エネルギーが肉体から離れて、フッとどこかに行った感じ。

今回の人生という体験を終えて、元々の意識体に帰った。

山でサバイバルな生活してたり、母達と知り合った後も、すごく濃い体験

してるし、きっともう満足したんだろうなあと思う。

祖父は80代後半になったけど、まだ早朝から畑仕事をするくらい元気だ。

幸さんや村の人達と、毎日昼間からお酒飲んで楽しそうに話してるし。

明日香さんは一人を貫いてきた人だけど、最近になって恋人が出来たらしい。

見た目には10歳は若く見えるし、まだまだ恋愛を楽しめるのも分かる気がする。

少数の支配層によって完全管理された市街地から抜け出して、この土地に来て、この家からスタートした皆んなが、今それぞれに人生を楽しんでいる。

そんな中で私は生まれて、子供時代は伸び伸びと育って、ここで大人になった。

村に居る子供達にも、この場所でこれから生まれてくる子供達にも、ここで面白い体験を沢山して欲しいと思う。

周りの大人達のおかげで私がその体験が出来たのと同じように、自由に生きる楽しさを存分に味わってほしいと願う。

母のノートの最後のページには、とても素敵な真実のメッセージが綴られている。

母が祖父からもらったノートにも、同じ事が書かれていたと聞いた。

「私達は肉体が本体ではなく、本体は意識体としての存在で、本当は全ての存在がそこから来ている。

元々は一つの意識から始まり、人間も、他の生き物も、肉体を持たない存在も、そこから分かれてそれぞれが違う体験をしている。

肉体を持っている場合、今の体験をするための乗り物が肉体。

その終わりが来れば、乗り物である肉体は滅びて土に還り、本体である意識は元々の場所へ帰る。

そうやって全てが循環している。それがワンネス」

私は、この肉体を持って唯一無二の体験をするために、ここに生まれてきた。

 

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