見えない檻 前編

自営業者の日常雑記

呼び出し音が鳴っている。

私は椅子から立ち上がって、玄関まで行った。
狭い集合住宅の部屋の中で、わずか数秒で行ける距離。

ドローンが配達してくれた食料の箱を持って部屋に戻る。
常温の方と、青いシールの方が冷蔵庫に入れる方。

それが済むと、再びパソコンの前に座って作業を開始する。

私の仕事はデータ入力で、家から一歩も出なくても全てが完了する。

朝、チャイムが鳴ったら作業を開始し、食事休憩もチャイムが知らせてくれる。
仕事は朝の9時に開始で、昼休憩15分を挟んで夕方の6時に終了。
通勤とか、残業とか、そういうのは無い。

以前の日本では、ほとんどの人が満員電車に乗って通勤していたらしい。
サービス残業といって、賃金の発生しない残業もあったという。
その経験は無いから聞いた話だけど、それって随分ハードだと思うし、それに比べたら今はすごく恵まれてるなと思う。

一昔前は、勤めていた会社が潰れて失業ということも多かったみたいだけど、そういう心配も無い。

今日本国内にある企業は数えるほどしかないけど、潰れる心配なんて無い大企業ばかりだから、その中のどこかの仕事は必ず回ってくる。

自分で仕事を選んだ経験はないけど、それでもちゃんと仕事がある。

ノルマ分の仕事をしている限り、ここに住んでいられるし食べ物も配給で届けてもらえる。

夕方には仕事終了のチャイムが鳴って、パソコンの電源をオフにする。
この部屋は窓が無くて一定の明るさにいつも保たれているから、外が明るいのか暗いのかわからないけど。チャイムが鳴ることで時刻が分かるし、机の上にはデジタル時計もある。

壁の表示を見ると、2030年5月30日という今日の日付の表示の横に、今日の記録が出ている。

今日は仕事の途中トイレに立った回数が3回。

脈拍、心拍数、体温は正常。

作業量は通常通り。良かった。及第点だ。

個人識別番号の表示の横に表示されている、信用スコアの数字を見る。

C-3の表示は変わっていない。

上がってもいないけれど、下がってなくてホッとする。

そういえば明日は月末で、査定がある。

この1ヶ月の感じだと、大体いつも同じだから下がる事は無いと思うけど。

Cランクの中の三段階で、一番下の3はギリギリのライン。

油断するとDランクに転落してしまう。

AからFまで、それぞれがさらに三段階に分かれている。
Aランクはエリートと呼ばれる人達で、私達庶民とは格が違う。特別な頭脳を持ったごく少数の人達。
Bランクは管理職。ここにも、私達庶民では滅多に行けない。Cランク以下の人達を管理する立場にある。
Cランクは管理職補佐。Bランクの人達の仕事の補助的役割。ここまでなら、庶民でも頑張れば行けることがある。私も学校の成績は悪くなかったからここに行けた。ギリギリだけど。

Dランクになると普通業務で、ここの人達が最も多い。

Eランクは出来る仕事が平均以下の人達。

Fランクになると、問題行動のある人、もしくは病気などで仕事ができなくて国からの援助に支えられて生きている人達。

「仕事終わったのか。夕食にするか?」

リビングから、父が声をかけてきた。

「うん。もう終わったし。ちょっと待ってね」

私は立ち上がって、数歩歩いてドアを開けた。

四畳半一間の私の部屋と、それよりもう少し狭い父の部屋と、小さな電磁調理器と流し台が付いたリビングダイニング。

ここはテーブルと椅子を置くといっぱいになって、ほとんど隙間が無い。

父が配給の食べ物を出してきてテーブルに並べていた。紙コップに入ったスープとコッペパン、ミートボール。それにいくつかのサプリメント。これを日に3回で、1日の栄養は足りるらしい。

材料に何を使ってどうやって作っているのかは知らないけど、特にお腹が空くことも無いからきっと足りてるんだと思う。

私は電気ポットでお湯を沸かして、紙コップに注ぐ。

父は、リビングの片隅に置いてある母の遺影に手を合わせた。

朝起きた時も3度の食事の前も寝る前も、これが父の習慣。

私も日に一度は「お母さん。今日も元気でやってるよ」と遺影に声をかける。

父の仕事は機械の修理で、毎日コンスタントに仕事があるわけでは無いからDランクの2。

父は物静かな人で、自由時間には部屋で一人で過ごしていることが多い。

テレビを見るわけでもなく部屋で一人でぼーっとしてたって退屈なんじゃないかと思うけど、それでいいから気にしないでくれと言う。

別に機嫌が悪いわけでもないし、そういう父に私ももう慣れたかも。

リビングには壁に埋め込まれたテレビが設置されていて、ニュース番組の他6つのチャンネルが選べる。バラエティ番組やドラマ、スポーツ、音楽なども放映されていて、私はこれを見るのがとても楽しみ。スマホでもテレビと同じような番組も見れるし、電子書籍も読めるけれど、パソコンを使う仕事で目が疲れている私はテレビの方がいい。

そういえば以前は紙の本というのもあったようだけど、今ではほとんど作られなくなっし、検閲に引っかかった本はどんどん処分されたから今ではあまり見かけなくなった。


母が亡くなったのは、私が大学を出て社会人になって間もない頃だった。

あの時の予防接種がどうも体質に合わなかったのか、それまで元気だったのに急に体調を崩し始めた。私は同じ予防接種を受けていて全く平気だったし、父は一時期体調崩しただけですぐ回復したから、親子でも体質の違いはあるみたい。私が一番丈夫なのかな。それとも単に若いからというだけか。

母は年齢も更年期が来る頃だったし、運悪くそういうのも重なったのかもしれない。

ちょうどその頃、各家庭の電気使用量を測る装置が遠隔で測定できる最新の物にに変わったり、通信システムも最新の物に切り替わって、街中にも新しい機器が取り付けられた。この事に対しても、何か体に合わない気がすると母は言い始めた。

特にスマホを最新の機種に買い替えた時から、全身の倦怠感や頭痛吐き気がひどくなったと言う。
きっと、新しい機種になると使い方が分からなくて、苦労したから頭も痛くなったのかなと思う。
今はもう第五世代の物がほとんどで、第六世代に移行しようという段階なのに、第四世代の物をまだ使ってるような人だったから。
年齢もいってるから仕方ないけど、そういうことになるととことん遅れている人だった。

ネットで調べてみると「今日本国内で使われている物の中で、電磁波が人体に悪影響を及ぼす様なことは無い。科学的データからはっきりしている」というようなことが書いてあり、私は母の気のせいだと思った。

体調が思わしくないと人は色んなことを考えるのかもしれない。

念のために病院へも行ったけど、更年期障害がきっかけで鬱の症状が出ていると診断された。

心療内科へも行って薬を飲むようになったけど、それでもスッキリと良くなることは無かった。

電磁波がどうとか言ったって、いつまでもアナログな物を使ってるわけにもいかないし、通信速度を速くしたり人件費を削減するのにはどうしても必要な事なのに。

私だって、母には昔のように元気になって欲しかった。

でも年齢を考えると、それなりに弱っていくのは悲しいけど仕方ないのかなとも思った。

女性の場合、更年期から急激に体調が変わることは珍しくないらしい。

その次の年に母は、健康診断で乳癌が見つかり、手術のあと抗がん剤治療を続けたけれど三ヶ月後に亡くなった。

この時は今までの人生で一番悲しかった。

父は、私よりももっと辛かったと思う。

それでも、母は十分頑張ったし病気と闘ったし、治るのが難しいならこれ以上長く苦しみが続かなくて良かったのかもしれないとも思う。

日本人の二人に一人以上が癌になることを思うと、これも仕方ないのかもしれない。

年を取れば病気になるのは普通だし、健康なまま天寿を全うする人なんて0.0001%という統計が出ているとテレビでも言っていた。中年期以降は十年二十年寝たきりになるのが普通だということもテレビで言っていたし、それが無かっただけでもラッキーだったのかもしれない。


夕食を食べ終わって、私は戸棚からスナック菓子を取り出した。これも定期的に配給で貰える物で、昆虫のパウダーを使った物で栄養価も高いらしい。

紙パックのジュースを冷蔵庫から出して、私はテレビの前に座った。

「今度のこれ、新しい味の物みたい。お父さんは食べないの?」

「俺はいいよ。菓子はあまり好きじゃない」

「パンも残してたし、体大丈夫?」

母の具合が悪くなり始めた頃から、父はだんだん食が細くなっていった。

精神的ショックも大きかったのか、単に年齢的なものもあるかもしれないけど。

若い頃はスポーツ万能で体力があり、50代以降でも年齢の割に大食漢だったのに。

今でも、還暦を過ぎてることを思うとそれにしては、見た目はまあまあ若いけど。
食欲や体力的なところはやっぱり落ちてくるのかもしれない。

「昔は、畑で採れた新鮮な野菜があったもんだ。あれは美味かったなあ」

父が不意にそんなことを言った。

「そうなの?私はもうあんまり覚えてないけど・・・」

そういえば、十代の頃はそういう物も食べたような気がする。

美味しかったのかなあ。

よく思い出せない。

「俺が子供だった頃は、畑から直接取って食べたりしたもんだ。夏ならトマトとかキュウリ・・・」

父がそこまで言った時、ブザーが鳴り始めた。

壁に埋め込まれた装置で、警告の赤いランプが点滅する。

「今の話題。まずいんじゃない?」

「そうなのか。すまなかった」

鳴り続けるブザーの音に続いて「警告します」というAIの声が響いた。

「すみません。間違えました。取り消します」

「言ったのはあなたではありませんね」

声の識別もされているらしい。

「記憶違いでした。取り消します」

父がそう言って、やっとブザーの音は消えた。

「すまなかったな」

「いいよ。私も気がつかなくてごめん」

話題には気をつけないといけない。

私がすぐ気がついて止めれば良かった。

禁止されている話題の種類は毎月増えていくから、うっかりしてるとついやってしまう。

細心の注意を払わなければ。

「俺は部屋へ行くよ」

「分かった。おやすみ」

「おやすみ」

減点されたかな。

父は最近、今みたいに妙な事を言い始める時が増えた。

あまり何度も減点されると、ほんとにまずいことになるっていうのに。

年齢のせいで認知症が出てきたのかも。

一度病院へ行った方がいいかな。

でも今気にしても仕方ないし、次から気をつけよう。

続く様なら病院へ行けばいい。

私は気を取り直して、テレビの画面に目を向けた。

テレビを見ている時間が、やっぱり一番幸せ。
最新のは音もすごく良くなったし、映像も綺麗。

ここに座って見ているだけで、夢の世界へ誘ってくれる



朝8時に、目覚ましのアラームが鳴った。

設定時間に変更は無かった。

ひとまず安心する。

日常のタイムスケジュールの方は、変更無しなのかな。

けれどまだ確実に安心は出来ない。

日常のスケジュールに変更が無くても、信用スコアの数字は変わっているかもしれない。

月末の昨日、査定が行われているはずで、変更が有れば深夜のうちに変わっていて、今朝見たら違う数字になっているかもしれない。

深夜明け方に一度見に行くという手もあるけど、やっぱり怖くて見れなかった。

どうせ数時間後には嫌でも分かるんだけど。

恐る恐る、壁の表示を確かめる。

私の個人識別番号の横には、C-3と表示されていた。

良かった。

変わっていなかった。

変わっていないで喜んでちゃいけないんだけど。

常に上を目指さなければ。

これからもっと頑張るとして、とりあえず今のランクだけは絶対に死守したい。

特に今年は私にとってすごく大事な年だから。

来月、25歳の誕生日を迎える。

去年の健康診断、適性診断、能力査定の結果、私は25歳を迎えたら結婚許可と出産許可がおりることが決まった。

Dランク以下の人には与えられない特権。

もしランクが下がったらその全てが無理になるから、何としても今のランクには留まりたかった。
もしかしたら、私より上のランクの相手との結婚もあるかもしれない。


父の個人識別番号に目を移した時、さっきまでの喜びが萎んでしまった。

来るべき時が来たということかもしれない。

昨日までD-2だった信用スコアの数字は、一気にE-3まで下がっていた。

回ってくる仕事量が減ったこともあるのかな。

それと、昨日の問題発言もそうだけど父はここ数ヶ月特に、やらかしてしまうことが多かった。

63歳という年齢を考えると、つい昔のことが懐かしくなったりしてしまうのも分かるけど。

特に食べ物の事とか、医療の事とか、通信システムとかお金とか、絶対タブーな内容にも触れてたし。

悪気無いんだろうけど。

国民全体の情報リテラシー向上のために誤情報を排除するのはすごく大切な事だって、テレビでも繰り返し言ってるし。

そこ分かってないと、さすがにまずいよね。

でも、今これを考えても仕方ない。

その分私が頑張って仕事して、そしたら家全体として働きは悪くないって評価してもらえるかな。

父の起床時間は8時半と決められているので、私はそれまでの30分に朝のルーティーンを終える。

服を着替え、ユニットバスに付いている水道で顔を洗い髪を整えて、歯を磨く。
化粧水と乳液で軽く肌を整えて、メイクを終えるのに15分ほど。

配給の食事を戸棚から出してきて、朝はこれの他にインスタントコーヒーを入れる。

数分で食べ終えた頃、ちょうど父が起きてくる。

信用スコアの事で父は落ち込むかなと思ったら、あまり気にしていない様子だった。

壁の数字をチラッと見て「下がったのか」と言っただけで、それ以上この事を話題にしなかった。

「俺が生きていた年月の中では、こういうシステムが無い期間の方がずっと長かったから」と、前にたしか言っていた。

この発言にも警告が入ったけど。

この事に関しては、実際今のシステムが始まったのが割と最近の事なのは私も知っている。

だけど、それを言ってしまうとまるで「このシステムが無くても人間は生きていける」と言っているような印象を与えかねない。

そうなると、公共の利益を損なう反社会的発言ということになる。

朝食を出して並べている父に、私は声をかけた。

「仕事始まる前に、ちょっとだけ出てくるね。お父さん、何か買いたい物ある?」

「買い物か。特に無いよ。気をつけて行っておいで」

父が見送ってくれて、私は玄関を出た。

エレベーターで下に向かう。

この時間出かける人はまだ少ないから、人には会わなかった。

仕事開始時間までちょうど30分ある。

月初めには、前月の評価に応じたポイントがもらえる。
スマホの画面を見ると表示されていて、これを見るのが毎月の楽しみ。

近くのコンビニで、細かく何回も好きな物を買うか、一度で思い切って使ってショッピングモールで服でも買うか。

どっちでもいいんだけど、楽しみは何回もあるほうがいいから、私は大抵コンビニで買い物の方を選ぶ。

一番近いコンビニは歩いて5分で行ける場所にあるので、余裕で行って帰ってこれる。

(お父さん何も要らないって言ってたけど、買って帰ったら食べるかな)

私はあれこれ迷ってからスナック菓子3つと、菓子パンを2つ取って店を出た。出た瞬間に、会計は終わっている。

一応スマホの画面を確認。

買った物と金額が表示されていて、貰ったポイントが今使った分だけ減っている。

コンビニから出て集合住宅前まで戻ってくると、前に止まっていた車がちょうど発信するところだった。

そのワゴン車は私の横を通って、走り去って行った。

あれは役所の車で、人を運ぶ時に使う物だ。

こんなに朝早くから、一体何だろう?

特に何のお知らせもなかった気がするけど・・・・

帰ったらすぐ仕事開始だけど、今買った物をお昼と今晩に食べられるから今日は楽しみが多い。

お父さんには、帰ったら先に渡してあげようかな。

聞いたらいつも「特に要らない」って言うけど「自分のために全部使えばいい」って思ってくれてるからに違いない。それくらいは分かる。

それでも買ってきて強引にあげたら要らないとは言わないし、喜んでくれてるのかと思う。

私はエレベーターで18階まで上がり、ドアを開けた。

「お父さん。お菓子買ってきたよ」

返事は無かった。

入ってすぐ玄関、リビングまで見渡せる狭い空間。

私の部屋も父の部屋も、扉は大抵開けっぱなしにしているし、聞こえているはず。

もしかして具合悪くなって倒れたりしてないよね。

父の部屋を覗いて見ても居ないし、トイレで倒れてるかもしれないとトイレのドアも開けて見た。

「お父さん!お父さん!どこ・・・」

悪い予感がする。

心臓の鼓動が激しくなり、嫌な汗が出てきた。

頭がパニックになってくる。

私が出た後、出かけたとか?

でも出かけるなんて言ってなかったし。

黙って出て行くなんて無いし。

徘徊するような認知症なんかじゃないし。

ちょっと待って・・・さっきの車・・・ここの前に止まってた。

「9時になりました。仕事を開始してください」

AIからの警告のメッセージが流れた。

それどころじゃない。

私は動けなかった。

「開始時間を過ぎています。仕事を開始してください」

ものの数十秒もしないうちに、再びメッセージが来る。

警告のブザーが鳴り始めた。

うるさい!

思いついて父の個人識別番号に目を向けると、信用スコアの数字の横に「移動」の文字が出ている。

やっぱり思った通りだ。

そんなこと聞いてなかったのに。

ランク下がったけどまだEなのに。

だけど、足りない場合は次のランクから補充するというのもたしか決まっていたような気がする。

下のランクの人間が足りなかったってこと?

今予定されている新薬の治験は・・・

私は、パソコンで検索をかけて調べた。

「開始時間を1分過ぎています。仕事を開始してください」

再び警告のブザーが鳴る。

パソコンの前に座っていても、違うことをしているのはAIにバレているらしい。

違うことをした経験なんて無いから知らなかった。

・・・あった。これか。これから感染拡大が予想される新型インフルエンザの治療薬として・・・これもそうか。新型のウィルスに対応する新しいワクチンの・・・

「開始時間を2分過ぎています。仕事を開始してください」

また警告のブザーが2度3度連続で鳴る。

うるさい!うるさい!うるさい!

今までずっと時間通りにやってきて、1分2分過ぎたくらいでこんなに言われるとは知らなかった。

新薬の治験、予防接種の治験のため、合わせてこの地域で千人を集めている。

特にお知らせはこなかったのに。

緊急と書いてあるから今回は特別?

この人数集めるにはFランクの人だけで足りなかったのかも・・・

私が外出してるほんの僅かの間にこんな事になるなんて。

父は、納得して行ったんだろうか。

今の法律では、国家、組織、公の利益が個人の意思よりも優先される。

本人が納得してようがしてまいが関係ないけど。

ついさっきまで、父の信用スコアが下がった分私が頑張ればいいなんて呑気に思ってた。

そんな悠長なことを考えている場合ではなかった。

「警告します!開始時間を3分過ぎています!直ちに仕事を開始してください!」

ブザーの警告音が、ずっと連続で鳴り始めた。

耳障りな音が脳内で反響するようで、叫び出したくなる。

うるさい!

うるさい!

うるさい!

それどころじゃない!

それでも私は、仕方なくいつもの仕事を始めた。

警告のメッセージとブザーの音が止まない限り気が狂いそうだし、仕事を始めればとりあえず止まるなら・・・

頭の中では他のことを考えているのだから、入力のスピードはいつもの半分も無い。

とりあえず最低限やっているだけという感じだ。

開始して15分も経たないうちに、警告のメッセージが来た。

「集中力が途切れています。スピードアップしてください」

こんなことまで分かるのか。

いつも同じスピードでやってきたから、これも知らなかった。

今はとにかく仕事をしよう。

休憩時間まで何とか・・・

焦ってもダメ。

持ち堪えろ。

どうするか考えろ。

治験をやっている施設の場所が分かったとしても、私が一人で乗り込んでいって何とかなるものでもない。

周りに相談出来る人も居ない。

仕事もプライベートも、ずっとパソコンの画面かスマホの画面を見て生きてきた。

人との交流なんて無かった。

そういえばいつから?

もう思い出せない。

ここは集合住宅で周りに人はたくさんいるけど、どんな人が住んでるのかほとんど知らない。

隣の人がどんな人なのかさえ知らない。

それでも今までは、父が居たから良かった。

家の中の空気が、急激に冷えていくような気がした。

不安と心配と恐怖。

言いようの無い孤独感が押し寄せてきた。

夕方の6時まで、何とか頑張って仕事をこなした。

「終了時間です」とパソコンの画面に表示が出て、仕事が終わる。

普段は、終わったらすぐにリビングに行って配給の食品を食べるのに。

今日は気持ちが落ち込み過ぎていて食べる気がしない。

昼もそうだったけど、食べないでいると「食事の時間です」というメッセージが繰り返されるので、無理やり食べた。

味も何も感じないし、食欲のない時の食事は苦痛でしかなかった。

今もまだ胃が重たい感じがして、吐きそうでムカムカする。

多分、今日のことでかなりストレスがかかってるのかと思う。

しばらくボーッとしていると「食事の時間です」というAIからのメッセージが流れた。

私は、重い体を引きずるようにしてリビングへ行き、戸棚から夕食を出してきて無理やり食べた。  

これって、こんな味だったっけ?

味が無くてボソボソして、おが屑でも食べているような気持ちになる。

頭はボーッとしているのに無意識に電気ポットのスイッチを入れていたようで、気がついたらお湯が沸いていた。

カップスープの入った紙コップにお湯を注ぐ。

これも今は飲みたくなかったけど、無理やり喉に流し込んだ。

一人で食事をしていると、昨日までの夕食は父と一緒だった事が思い出される。

気が付いたら涙が溢れていて、私は泣きながら食べていた。

泣いてはいけない。

父はまだ帰ってこないと決まったわけじゃないのに。

治験に行った人達が、どれくらいの期間どこへ行って、どんな内容の治験に協力しているのか、私も詳しい事は何も知らない。

連れていかれるのはFランクの人がほとんどで、たまに人数が足りなければEランクからという感じだった。

なのでこの事が起きるまで私は、自分と父はそれより上のランクだから関係ないし大丈夫と思っていた。

こうなってみて初めて、治験に行った人達のことを考えた。

皆んな、家族が居たかもしれないし、一人だったとしても自分のやりたい事とかあるかもしれないのに。

ある日突然そのお知らせが来て、来たら最後、断るという選択肢は無い。

そんな事を思いながら、食べ終えてしばらくボーッとしていると「シャワーの時間です」というメッセージが流れた。

シャワーなんか浴びる気もしないし、今はこのまま、何もしないでただ蹲っていたかった。

「シャワーの時間です」

またメッセージが流れた。

これでもまだ動かなければメッセージが繰り返され、次には多分警告のブザーが鳴る。

今まで、食事やシャワーの時間を守らなかった経験が無いし知らなかったけど。

食事の時もメッセージが流れたし、警告のブザーの音を聞くのが嫌で、私はのろのろと立ち上がった。

無理やりでもシャワーを浴びて、髪や体を洗って歯を磨くと、少しだけ頭がスッキリしてきた。

「休憩時間です」というメッセージが来て時計を見ると、ちょうど7時。

いつもはこのメッセージが来る前にテレビを見始めるから、メッセージを聞いたのは初めてだった。

今日はテレビを見る気もしなくて、リビングの椅子に座ったまま目を閉じてじっとしていると、いきなりブザーが鳴った。

サイレン音に近い警告のブザーとは、少し音の質が違う。

細く響く、ピィーッという音。

大きくはないけれど、嫌な感じで耳に残る。

「まだ就寝時間ではありません。まだ就寝時間ではありません。まだ就寝時間ではありません。まだ就寝時間ではありません。まだ・・・」

鳴り続けるブザーの音に被せるように繰り返されるメッセージは、私が目を開けて立ち上がるまで続いた。

いつも、寝るまでの休憩時間にはテレビを見るか、スマホの画面で動画を見ている。

いつもと違うことをすると警告がくるらしい。

これも、いつもと違うことをした経験など無かったから知らなかったけど。

実際見てなくても、見ているフリをすれば大丈夫かもしれない。

画面も音量も大きいテレビより、スマホを見ているフリをする方が楽そうに思えたので、私は自室へ向かった。

反対側に、扉を開けっぱなしにしたままの父の部屋が見える。

私は、ふと思いついて父の部屋に入ってみた。

ベッド、机、椅子、仕事道具を入れた棚と、その上に本が20冊ほど並んでいる。

それだけでいっぱいになってしまう狭い部屋。

母が生きていた頃は両親が今の私の部屋の方で、私がこっちの部屋を使っていた。

父は、母が亡くなって一人になった事と、私の仕事には広い部屋が要るだろうと言って代わってくれた。

几帳面な性格の父らしく、ベッドは綺麗に整えられている。

机の上には、開いたままのノートと見本帳、万年筆がそのままになっていた。

父の趣味はペン習字で、以前は書道も得意だった。

万年筆の文字も達筆で美しい。

今は手書きの文字が使われる機会も無いから、実際に普段使うことは無かったみたいだけど。

父はそれでも、趣味として文字を書くことを続けていた。

手書きの文字なんて前に書いたのはいつだったか・・・私は思い出せないくらい、今の生活では文字を書くことが無い。

それでも何の不自由も無いから、今まで忘れていた。

でも、今こうして丁寧に書かれた手書きの文字を見ると、やっぱりいいなあと思うし美しいと思う。

父のこういう特技は、今の世の中では一切評価されないけれど。

左側に、開かれた見本帳。

その見本帳の文字を丁寧に書き写した1ページ目。

B5のノートに、びっしりと文字が並んでいる。

何気なく次のページを開いてみた時、私は息を呑んだ。

(これって・・・・)

辛うじて、声には出さなかった。

そこに書かれているのは、見本帳の写しではなかった。

パラパラとめくる感じで、他のページを開いてみる。

そこにも、見本帳の写しとはまるで違う文字が並んでいた。

1ページ目だけが、見本帳の写し。

これは、次のページ以降に書かれている文章を隠すための、カムフラージュに違いなかった。

2ページ目の最初には「希望へ」と書かれている。

これは父から私へのメッセージに違いない。

漢字で希望と書いて「のぞみ」と読む、父と母が色々考えた末に付けてくれた、私も大好きな名前。

ノートは、今開いてある物の下に、もう2冊あった。

1ページ目だけを見ると、何の変哲も無い文字の練習用ノート。

1冊目の「希望へ」という文字の部分に、2冊目は②の表記、3冊目には同じく③の表記があった。

あとの2冊も1冊目と同じく、2ページ目からは、文字の練習とはまるで違う文章が書かれている。

内容は、3冊にわたって続いているらしい。

「リビング又は自室に戻ってください」

父の部屋に入って1分も経っていないのに、もうAIのメッセージが来た。

こんなことまで言われるのか。

これも今までずっと、仕事が終わったらリビングでテレビを見るか自室でスマホを見ている事しか無かったから知らなかった。

部屋に何ヵ所か付いているはずの監視カメラ。どの位置にあるのか・・・

今までは、突然の体調不良や犯罪から私達を見守ってくれている監視カメラの存在を、疎ましく思ったことなどなかった。

けれど今は・・・このノートは見られてはいけない。

わざわざ隠すように工夫してまで、父が私に伝えようとしたメッセージを必ず最後まで読みたいと思う。

それまで、絶対に見つかってはいけない。

私は、1冊目のノートだけを素早く服の中に隠した。

今着ているのがゆったりしたパジャマだから、隠しやすかった。

警告のメッセージが来ないところを見ると、見つかっていないはず。

あとは何食わぬ顔で、見本帳はそのままに、2冊目のノートの最初のページを開いておいた。

パッと見たくらいでは、最初の状態と変わった事などわからないと思う。

それに、父がやっていたのが見た目通り趣味のペン習字だとAIに認識されていたなら、このノートに関して注目はされていないと思う。

もし内容が見つかっていたなら、このままここにあるわけないし。

私は、部屋に戻ってベッドに寝転び、スマホの動画を見るフリをして過ごした。

実際は、スマホを枕に立てかけて動画を流しながら、うつ伏せに寝そべって目を閉じた。

この姿勢なら、眠っていてもバレないかなと思ったから。

服の中に入れたノートは、そのまま体の下に敷いている感じだ。

今のうちに出来るだけ睡眠を取ろう。

夜中にノートを読むために。

2030・6月1日

ボリュームを抑え気味にして動画を観るフリをしながら、私は目を閉じてじっとしていた。

自分の部屋に入ってからずっと、枕にスマホを立てかけてベッドにうつ伏せになった姿勢のまま。

実際はスマホの画面を見ていなくても、警告が入らないところを見るとこれはAIにバレていないらしい。

この家のどこに監視カメラがあるのか分からないけれど、今私の顔が見える位置には無いということが確認できた。

眠れなくてもいい。

目を閉じていれば、今のうちに目を休める事ができる。

そう思って、眠れるかどうかを気にしないでいると逆に、知らないうちに眠りに落ちていた。

短時間で深く眠ったようで、目が覚めた時一瞬、ここがどこか分からなかった。

近くで何か音楽が鳴ってる?

ああ・・・そうか。動画の・・・

そう思って、自分の部屋で動画を観るフリをしていた事を思い出す。

姿勢を変えずにそのまま、ベッドに突っ伏して寝ていた。

明らかに眠ってると分かる姿勢だけど、これでも警告が無いということは・・・眠っていたのがバレてないという事か。

監視カメラで見れる範囲は、そう細かくないのかもしれない。

眠ったおかげで目の疲れもスッキリと取れた。

しばらくそのまま動画を観るフリをしていると「就寝の時間です」というAIのメッセージが入り、部屋の電気が消えた。

午前三時。私に対して決められている就寝時間だった。

私は、スマホを持ったまま頭から布団を被った。

服の下に入れていたノートを、そっと取り出す。

スマホの画面の明かりで、ノートの文字を読めるのではないか。

そう思って試してみたところ、何とかなりそうな気がした。

普通に座って読むのと違って読みにくいし、暗いし、それに暑い。

けれどここは我慢と思って耐えた。

布団の外に明かりが漏れていなければ、AIの監視システムには感知されていないらしい。

それでも一つ助かったのは、父の手書きの文字が鮮明で少し大きめで、とても読みやすいという事だった。

最初に見た時に気がついた「希望へ」という文字の後から、私へのメッセージは続いていた。

「希望がこれを読んでいる時、俺は生きているかどうか分からない。

俺が死んでからでも、このノートを見つけてくれることを願って書いている。

なぜ手書きの文字で、しかもペン習字の練習の様に見せて書いているかというと、監視システムに見られてはまずい内容だからだ。

パソコンやスマホに入れた文章は、家族間のプライベートな内容であろうと全て監視されている。

会話の内容がそうであるように。

監視から逃れることは出来ない。

何とかそこをすり抜ける方法は無いかと考えて、逆にアナログな方法を選んだというわけだ。

希望がそれを察してくれて、このノートをうまく隠して、見られないように読んでくれることを願っている。

俺がこれを書こうと思ったのは、お母さんが亡くなった年の2027年だった。

2029年末の今、ノートの最後まで書き終えて、この最初のページに戻っている。

最初の3ページは、これを書くために空けておいた。

俺は、それよりもう少し前、2024年の終わり頃から、考え始めている事があった。

本当はもっと前から、気がついていたのかもしれない。

考えるのが恐ろしくもあり、目を逸らしてきたのかもしれないと、今振り返ると思う。

希望も、今の世の中は最高に便利で、全てが管理されていて安全で安心な世界だと思っているだろう。けれど、少し思い出してほしい。

希望がまだ子供だった頃、世の中がどうだったか覚えているだろうか。

その頃でも、世の中の監視管理体制は存在していたけれど、今とは随分違っていた。

表面上は、現在に近付くほど技術が発達して、人々が便利に安全に暮らせるようになって良かったということになっている。

そして、世の中の大多数の人がそれを信じている。

なぜそうなのか、考えた事があるだろうか。

そういう情報しか、人間の目に触れる場所に出てこないからだ。

それと違う情報は、監視システムによって全て削除されている。

2025年に法改正がされているのは、今でも調べればすぐ出てくると思う。偽誤情報を排除して、国民の情報リテラシーを向上させるためというのが表向きの理由だ。

俺は、完全に今の状況になる前に、気が済むまで色々と調べた。

まだネット上にある情報や、書籍を通じて、自分で情報を取りに行けた頃の話だ。今は、こういう事すら出来ない。

そして調べれば調べるほど、今の世の中の状況が、安全でも安心でも無い事が分かって来た。

俺達が住んでいるこの家も、この地域社会も、言ってみれば見えない檻の中なんだ。

ショックかもしれないし、最初は全然信じられないと思う。

お父さんは頭がおかしくなったのかと思うかもしれない。

でもどうか聞いてほしい。

このノートを最後まで読んで欲しい。

それからどう判断するかは、自分次第だと思う。

親子であってもそこまでは干渉出来ないし、するべきじゃない。

読んで欲しいというのは、俺から希望への、最初で最後の頼みだ。

このノートに書いた内容を、本当はもっと早く気がつくべきだったと思う。

お母さんが体調を崩し始めた頃、俺は何とか違う方向の未来へ持っていきたかった。もっと長く生きて欲しかった。

それでも、お母さんを説得し得るほどの知識も無かったし、今の世の中のシステムに抗い切れなかった。

俺自身も、このシステムの中で命を終えることになるかもしれない。

希望がもし、この内容から何か一つでもメッセージとして受け取って、これからの人生に活かしてくれれば嬉しい」

3ページ目までを読み、私は気がついたら泣いていた。

食事中も涙が止まらなかったし、どうも涙腺が緩くなっている。

父が自分の死を匂わすようなことを書いているから。

まるで既にそうなってしまったような気持ちになり、涙が溢れてくる。

考えてはダメだ。

諦めてはいけない。

まだ最悪の状況と決まったわけじゃない。

私は気を取り直して、ノートの続きを読んだ。

ここまでを読んで、何となくだけど自分の子供の頃のことも思い出し始めた。たしかに今とは随分違っていたように思う。

「最近の事から、遡って書いていこうと思う。

法律の内容が大きく変わって行ったのは、2024年、2025年あたりからだったのを覚えているだろうか。

それよりも前は、法律上個人の権利は、かろうじて国家や組織よりも優先されていた。

今は、国家、組織などの公の利益が、個人の権利よりも優先される。

希望は、大人になってからの人生では今の状況しか知らないから、これが当たりだと思って気にしていないかもしれない。

国民一人一人に個人識別番号が付けられたのはこれよりも更に前。

この番号に全ての個人情報を紐付けて、信用スコアが示されるようになったのは、最近の話だ。

これは希望も覚えていると思う。

新しい薬や治療法の開発、国家間の紛争解決など、公の利益のために必要となれば、人が集められる。

以前はこれに関しても一応本人の了解が前提だったし、参加すれば僅かでも謝礼が出ていた。

今は呼び出しがかかれば断る選択肢は無い。

これが、個人の権利より公の利益が優先されるという事だ。

そのように法律が変わったから。

それ以前でも、そうとは知らせずに大規模な実験的な事も行われていたのを思えば、今に始まった事では無いかもしれないが。

情報の統制、治験や戦争への強制参加を命じる事が合法的に堂々とやれるようになったのは法改正後の話だ。

信用スコアのランクが低くなれば、治験や戦争への参加という事で集められた後、それより早く死が待っている場合もある。

Aランクの人達の中には、臓器提供を待っている人も居る。

最新の技術では、自分のクローンを作ってそこから臓器を取るとか、3Dプリンターで印刷された臓器を使う事もあるらしいが。

まだ従来のやり方も残っていて、そのためには臓器が必要となる場合がある。

それ以外でもAランクの人が、自分が死んだということにして表舞台から姿を消したい場合、顔が認識出来なくなった状態の、体格の似た死体を用意する必要が出てくる。

治験への参加、戦争への参加で「移動」が表示された後、個人識別番号が消えた場合は死亡。

いつどこでどういう形で死んだのか「不明」という一言で済んでしまう。上のランクの彼らに説明義務は無い。

希望がこれを読んでいるということは、俺は死んだか、もうこの家に居ないという事だと思う。

俺の番号がもし消えていた場合、そういうことかもしれない。

しかし、このノートの後の方ではっきりと説明するが、もしそうであってもそれは悲しむ事では無いし、俺にとって最悪な事でも無い。

ただ、今の世の中の仕組みというのがこうなっていて、こうなったのはそれほど昔のことでは無いというのを知っておいて欲しかった」

読みながら、震えが止まらなかった。

明日の朝、父の個人識別番号があるかどうか・・・

最悪の状況を想像して背筋が寒くなる。

考えてはいけない。

諦めてはいけない。

まだ最悪と決まったわけじゃないし。

だけど・・・・

今までだって、私はある程度この事を知っていた。

人が集められる時、断る選択肢は無い事。

いつどこで死んでも文句は言えないし、ただ番号が消されて終わる事。

自分の身内にこの事が降りかかってくるまで、他人事だと思っていた。

誰だって皆んな大切な家族は居るのに。

自分や自分の身内じゃなかったらいいのか?

いつから私は、こんな考え方になったんだろう。

それに・・・ランクが一つ二つ上でも下でも、一番上に居る彼らから見たら私達の命なんて、簡単に消していいと思っているただの番号。ただの数字でしかない。

「この家には鉄格子があるわけでもないし、玄関から外へは出られるし、自由だと思うかもしれない。けれど、本当にそうなのか。今の状況は自由と言えるのか、一度疑問を持ってみてほしい。そこから全てが変わってくる。怖いと思うためにではなくて、これを知らないと本当の自由を選ぶことは出来ないから。

俺が若かった頃から、色々な規制はあって自由とはとても言えなかったけれど、今の世の中よりはかなりマシだった。

あの頃よりも今は、ずっと酷い状況になっている。

酷い状況などと言われても、希望はピンとこないかもしれないが。

表面上は「便利になった」「安全になった」「幸せに暮らせるようになった」という情報しか出てこないから。

彼らはそうやって少しずつ、長い時間をかけて支配を強めてきている。

ここで言う「彼ら」というのは後に説明するが、国のトップである個人や組織の事を言っているわけではない。

彼らはそのずっと上に居て、それより下に居る人間達は全て、彼らの思惑通りに動いているにすぎない。

今ある信用スコアのAランクと言ったって全部この位置だ。

彼らに最も近いごく少数の者を除いては、彼らの思惑通りに自分が動いているとは知らない者の方が多いと思う。

俺達の今の状況は、本当は自由などではなく、表向きのトップの上に、決して姿を現さない本当の支配者が存在している。

こんな話は、映画か漫画かゲームの中の事だと思うか、お父さんは認知症が始まったんだと希望は思うかもしれないが。

何年もかけて調べてきて、やっぱりこの結論に辿りついて、俺はこれが間違っているとは思わない。

今の日常を、一度じっくり振り返ってみてほしい。

そして「当たり前」だと思っている事に対して疑問を持ってみてほしい。

なぜ、起きる時間、寝る時間を自分で決めてはいけないのか

なぜ、働く時間、休日を自分で決めてはいけないのか

なぜ、どんな仕事をするか自分で選んではいけないのか

なぜ、住む場所を自分で選んではいけないのか

なぜ、食べる物を、食べる時間を、自分で選んではいけないのか

なぜ、全ての個人情報が一括管理されているのか

なぜ、信用スコアというランク付けがあるのか

なぜ、外にも家の中にも監視カメラが付いていて行動の全てを見られているのか。

同じく、なぜ会話の全てを聞かれているのか

普段と違う行動をしたり、示されている「正しい情報」と違う発言をしたら、なぜ警告が来るのか

なぜ、人間関係を好きに作ってはいけないのか

なぜ、自由に恋愛してはいけないのか、結婚相手を選んではいけないのか

なぜ、自由に子供を作ってはいけないのか

なぜ、子供を自分で育ててはいけないのか

なぜ、彼らが人を集めるとなれば俺達には断る権利が無いのか

他にもあるが、まずはこれくらいのところで。

ここに一度、疑問を持ってみてほしい。

希望は、これは全部当たり前だと思っているだろうし、お父さんは何を急に変な事を言い出すんだろうと思ったかもしれない。

けれど、数年前までこれは当たり前では無かったんだ。

希望の子供の頃の事も、よく思い出してみてほしい」

疑問って・・・

今の生活って、全部普通だよね。

皆んなにとって、これが一番いいんだよね。

何で疑問なんだろう。

Aランクの人達より上に支配者が居るって・・・

そんな事絶対あり得ないよね。

そう思ったけれど何故か私は、ここで読むのを止めたいとは思わなかった。

何でそう思うのかわからないけれど、読み続けなければいけない、私にとって何か大切な事が書かれている気がした。

子供の頃の事・・・

私は、ぼんやりと浮かんでくる過去の記憶を辿った。

少しずつ少しずつ、子供の頃の体験が、断片的に思い出される。

お父さんもお母さんも元気で、お爺ちゃんとお婆ちゃんが居て・・・

犬も猫も居たっけ。

今は動物と暮らしてはいけないけれど。

今みたいな形の家じゃなくて、小さいけど一軒ずつ分かれた家で・・・

畳の間があった。

土の庭があった。

花が咲いていた。

畑で採れた野菜を、近所の人が持ってきてくれた。

近所の畑って、家の近くにあって、夏にはキュウリとかトマトとか見たような・・・

蝶が飛んできたりとか、地面にも虫が居たり・・・

季節・・・

そういえば、春夏秋冬を感じる事があった。

毎日見る景色の変化。

山の色、空の色、雲の形、花や虫などの生き物の様子。

食べ物も、あの頃のご飯って、今みたいな感じじゃなくて・・・

そう。食べ物でも季節の変化を感じた。

お母さんが作ってくれたお味噌汁とか、煮物のおかずとか、ふっくら炊き上がった白いご飯とか。

季節ごとに、出てくる野菜が変わっていった。

食べたらすごく、元気が出た気がする。

食べることって体を維持するだけじゃなくて、楽しみでもあったかも。

何だろう。

すごく暖かい感じがする。

この感覚って何?

胸の奥から湧き上がって来てるような・・・

今の生活に疑問を持つなんて。

普通はあり得ない。

父の言っている事は、一般常識から大きく外れている。

知らない人が聞いたら間違いなく頭がおかしいと思うだろうし、それこそAIに聞かれたら病院送りに決まっている。

それでも・・・何だろう。

私には父の言っている事がおかしいとは思えない。

頭で考えたらめちゃくちゃだし、理屈が通ってないんだけど。

頭じゃないところで、何かわからないけど。

さっきも、子供の頃のことを思い出すと胸の奥に何か温かいものを感じた。

今までずっと、何で忘れてたんだろう。

ライフスタイル、住所、職業、結婚相手などを自分で選ぶより、最新の個人情報分析と適性検査によって決めてもらった方が、失敗の無い人生を歩める。

次世代の育成を考え、優秀な遺伝子を持つ子供を作るためにも、最適な者同士の結婚は不可欠なこと。

食べ物やタイムスケジュールも管理してもらう方が、健康でいられる。

監視カメラがあるから、犯罪に巻き込まれたりする事もなく生涯安全に暮らせる。

信用スコアによって管理してもらう事で、能力人格共に本当に優秀な人が高い地位について、間違いない方向に導いてくれる。

犯罪を犯しそうな人を事前に予測して、逮捕、隔離してくれる事によって私達は安全に生きられる。

信用スコアのランクの低い人達に対しても見捨ててはいない。そういう人達は戦争や治験に参加する事によって国全体の役に立つ事ができて、意義のある人生を送れる。

子供は自分で育てるより教育機関に預ける事によって、幼い頃から正しい知識を身につける事ができて、信用スコアの高ランクを目指す事ができる。

今までずっと、教えられてきた事、正しいと信じてきた事を、心の中で繰り返してみる。

何故だろう。

これは正しいはずなのに、さっきまで感じていた温かさが急激に引いていくような気がした。

体が緊張でガチガチになって、胸の奥が冷えていく感じ。

父のメッセージは、私が信じていた事を根底から覆すものだった。

それでも私はノートを読み続けた。

ゆっくりゆっくり内容を確認しながら、自分の事に照らし合わせながら、一冊目を読み終える頃には急激に眠気がきた。

どれくらい眠ったのか。布団の中でノートを広げたまま、私は熟睡していたらしい。

「起床時間になりました」

AIからのメッセージが聞こえる。

同時に、自動設定されている目覚まし時計のアラームが鳴る。

まだ頭がスッキリしなくて起きる気がしない。

30秒も経たないうちに再びメッセージが来る。

「起床時間になりました」

何とか上半身を少し起こした。

けれどこれでは、起きたとみなされないらしい。

アラームの鳴る感覚が短く速くなる。

「起床時間になりました。起床時間になりました。起床時間に・・・」

メッセージの音声のボリュームと、アラームの音がどんどん大きくなり、頭の中で反響し始めた。

頭の中から金槌で叩かれているような気がする。

続けて聞いていると気分が悪くなり、吐きそうになった。

これってものすごいストレスだ。

まだ起きたくはないけれど、これ以上この音を聞きたくなくて、私は無理やり体を起こしてベッドから出た。

「何で今起きないといけないんだろう」

私は初めて疑問に思った。

私は何とか起き上がり、リビングへ行った。

読んでいたノートは、ベッドから出る時に掛け布団の下に隠した。

真っ先に壁の数字を見る。

父の個人識別番号が消えていなかった。

その事に心から安堵する。

かと言って父が帰ってきた訳ではないが・・・

少なくとも今、生きていてくれる。

これからどうするか、とにかく考えないといけない。

そんな事を思いながら、私はいつも通り服を着替え、ユニットバスに付いている水道で顔を洗い髪を整えて、歯を磨いた。

化粧水と乳液で軽く肌を整えて、メイクを終える。

配給の食事を戸棚から出してきて、電気ポットのスイッチを入れ、インスタントコーヒーの粉をカップに入れる。

父からのメッセージを読んで気がついたことがあった。

朝のこの一連の習慣にしても、ほとんど自動的にやっている。

AIのメッセージとアラームの音に起こされ、自動的に朝の支度をして、与えられた物を自動的に食べる。

何だかロボットのようではないか。

自分の意思って、どこにあるんだろう。

今まで当たり前だと思っていた事が、今朝は何か違和感。

これまでと違って見える。

数分で食べ終えた頃、いつもならちょうど父が起きてくる。

それだけが今日は、自動的ではなくなっていた。

いつもなら、一緒に食べて少しでも会話があった。

それを思うと寂しさが込み上げてくるが、寂しがっている場合ではない。

何とかする方法を考えなければ。

そういえばと思い出して、自分の信用スコアの数字を見る。

C-3のままだった。

昨日は最初少し作業スピードが落ちて警告のメッセージが来たけど、トータルでそれほど変わらなかったのか。

でも今はどちらにしても・・・信用スコアの数字がそのままだろうが下がろうが、どっちでもいいとしか思えない。

そんな事よりもずっと大事な事がある。

今日は仕事前に出かける事はしなかった。

ただ座ってくつろいでいる様に見せつつ、頭の中だけをフル回転させる。

作業をノロノロやるとか、体調が悪いフリをするとかして、信用スコアの数字をわざと落とす方向に持っていく事も考えた。

そうすれば私にも治験の呼び出しがかかって、父と会えるのではないかと思ったからだ。

けれど、治験をやっている施設の場所は何ヶ所もあり、ほとんどの人には知らされていない。

おそらく知っているのはAランクの人だけか、せいぜいBランクまで。

私に呼び出しがかかったとしても、父と同じ場所に行けるとは限らない。

悪くすれば、治験ではなくて臓器提供の方に回されて、その日のうちに殺されて解体されてしまうかもしれない。

若くて健康な人間の臓器は貴重だから、そういう意味では危ないと、父のノートにも書いてあった。

今のシステムに抗う様なことをすれば、たちまち危険人物と見なされて、犯罪を犯す可能性ありとして予測逮捕されてしまう。

そうなったあとで臓器提供に回されても、私の身内というと父しか居ないわけだし、文句を言う人はここにはもう居ない。

どちらにしろ、文句を言ったところで何とかなるわけではないけれど。

だからなのか「このノートを読んでもし何か気持ちに変化があったとしても、表面には決して出さずにいつも通りに暮らしてほしい」と父は書いていた。

「希望も成人してからの事だから覚えているだろうか。

1日のタイムスケジュールがここまで管理される様になったのも、住所や職業、恋愛や結婚が自分で選べなくなったのも、食べ物が全て配給制になったのも、まだ最近の事だ。

法律が大きく変わってからの後の事だから。

俺は、自分の子供の頃、若い頃、まだ今のシステムになる前の事をはっきり覚えている。

だんだん忘れさせる方向に持っていかれているし、今のシステムになってからの世界しか知らない子供達は、これが普通だと思って疑問は持たないかもしれない。

希望の世代は、まだそこまでじゃなく、昔の事を思い出して欲しいと促せば、思い出す事が出来ると思う。

俺の年齢では戦争に行く事は無いが(人が足りなくなればその限りではないかもしれないけれど)呼び出しがかかるとすれば治験だと思う。

治験というのは表向きで、先に書いた様な事に利用される場合もあるが。

本当に治験だった場合、すぐに死ぬ確率は低い。

呼び出しが来たからといって、最終的に逃れるチャンスが0だとは、俺は思っていない。

もし命を落としても、それがどうという事では無いのだけれど(これは後に書く)出来るなら治験のようなつまらない事で死にたくはないからな。

希望も、もしこれを読んで気持ちが動いて、今のシステムから出たいと思うなら、本気でそれをイメージしてほしい。

心の底から出来ると思えたら、必ず出来るから」

細かい文言までは覚えていないけれど、父のノートには、そういったことが書かれていた。

それを思い出すと、勇気が湧いてくる。

お父さんは、生きる事を諦めていない。

私も、絶対に諦めない。

今まで教えられてきて正しいと信じていた事が、私の中で大きく揺らぎ始めている。

戦争や治験に参加する事で、信用スコアの低い価値の無い人間の命も、国や組織という公の利益のために役立つ価値のあるものに変わる。本人にとっても素晴らしい事だと・・・・

はたして本当にそうだろうか。

価値のない命なんてある?

それって誰が決めた?

最高の知性を持つAランクの人達かもしれない。

だけど・・・

価値があるとか無いとか、誰かに決められたくない。

たとえ父の信用スコアが最低ランクまで落ちたとしても、だからといってそこで死んだら「国や組織、公の利益のために命を捧げて価値が上がって良かったですね」と言われて私は喜べるか?

冗談じゃない。

ふざけるなと思う。

信用スコアのランクがどこだろうと、私にとってはかけがえのない親だから。

父にとっても私はそういう存在だと思う。

それが家族だ。

「9時になりました。仕事を開始してください」

AIからの警告のメッセージが流れた。

考え事に没頭していて、時計を全然見ていなかった。

もう30分経ったのか。

私は、すぐに立ち上がってパソコンに向かい、何事も無かったように作業を開始した。

今日も仕事が終わったら昨日と同じ様に、スマホの動画を見るフリをして

先に睡眠を取っておこう。

2冊目のノートにも、何かヒントになる事が書かれているかもしれない。

父からのメッセージを読んで気持ちが定ったせいか、不安に慄いていた昨日とはまるで違う。

仕事の間は、普通に作業に没頭できた。

昼食も、今日は普通に食べられた。

午後からの仕事もいつも通りこなし「終了時間です」とパソコンの画面に表示が出て、6時に仕事が終わる。

夕食をとりながら、2冊目のノートをどうやって取るか、昨日と同じで大丈夫か考えた。

今の服よりもパジャマの方がノートを隠しやすい。

シャワーのあと、パジャマに着替えて、自室へ行ってスマホを見る。

これならいつもの流れ。

父の部屋に入るのは・・・後から行ったら尚更不自然だし、その時しかない。

そういえば父の部屋の机の側に、埃を払うための小さなハタキがあった。

軽く掃除をするフリをして、ノートを取ってくるのは出来るかも。

昨日読んだ父のノートにも、AIがどこまで監視できるかについて書いてあった。

この家にある監視カメラの場所も、おそらくここだと思うという数ヶ所を図で示してくれていた。

それに見られない様にうまく避ければ、ノートを自室に持ち込み読むことが出来る。

父はそういうことも調べながら、2年数ヶ月このノートを書き続けていたらしい。

私から見ていて、そのことは全く分からなかった。

敵を欺くなら先ずは味方からという事だろうか。

AIから警告が来る前に、さっさと食べ終えてシャワーを浴びた。

着替えて自室に向かう時、私は、ふと思いついたように父の部屋に入った。

机の側に置いてあるハタキを取って、軽く本棚の埃を払い、机の上の埃を払うフリをして素早く2冊目のノートを服の下に隠す。

3冊目のノートの最初のページを開き机の上に置いておくと、昨日と同じ形になった。

父に教えてもらった監視カメラの位置からして、こっちに背中を向けていれば何をしているかまでは見えないはずだった。

「リビング又は自室に戻ってください」

AIからのメッセージが来た。

昨日と同じ。

部屋に入って数十秒くらいだ。

単純に、いつもと違う行動をしているから言われるだけで、やっている事の内容まで見られているわけではないらしい。

この事も、父のノートに書いてあった。

新しい本その他、家に持ち込む時のチェックは厳しいが、一度通った物に関してはそれ以上見ていないらしい。

趣味のペン習字の見本と、練習用ノート。

家に入る時はそれだけだったわけで、怪しまれる要素が無い。

そこまで考えて私はふと、昨日より楽にノートを読む方法を思いついた。

机の上にあるペン習字の見本帳とノート、それを両方、堂々と持って出た。

服の下に隠したもう一冊はそのまま。

自室に戻り、自分の机の上に持ってきた物を広げる。

机に向かい、父と同じ様に、ペン習字をやっているようなポーズを取る。

これなら堂々とノートを読める。

私が自室で座って何かやっているいう状態までしか、AIは見ていない。

発行禁止の本などは、家に入る前に厳しくチェックされているし、そういう物は無いはずという事になっている。

それに、AIでは人間の思考まで読み取ることは出来ない。

そこがAIの盲点。

この事と同じように、今の状況から外に出る方法も、父が無事戻れる方法もきっとあるはず。

2冊目のノートを開いて読み始め、数分も経たないうちにAIからメッセージが来た。

「お知らせがあります」

もしかして、ノートの事がバレたのか?

それにしては、あまり攻撃的な感じのメッセージじゃないし。

そう思っていると、次のメッセージが来た。

「表示内容を確認してください」

表示内容・・・リビングの壁に埋め込まれている画面の事だ。

まさか・・・父の番号が消えたとかじゃないよね。

ついさっき、仕事を終えた時は大丈夫なのを確認している。

私は、ノートを閉じるとすぐに立ち上がり、急いで表示を見に行った。

父と私の個人識別番号があり、父の所は「移動」とある。

変わっていない。

信用スコアの数字もそのまま。

そこまで確認した時、私の個人識別番号の所に新しい文字が現れた。

「結婚許可」

そうか。そういえば・・・私は来月の1日で25歳の誕生日が来る。

その時に結婚許可が出ると、以前一度予告されていた。

予告のメッセージがAIから入ったのは、今年の元旦の事だった。

結婚許可が出るのは「誕生日が来たら」と聞いてたけど、今はまだ6月だ。

早くなったということか。

1ヶ月早くなるくらい、普通にあるのかもしれない。

AIは、質問には答えてくれないから分からないけど。

何に関しても、理由は伝えられない。

ただ結果が表示されて、こっちはそれに従うのみ。

「許可」じゃなくて「命令」だよなと今は思う。

「許可」というのだって、自分が恋愛とか結婚とかしたければ自分が決めて出来ることではないのか?

なぜ上の立場に居る誰かから「許可」してもらわないといけないのか。

父のノートを1冊読んだ今、私は昨日まで当たり前と思ってきたことに対して、もはや当たり前とは思えなくなっていた。

1冊目のノートには、私が今まで「これが普通で当たり前」と信じて疑わなかった世の中の仕組みの事が書いてあった。

上に行くほど人数が少なくなる、三角形のピラミッドの形管理システム。

今までは「人類全体の発展と安全のために、AからFランクの分類が数年前から始まって今に至る」それが全てと思っていたけれど。

Aランクの人達よりさらに上にいる人達の事、そしてトップに君臨している非人類種。人ならざる者の存在がある事。

頂点に居る彼らは決して姿を現さない。

姿を見せない事で神秘性を増したり、人間に対して恐怖を与えてきた彼らは「神」として君臨した。

私達は知らないうちに、彼らを崇めていたという事にもなる。

彼らの意志で、世の中の全てが動いている。

彼らの命令を実行に移すのは、彼らと人間の中間に居る者達。

トップに近い位置に居る人間達は、人間と非人類種のハイブリッドで、本来の姿になる事も人間の姿に擬態することも出来る。

彼らの存在の証拠となる具体的出来事が、ノートにはいくつも書かれていた。

私達は肉体が本体ではなく、本体は意識体としての存在で、本当は全ての存在がそこから来ている。

元々は一つの意識から始まり、人間も、他の生き物も、肉体を持たない存在も、そこから分かれてそれぞれが違う体験をしている。

肉体を持っている場合、今の体験をするための乗り物が肉体。

その終わりが来れば、乗り物である肉体は滅びて土に還り、本体である意識は元々の場所へ帰る。

そうやって全てが循環している。それがワンネス。

だから本来上も下も無いわけで、信用スコアというのは、管理する側にとっての都合を押し付けているだけ。

私達の安全のためでも発展のためでもなく、彼らの都合。

まずはこの事がわかってくれば、彼らの支配から逃れて好きな体験が出来る可能性が出てくる。

彼らは長い年月をかけて、少しずつ支配を強めてきている。

それが最近ではどんどん加速してきていて、世界の国々で、かなり急激に法律が変わり、今のシステムが出来た。

僅か数年前を振り返っても、今ほど厳しい管理、ランク付けのある世界ではなかったらしい。

例えば恋愛や結婚に関しても、父と母が出会った頃、今の制度ではなかったとノートには書いてあった。

「恋愛や結婚に関しても、今の制度が当たり前ではない事を知って欲しくて、自分達の出会いの事を書いてみる」と父のメッセージにはあった。

父は30代半ばまで独身で、その世代にしては結婚は遅めだったらしい。

一人暮らしを楽しんでいた父は、結婚はしてもしなくてもいいくらいに思っていたけれど、母と出会って恋に落ちた。

父が若い頃は、個性的な飲食店が街に沢山あったらしい。

父は自炊も嫌いではなかったけれど、数日に一度は仕事の後、外食に行くのも楽しみだったと書いている。

お酒が飲めて、しかも食べ応えのある食事のメニューも充実している個人経営の飲食店が、当時はそこかしこにあったと言う。

それだけあっても、お客さんの方は皆んな好みが違うし、日によって違う店に行って楽しんだりするから、どこもけっこう流行っていたとか。

大型ショッピングモールとコンビニしか無い今とは、全然違う様子だったらしい。

私は、今の世界しか知らない。

10年前、20年前の子供の頃は、今とは違ったような気もするけど、はっきりとは思い出せない。

個人経営の店がそこかしこにあるなんて、私には想像もできない世界だけど。何だか楽しそうだ。

父と母が出会ったのは、今とは世の中の様子がまるで違っていた頃。

たまたま同じ店の常連だった父と母は、会えば挨拶を交わすようになり、そのうち親しく話すようになり、待ち合わせて一緒に食事をするようになったらしい。

この話は母からも聞いたことがあるから、やっぱりそうだったんだなと思う。

父は母より7歳年上で、父が35歳、母が28歳の時に結婚している。

そして2年後に私が生まれた。

その頃の写真、もう少し後の写真、私の誕生日ごとの写真・・・けっこう沢山撮ってあって、見せてもらったことがあった。

住所を自由に決める事が無くなり、この集合住宅に転居が決まった時、公的機関のチェックが入って「余分な荷物」として写真は全部処分させられたけど。

両親は、写真1枚1枚に日付と場所と、その時の事を書いて綺麗に保存していた。

父とも母とも、私は毎日沢山話して、色んな事を教わり、色んな場所に連れて行ってもらった。

一人娘だった私は、両親の愛情をいっぱいに受けて育ったと思う。

「生まれてきてくれてありがとう」私の生まれた時の写真の下には、父と母それぞれの文字で、同じ言葉が書いてあった。

写真は無くなっても、私はその事まで忘れたりはしない。

若い日の父と母が、出会って恋愛して、一緒になって私が生まれた。

その頃は、そういうことが普通にある世界だったらしい。

紹介とかお見合いというのもあったけど、近所に世話好きのおばさんが居たり、個人経営の小さな会社が多かったから社長からの紹介とか。

直接面識のある人間関係の中での、お見合いや紹介だったらしい。

今とは随分事情が違う。

私が子供だった頃は、そういえばアプリで恋愛とかはあったと思う。

中学の頃、そういうのがあるとか話題になってた事もあった。

それからすぐに世界的に感染症拡大があって、学校へ行っても人と距離を取って直接話す事も無かったし、マスクの着用が常だったから人の顔をまともに見たことが無かった。

AIで理想の相手を生成して遊ぶバーチャル恋愛ゲームとか、そういうのは色々あったけど。

リアルな恋愛というものを、そういえば私は知らない。

個人識別番号制度が確立して、信用スコアで個人の信用度が測られるようになって、結婚も出産も許可制になった。

信用スコアCランク以上なら、人によって時期に差はあるが結婚許可が出る。

健康診断、適性診断、能力査定の結果、最適とされる相手と、結婚が決まる。

ついこの間まで私は、それが嬉しいことだと思っていたのに・・・

今は「結婚許可」の表示を見ても何の感情も湧いてこない。

自分より上のランクの人との結婚があるかもとか、期待でワクワクしてたのが遠い昔のことのように思える。

人を信用スコアで分ける今の制度は、下のランクとなった人達を容赦なく切り捨てる。

結婚することも出産することも許可しないし、公の利益のための貢献と称して命までも捨てさせる。

「優秀な子孫を残し国家として発展していくため」という理由を、私は何の疑問も無く信じていたけど。

それが素晴らしい制度だと本当に思うか?

何を持って「優秀な」と呼ぶか?

その基準がどこにあるか?

父のノートには、そんな問いかけが書かれていた。

ごく少人数の支配層である彼らにとって「都合がいい」「使いやすい」人間が「優秀」とされている。

そういう基準で「優秀」とされた人と結婚出来たとして、私にとって何が嬉しいというのか・・・・

けれど「結婚許可」と称する命令が表示されたということは、私には断る選択肢は無い。

表示された数字を見ているうちに今度は「移動 6月3日午前8時」と表示された。

え?そんなに急なの?

結婚が決まってから移動するまで、何日あるのかそう言えば知らなかった。

今が1日の夜だから、今から朝までと、あと1日。

明日は普通に仕事があるんだろうし、ここで自由に過ごせる時間は本当にあと少ししかない。

この時間を使って何が出来るか・・・

今私にとって一番大事な事は、父のノートを読み切ること。

出来るなら何とかして、この3冊を持って行くこと。

最悪無理なら、今日明日中に必ず読み切って、AIに見つからないうちにノートを処分すること。

結婚のための移動と言っても、荷物はほとんど無い。

家具は作り付け、仕事用のパソコンも、ここに来た時用意されていた物だから。

洗面用具、着替え、スマホを持って出るくらいだから、全部をスーツケースに詰めるのに30分あれば済んでしまう。

時刻はまだ7時数分前だ。

決められた就寝時間で強制消灯されるまでに、8時間ある。

少なくともあと1冊は読めるだろう。

そんな事を思っているうちに、更に新しい文字が現れた。

相手の男性の個人識別番号と信用スコアの数字。

信用スコアの数字はA-1だった。

Bランクぐらいはあり得るかもと思っていたけれど、これは意外だった。

信用スコアで最高ランクの相手との結婚。

父のノートを読む前の私なら、きっと大喜びしたに違いない。

今は、別に嬉しくはないけれど。

健康面などの評価が高く、母体として優秀と見られたのかもしれない。

「表示内容を確認したら、確認ボタンを押して送信してください」

AIからメッセージが来た。

すぐにスマホを見ると、メールが来ていた。

壁に表示されている内容と全く同じ内容が送られてきていて、下に確認ボタンがあった。

私は確認を押して送信した。

断る選択肢はどうせ無いのだし、今違う行動をすれば要注意人物と見なされて面倒なことになる。

父のノートにも書いてあった事だ。

ノートを読んで、もし気持ちの変化が起きても、表面上は何事も無かったように普段通り過ごすこと。

今の状況から抜け出すチャンスを掴むには、それが最良。

チャンスが来れば即行動するが、ギリギリまで気持ちの変化を隠し通す事。

私の気持ちの変化までAIは見抜けないから。

私は再び、ペン習字の練習をするフリで机に向かった。

父のノートを読み始める前に、何気なく最初のページを開いて気が付いた事があった。

何で今まで気が付かなかったのか。

見本帳の最初のページを書き写しただけのこのページ。

見本帳の文字の方も当然同じなのだが、見本帳の方は、他のページから持ってきた文字を切り貼りして作られていた。

かなり綺麗に貼ってあったし、今回の事で気持ちが動転していて、そこまで見ていなかった。

書いてある文字は「閃き 直感 感覚 感情 独創性 アイデア 創意工夫 臨機応変 第六感 想像力 創造力 機転 共感 愛」

パッと見るとただ単語を並べたように見えるだけ。

私も最初、ここに書いてあるのは、ただの練習用の文字と思っていた。

けれど1冊目のノートを読んだ後で見ると、この意味が分かる。

書かれているのは全て、AIには理解する事が出来ない、人間だけにあるもの。

AIには、膨大なデータを記憶、蓄積、分類する力があるし、模倣という形でなら、文章も、音声も、映像も作る事が出来る。

けれど0からオリジナルの物を作る事は出来ないし、直感や閃きも無ければ、そこからの工夫も出来ない。  

今は、AIが人間を管理するシステムが出来上がっているけれど。

抜け道はきっとあるはず。

父は私に、そのヒントをくれている。


私は2冊目のノートを読み始めた。

「彼らは全てを支配している」

2冊目のノートの最初の方には、その事について書いてあった。

「街中でよく見かける、ピラミッドの形の上に大きな目がデザインされたシンボルマーク。あれは彼らが、人間達を常に見張っているという事を示すために設置されている」

そういえば、どこでもよく見かけるピラミッドと目のマーク。

そういう意味があるとは知らなかった。

確かに見ていて気持ちのいい物ではないし、どちらかというと緊張感を与えられる感じ。

デザイン的に特に美しいとも思えないし、その割によく見るなあ流行ってるのかなあ位に、今までは思っていた。

金融

通信

流通

建築

テクノロジー

エネルギー

食糧

医療

政治

宗教

教育

メディア

人間が生きていくために必要と思われているほぼ全てのものは、彼らの手の中にあるという。

ノートには、その一つ一つについての、詳しい説明が書かれていた。

トップに君臨しているごく少人数の彼らが、これらをどう使って人間を支配しているのか。

そして、ほとんど全ての人が、支配されているとは気が付いていないということ。

私は、自分の今の生活を振り返りながら、この一つ一つについての説明を読んでいった。

過去から現代に近付くほど、どんどん便利で安全な素晴らしい世の中になっていく、そのために全てが動いているものと私は今まで信じていた。

読み進めるほどに、今まで当たり前と信じていた世界が、足元から崩れていくような気がする。

実は元々支配されていて、その見えない檻がどんどん狭くなっている。

それを知らずに、自分から喜んで檻の中へ入っていく状況だったわけだ。

けれど、1冊目のノートに書かれていたように、ここから抜け出す方法はある。

彼らが私達人間より高貴な存在という事でもないし、偉いわけでもない。

本当は、全て同じ存在。

恐れることは無い。

これからの人生に、どんな事が訪れたとしても。

彼らのやっている事を知ってしまえば、抜け出す方法も見えてくる。

ノートには、そう書かれていた。

「一度検閲を受けて通った荷物が、それ以上調べられる事はほとんど無いと思う」と父は書いている。

ペン習字の見本と練習帳だったはずの物が、父によって違う物に変えられて私が読んでいるとは、気付かれないはずという事だ。

私は何食わぬ顔で、ノートを荷物の中に入れておけばいい。

私が結婚する相手は、信用スコアA-1の人物。

という事は、トップに居る彼ら非人類種と人間のハイブリッドの可能性もある。

私の肉体は、彼らの血を濃く受け継ぐ子供を出産する道具という事だ。

考えただけで気分が悪くなる話だが、知らないより知った方が良かったと思う。

何も知らなくて、上のランクの相手と結婚出来ると大喜びして移動していく自分でなくて本当に良かった。

子供を産ませるという用が済んだら、彼らは私を始末するかもしれない。

逆に、そこまでの間は逃げるチャンスがあるという事だ。

チャンスが来るまでは何があっても絶対に感情を殺し、気が付いていないフリを押し通す。

何も疑わず大喜びでやってきて日々を過ごしていると見られる事が出来れば、彼らは警戒心を抱かない。

監視の目が厳しくなければ、抜け出せる可能性はある。

父も「行ってすぐ臓器提供に回された場合はそこで終わりかもしれないが、治験ならまだチャンスはある。治験の内容がどんな物かわからないが・・・公の利益に貢献出来ると喜んで参加しているように見せつつ、逃げるチャンスを待つ」そう書いていた。

「注射で何か体に入れる場合なら、最初で副作用が強く出たようなフリをして次を遅らせるとか、薬を飲み続ける治験なら、うまくいけば飲んだフリで誤魔化すか・・・」

なるほど、そういう事も出来るかもしれない。

父は、まだ体力の衰えも少ないと思う。

それに頭も十分しっかりしている。

このノートを読むまで「父も認知症が始まったかも」なんて、とんでもない誤解をしていた。

警告が来るのを承知で昔の事を話したりしたのは、私に向けて「思い出してくれ」というメッセージだったと、今ははっきりと分かる。

「彼らは、支配下にある人間は命じられないと動けないし、自分で何か考える事など無いと思っている。

そうなるように彼らの支配する教育機関で、教育という名の洗脳を子供の頃から徹底的に行う。

彼らが支配する宗教を通じて、メディアを通じて、彼らにとって都合のいい思考をし行動するように誘導していく」

ノートにはそう書かれていた。

確かに、自分のことを振り返ってみても子供の頃から「これが正しい思考。これが正しい行動」というのを決められていて、一生懸命それを守っていれば評価が高くなった。

皆んなが一斉に同じ行動をする「集団行動」の訓練もよくあったし、それがきちんと出来る人は評価が高くなる。

逆に出来ないと「協調性が無い」「注意力散漫」「問題行動が見られる」という評価になり、次の段階では病名が付けられて薬を処方される。

高く評価されたいために私達人間は、自分で考えるより命令を待ち、その通りにする事で世間から認めらたいと願う。

子供の頃からそれに慣らされると、誰かの命令が無ければ動けなくなっていく。

彼らが私達人間をナメ切っているなら好都合。

ギリギリまで何も考えていないフリをして、チャンスが来たら即行動するのみ。

「この街の中は、最新の通信システムによって全てが管理されている。

家に居る時はAIによる監視システムがあり、外に出ても俺達は全員がスマホを持っているが、それによって位置情報、他の人とのコミュニケーションの記録など全て彼らに把握されている。

人によっては、体内にマイクロチップを埋め込んでいる者も居て、その場合自分自身も受信機のような物だ。

かと言ってこの通信システムが、国全体にまで及んでいるかというとそうではない。

どの地域でも、街の中心に近い部分から外側へ、通信システムを広げて今の形態の場所を作っている。

その外側には、彼らの作った場所とはまるで違う、手付かずの自然が残っている場所がまだまだある。

このノートの中でも俺の子供の頃、若い頃の話をしてきたが・・・

その頃はまだそういう場所が残っていたし、今よりはずっと自由にそこに行って自然に触れる事が出来た。

今でも、そこまで出てしまえば、彼らの監視の目は届かないと思う」

そういえば数年前、マイクロチップを体に埋めるのが普及し始めた時、便利だから私もやろうかと思ったところ、父に本気で止められた。

父は普段、口うるさいようなタイプではない。

私のやりたい事は大抵自由にやらせてくれるのに、なんでこの事だけこんなに反対するのか、その時は全く分からなかった。

ただ父の剣幕に押されて、私はマイクロチップを諦めた。

このノートの内容を見れば、その意味が分かる。

あの時、マイクロチップなんか体に入れなくて本当に良かった。

持ち歩いているスマホなら、ここというタイミングが来た時捨てればいい。

けれど体の中に埋まっているマイクロチップとなると捨てるわけにいかないし、取り出すのも難しいと思う。

そうなると、どこへ逃げても追跡されるという事になる。

父はこの頃から密かに、色々な事を調べ始め、この世界から抜け出す事を考え始めていたらしい。

だから、逃げた時に追跡される事を想定して、マイクロチップを避けた。

「人間全員が自分からマイクロチップを体に入れなくても、彼らは他の方法も考えている。

水、食べ物、薬、予防接種など、あらゆる物を通じてそれに相当する物を体内に取り入れさせる事は出来るかもしれない。

それによって最終的に彼らは、人間とAIのハイブリッドのような存在を作る事を計画している。

便利で素晴らしい物と信じられている最新の通信システムは、そうやって作られた人間を、彼らの意のままに操るツールとして配備されている。

彼らは、人間を命令通りに動かす事、都合が悪くなれば消す事も自在に出来るようになる。

すでにそれは実験段階に入っていて、何度も実行されている。 

遠隔で指令を送って特定の行動を取らせること(スパイ活動、暗殺、自爆テロなど)も出来る。

後で証拠を消すためには、その人間の脳や心臓の機能を麻痺させて停止させる事も出来る。

傍目にはその人間が自分の意思で勝手にやったようにしか見えないが、実は彼らのやりたい事が実行されたのであって、その人間はただの道具にすぎない。

人間の形と感覚を残しながら完全に彼らの意のままに動く存在を作って、支配の構図は完成される」

私の中で、今の日常で当たり前になっている色々な事が全て繋がって見えてきた。

居住地の指定、職業の指定、行動範囲の指定、食べ物の指定(配給)、持ち物の指定、結婚相手の指定、時間の管理、収入の管理、個人識別番号による管理、信用スコアによる管理。

彼らによる完全支配に向けたレールが、真っ直ぐに敷かれている。

2冊目のノートを読み終えた時、午前2時半を回っていた。

もうすぐAIのメッセージで、就寝時間だと言ってくるだろう。

3冊目は持っていけばいいが、行った先で見つからずに読めるチャンスがあるとは限らない。

出来るならここに居るうちに読んでしまいたい。

今日徹夜で読むのは体力を消耗しそうな気がする。

逃げるチャンスはいつ訪れるかわからないから、体力は温存した方がいい。

父のノートにも、そう書いてあった。

今日は睡眠時間いっぱい寝るとして、明日の朝の時間と、仕事を終えてからの時間があるか・・・

喉が渇いたので、寝る前に水を飲もうと思って私はリビングへ行った。

何気なく壁の数字を見ると、表示されている個人識別番号が一つしか無かい。

私の番号と、その横に表示されている信用スコアの数字は変わらない。

父の番号だけが消えていた。

仕事を終えて見た時には、変わっていなかった。

私が部屋でノートを読んでいる間に・・・・

一瞬、心臓が止まりそうなほどショックを受けた。

父は、受けた治験によって命を落としたのか。

立ちすくんだまま体が震え出し、絶望感が襲ってきた。

けれど次の瞬間、父は死んでいないと私には分かった。

何の根拠があるわけでもない。

何なのか説明出来ない感覚で、ただ、分かった。

さっき思い出したのは、母が死んだ時のこと。

付き添っていた私は、母の体からエネルギーが抜けるのが分かった。

機能を停止した肉体の方には、もう母のエネルギーは感じられなかった。

肉体から抜けたエネルギーの方はまだそこにあって、その後もしばらく私達のそばに居てくれた。

次の日も、その次の日も、私は母がそこに居てくれる事が分かった。

父にとってもそうだった様で、母の本体であるエネルギーは消えてなくなってはいないという事が、私達には分かった。

しばらくしてそれは近くには感じられなくなったけれど、確かに母は存在していて、肉体という乗り物から降りたに過ぎない。

人間の本体である意識体は、肉体という乗り物に乗って体験を終えた後、元々の意識体に戻る。

今の肉体から降りる事を死と呼ぶならそれはあるけど、存在そのものが消滅するという意味での死は存在しない。

母はその事を教えてくれたように思う。

今、父の肉体からエネルギーが離れているなら、私のところへ来てくれるはず。母がそうしてくれた様に。

それを全く感じないということは、父はまだ生きているという事で間違い無いと思う。

なぜ個人識別番号が消されたのか分からないけど。

明日1日が過ぎれば、ここの場所から私も居なくなる。

私がここをを出たら、今表示されている私の個人識別番号も消える。

次の誰かが入るまで無人になるわけで・・・・

単純に、だから消した?

個人識別番号の表示は、ここに住んでいる人間を示しているから。

父は今ここに居ないし、私が出て行けばここに住んでいる人数は0になる。だから個人識別番号の表示は消えた?

けれど・・・ということは・・・父が帰ってくるとしてもここではないということになる。

私が居なくなっても、父がここに帰ってきて1人で住む可能性があるなら番号はそのままで「移動」の文字が入っているはず。

そうか・・・私達くらいの信用スコアの数字だと、この集合住宅の間取りは2人から3人用で、1人の場合基本ワンルームとたしか決まっていた。

上のランクの人達は、どんな大邸宅に住んでるのか知らないけど。

それを自分の目で見て確かめられるという意味では、結婚許可が出たことも新しい経験のきっかけになる。

信用スコアのランクが下がった父は、戻ってこれたとしてももっと狭い所かもしれない。

だけど・・・戻ってこれるまで待つような発想ではいけない。

父もそのつもりだろうけど、私も、自分の意思でこの檻の中から出る。

「就寝の時間です。部屋に戻ってください」

というAIのメッセージが入った。

それから数秒後に、今居るリビングも、私の部屋も全て自動的に明かりが消えた。

3時までリビングに居たことは無いから知らなかったけど、言ったそばから問答無用で電気を消す。

実に腹の立つやり方。

真っ暗で自室までの移動もしにくい。

それでも今日は逆らわず寝ることにした。

体力を温存する事が何より大事。

明日普通に仕事をして、終わったあと今日と同じペースで3冊目を読めば、ここに居る間に全部読めるわけだし。

読み終えたらすぐ、他の荷物と一緒に鞄に詰めてしまおう。

翌朝、起床時間の少し前に私は目を覚ました。

ベッドの中で上半身を起こし、体を伸ばしたりしているうちに目覚まし時計のアラームが鳴った。

着替えようと思ってベッドから降りた時、玄関の鍵を開ける音がした。

父が帰ってきた?

一瞬そう思って喜びかけたが、その気持ちはすぐに消えて恐怖心に変わった。

入ってきた足音が、一人のものでは無かったから。

バラバラと数人の足音がする。

その足音はリビングを通って、父の部屋へと入って行った。

勝手に扉を開けて、一体誰が・・・

恐ろしくて、けれど何が行われているのか確かめなければという気持ちも湧いてきた。

どうせこの部屋に鍵は無い。

もし誰かが外から開けようとしたら、頑張ってドアを押さえていたところで、私一人の力では簡単に開けられてしまう。

ベッドや机など作り付けの家具は動かすことが出来ないし、物を使ってドアを閉めておくことも難しい。

今外にいる人達がここに入ろうと思えばいつでも入れる。

部屋の中で怯えていても同じ事なら、出て確かめる方がいい。

父の部屋からは、何かバタバタ動かすような音、床に何か落とすような派手な音が聞こえてきている。

私は、まだパジャマだったことに気がついて急いで服を着た。

意を決して部屋のドアを開け、外を見た。

父の部屋のドアは開けっぱなしで、数人が中で何かやっている姿が見えた。

私が部屋から出てきても、気付いているのかいないのかこっちには目もくれない。

彼ら同士も誰も話しをせず、ただ黙々と何かやっている様子だった。

私はもう少し近付いて、父の部屋の入り口から中を見た。

ベッドからは布団が剥ぎ取られていて、床に丸められている。

それを一人が、持ってきていたゴミ袋に無造作に放り込んだ。

他の一人が、本棚にある本を数冊ずつ掴んで同じようにゴミ袋に放り込む。

戸棚が開けられ、中に入っていた仕事道具も、つかみ出されてゴミ袋に放り込まれた。

父が大切にしていた物が、ただのゴミとして次々と捨てられていく。

私の中で、恐怖心より怒りの方が勝った。

「ちょっと待って!捨てないで!」

私は怖さも忘れて、部屋の中に飛び込んで行き、ゴミ袋を持っている一人に詰め寄った。

ここまできてやっと私の顔を見た相手は、能面のように無表情だった。

「こんな事聞いてない!何で・・・・」

言い終わらないうちに、別の誰かに背後から押さえつけられた。

私が力の限り暴れて叫んでも、相手の方が体格が良くて力も強かった。

私は部屋から引きずり出されて、自室に連れ戻された。

私を部屋の中へ突き飛ばした相手は、ドアを閉めた。

すぐに起き上がった私は出ようとドアノブに飛びついたが、外から誰かがドアを押さえているらしく、開きそうにない。

私がドアを開けようとして虚しい努力を続けているうちにも、父の部屋からは何かを乱暴に捨てる音が聞こえ続けた。

しばらくそれが続いた後、急に静かになったと思うと抵抗感が無くなりドアが開いた。

私が外へ出ると、ゴミ袋を持った数人が、出て行こうと玄関に向かう所だった。

真っ直ぐに出口の方を向いて進む彼らは相変わらず無言で、私の顔を見もしない。

「待って!」

一番後ろの一人の腕を掴んだが、簡単に振り払われた。

逆に突き飛ばされて、私はリビングに尻餅をついた。

倒れる時に壁に肘をぶつけて激痛が走ったが、何とか起き上がって玄関に向かう。

私の目の前で玄関の扉がバタンと閉まり、鍵が降りる音がした。

試しに開けようとしてみたけれど、やはり外から閉められているようで無理だった。

そうだった。ここは、外からも閉められる作りになっている。

たしか遠隔でも操作出来るとか・・・・

住人が何か犯罪を犯して逃亡の可能性がある場合、感染症蔓延の時緊急措置として人々を外出させないため。

集合住宅の全ての部屋が、そういう場合のために遠隔で外からでも施錠出来る形になっている。

今の場合、これには当たらないはずではないのか?

リビングを見渡した時私は、ここからも物が無くなっているのに気が付いた。

リビングの片隅に置いていた、母の遺影。

こんな事になると分かっていたら、絶対に真っ先に隠しておいたのに。

戸棚を見ると父の分の食器と、配給の食糧が、私の今日の分を除いて消えていた。

冷蔵庫の中の物も同じだった。

父が急に「移動」になった時点では、まだそこに置いてあったのに。

私が部屋に閉じ込められている間に、彼らは父の部屋とリビングから、父の持ち物を一つ残らず全てゴミとして捨てたらしい。

父がもうここに帰って来ないことは決定事項で、持ち物をゴミ袋に捨てるという事は、他の場所への移動も無いって事?

悲しみと怒りで体が震え出す。

この事に対して自分が何も出来なかったことも、本当に悔しかった。

「食事の時間です」

AIからのメッセージが来た。

時計を見ると8時半を回っている。

いつもは、洗顔、歯磨き、メイクを終えて、朝食も終えている時間だ。

彼らがいきなり入って来て、父の持ち物を全部片付けて去って行くまで、おそらく数分だったと思う。

その後、呆然と立ち尽くしていたら時間が経ってしまったらしい。

食べないとどうせまた繰り返しメッセージが来る。

それが嫌で、私は無理矢理食べた。

父が居なくなってからずっと、食べることがむしろ苦痛に変わっていた。

それ以前から、食べ物を美味しいと思ったことは、そういえばもう何年も無かったような・・・これも、父のノートを読んで思い出した事だ。

食事は、ただ体を維持するためだけのもの。

それが私にとって普通になる前は、食べる事を楽しむという感覚が存在していた。

父のノートを読んだ時、私は少しずつそれを思い出し始めた。

配給の食べ物だけで生きるようになって、いつの間にか忘れていた感覚。

何とか朝食を食べ終えたけれど、朝起きてすぐ精神的にショックを受けたせいか、すぐに気分が悪くなってきた。

吐き気に耐えきれず、私はトイレに駆け込んで、さっき食べたばかりの物を全部吐いた。

それでもまだムカムカして、喉に指を突っ込んで、胃液しか出なくなるまで吐いた。

やっと少しスッキリして、洗面所で顔を洗い口を濯いだ。

「9時になりました。仕事を開始してください」

AIからのメッセージが流れた。

私はパソコンに向かい、作業を開始した。

警告のブザーが鳴ったり、繰り返し仕事を開始しろと言われるのは嫌だから。

どうせ外に出ることも出来ない。

明日の朝8時になったら、おそらく今朝と同じような形で外から勝手に開けて入ってきて、連れ出されて結婚相手のところに移動することになる。

それまでの時間が最後の、ここで一人で居られる時間。

遠隔で外から鍵を閉めることが出来るという事は、外から遠隔で鍵を開けることも出来るわけだ。

以前はそういうシステムは無かったと、父のノートに書いてあった。

法律が変わって、住む場所を指定されるようになってから今の形になったらしい。

指定されて入る集合住宅にも、住んでいる者が自分で中から鍵をかけることは出来る。

けれど、支配層の人達はそれを自由に開け閉め出来るというわけだ。

私達をここに閉じ込めることも、連れ出して移動させることも、生かすことも殺すことも、彼らの意向次第という事だ。

父のノートに書いてあった「ここは安全で守られた場所なんかじゃない。見えない檻だ」という言葉。

本当にその通りだと、こんな事になって初めて実感した。

唯一の救いは、この3冊のノートを捨てられていないこと。

そして、父の個人識別番号は消されて持ち物は全て捨てられたけれど、父が死んでいない事が私には分かる

少し考え事をし始めると入力のスピードが落ちて、またAIからの警告が来た。

チャンスが来るまでは、いつも通り、変わらないように、気付かれないように。

それを思い出して私は、仕事の間は出来るだけ作業に集中するように頑張った。

昼食の時にもまた気分が悪くなったけれど、吐いてしまうほどのこともなく耐えられた。

夕方まで、私はペースを落とす事なく仕事をこなし、1日の仕事を終えた。

AIから言われないうちに、さっさとシャワーを浴びて夕食を終える。

自由時間が待ち遠しかった。

寝るまでの間好きに過ごせる自由時間がくると、私はすぐに3冊目のノートを取り出した。

昨日と同じようにペン習字の練習をするフリで、堂々と読んでいたけれど警告が来ることは無かった。

このノートの内容について、見つかる心配は無さそうだ。

3冊目のノートには、支配層の彼らが好む儀式について、彼らが血統にこだわり、そこに重きを置いていることについて、彼らの支配の構図、彼らの支配のやり方について書かれていた。

「彼らのやり方は基本的に、マッチポンプだ。

例えば戦争を起こそうと思えば、国家間の争いの元になる火種を作る。

事実でなくても、そのように見せる事はいくらでも出来る。

メディアを使って思う存分煽り、庶民の感情を揺らす。

両方の国に武器を売り、都合のいいところまで戦争を継続させつつ巨万の富を得る。

けれど、彼らは最終的に金が欲しいわけではない。

通貨発行権も持っている彼らは、金ならいくらでも作る事が出来るし、流通量を減らす事も増やす事も出来る。

株価を好きなように操る事も出来る。

彼らは、金という物を使って人々の感情を揺らす。

金は有限であり、それが無ければ生きていけないという情報を流している。

そして、限りある金を奪い合い勝ち取らなければ豊にはなれないと、人々に思い込ませている。

自分以外の誰かが金を得れば自分がの分が減る。奪われるのだと。

これによって、人々の間には周りを皆んな敵だと考えるような、殺伐とした空気が流れる。

今は、そこにさらに追い討ちをかけるように、金融崩壊の危機を演出して恐怖心を煽っている。

不安。心配。恐れ。そこから来る渇望。妬み。劣等感。

そういう種類の感情、その感情の持つ波動が、彼らの最も好む物で、これが彼らのエネルギー源となっている。

彼らは、自然発生したと見せた災害、病気、食糧危機、何でも演出出来るし、いくらでも恐怖を煽る事が出来る。

メディアを使って世論を操作出来るし、都合のいいように法律を作る事も変える事も出来る。

自分達の息のかかったいくつかの大企業を傘下に置いて、そこの株主が政治家を動かす。

その上に存在する、人間と非人類種のハイブリッド。

そしてさらに上のトップに君臨する、表には決して姿を見せない非人類種の彼ら。自分達を神と崇めさせる事に成功している本当の支配者」

私が子供の頃から学校で、大人になってからはメディアの報道から、これが真実だと教えられ信じていた事のほとんどが嘘だった。

科学的に証明されたものだけを信じるようにと教えられながら、一方で神の存在を信じるようにと、私達は教えられる。

神というものの存在が科学的に証明されたわけでもないのに。

そういえば今でも街の中には、神を祀った祠のようなのがいくつもある。

開発が進んで街がどんどん変わっていく中でも、そういう物だけは取り壊されずに残っていたりするし「何か特別な凄い物なんだ」と、私も何となく思っていた。

「正しいと教えられている事を頑張って守っていれば、死んだ時神に救われ天国に行ける。逆に守らなければ神から恐ろしい罰を与えられ地獄に落とされると、俺達人間は教えられる。

その神の正体は、トップに君臨する非人類種の彼らで、何が正しいかというルールは彼らが決めている。

彼らは自分達を神として位置付け、人間達に自分達を崇め奉らせ恐れさせてきた。

彼らの血を濃く受け継ぐ、人間と彼らのハイブリッド達は、尊い血筋の者と呼ばれて崇められ、彼らのすぐ下の立場、近い立場に居る者達は、選ばれた人として尊敬される。

トップに居る彼らは姿を見せないから、人間の中で上のランクに居る人達(彼らに近いところにいる者達)をトップだと俺達は思っていて、その人達が居てくれるから自分達は安全に守られ生きていられると思っている。

実際は、彼らは人々が生活していくために必要な物を何一つ作ってはいないし、そこに関わってもいない。

本当は、上位より下とされている、庶民と呼ばれている人間一人一人が世の中を支えているわけで、トップに君臨している彼らがいなくなっても俺達は何も困りはしない。

その事に気付かれたくない彼らは、何か問題を作り出しては「これを解決してあげましょう。助けてあげましょう」と言って、依存させる方向に持っていこうと一生懸命だ。

恐怖に支配された人間達は「助けてください」と縋りつき「お前達の安全のためにこれをしなければならない」と言われたら何でも従う。

彼らの寿命は人間よりずっと長いから、彼らには時間がある。

彼らはそのやり方で、長い年月をかけて少しずつ少しずつ、支配を強めていった。

ところが近年になって、彼らの正体に気が付く人間が出て来始めた事で、彼らは今焦っている。

特にここ十年ほど、彼らのやり方が以前より性急に、露骨になってきた。

情報統制もどんどん厳しくなり、俺達が情報収集出来た頃と今では、状況がかなり違う。

彼らの正体に関して知るための手がかりはどんどん消されていって、今では全く見られなくなった」

ノートには、まだ情報を取る事が出来た時期の事が書かれていた。

真実に気が付いた人達がそれをどうやって調べ、発信して、情報が拡散されていったかという事。

歴史を振り返り、そこから近年に至るまで、彼らがどんな問題を作り出して、それを解決するという自作自演のパフォーマンスを繰り返してきたかという事も詳しく書かれていた。

彼らにとって都合の悪い人間が、どれだけ多く消されたかという事も。

私が覚えている範囲でも、海外で起きた戦争、世界的に広がった疫病、金融危機、食糧危機、自然災害・・・・ここ十年ほどの間にも、あらゆる事が起きた。

そういった事が全部自然に起きている中、優秀な選ばれた人達が上に居て私達を導き守ってくれているのだと、私はずっと信じていた。

詐欺師が使うような手口で、彼らにいいように騙されていたとも知らずに。

「先に書いたワンネスという事について希望が理解してくれているなら、

本当は自分より上の存在も下の存在も居ない事が分かると思う。

全ては同じ存在。だから当然、人間より上に別人格の神という存在が居るわけが無い。

それでもあえて神という言葉を使うとすれば、全ての存在の中に神が居る、全ての存在が神そのものという事になる」

「人間の本体が・・・他の存在もだが、肉体ではなく意識体だという事は前に書いたかと思う。

本当は全てがホログラムで、物質というものはそもそも存在しない。

俺達人間が、今全てだと信じている肉体を通して経験している事は、その中のほんの一瞬の体験に過ぎない」

この事についてもノートには詳しく書かれていて、それは納得せざるを得ない内容だった。

ノートを読み終えた時、時計を見ると午前三時数分前だった。

間に合った。

読み終える事が出来た三冊のノートを、私はペン習字の見本帳と一緒に鞄の一番下に入れた。

ここまでノートを読み進めてきた中で、私の中から恐れの感覚が少しずつ消えていった。

畏怖すべき存在など居ない。

今までずっと、上の人だとか、凄い人、偉い人と信じていた人達に、平伏す必要も無いはず。

他の荷物も鞄に詰めながら、数時間後の結婚と移動の事を思った。

来るなら来い。

どんな事でも。

私は恐れはしない。

ノートを読むのに集中していて疲れたのか、昨日はベッドに入ってすぐに眠くなった。

一度も目が覚める事なく気がついたら朝7時半を回っていて、私はアラームが鳴る前に起き上がった。

「まだ起床時間ではない」とか警告が来るかと思ったら、大丈夫らしい。

移動が午前8時という事だったから、着替える時間くらいはくれるという事か。

着替えて顔を洗い、歯を磨いて、持って行く荷物を確認する。

そんなに大きい鞄は無いから、服や食器類、本など入らない物は沢山あるけれど仕方ない。

一番大切なノート、特に気に入っている本数冊、ブラシ、手鏡、化粧品、スマホ・・・小さい方の鞄に、使用頻度の高い物を入れた。

この鞄よりサイズがもう少し大きめの、もう一つの鞄には特に気に入っている服を入れた。

季節ごとの服に下着や靴下、パジャマもあるので、精一杯詰め込んでも全部はとても持っていけない。

父の荷物が処分された時の様子を思い、ここに残す自分の荷物が捨てられる事を思うと胸が痛んだ。

ここで食べる最後の朝食を戸棚から出して、電気ポットでお湯を沸かし、インスタントコーヒーを入れた。

時計を見ると残り時間があと5分ほどだったので、急いで食べた。

何とか食べ終わってコーヒーを飲んでいると、突然玄関の鍵が開けられて数人が入って来た。

父の荷物を捨てに来た時と全く同じだから、私は特に驚きもしなかった。

ゴミ袋を持った二人が私の部屋に入って行き、物をどんどん捨て始めた。

一人が戸棚の中の物を捨て、他の一人が私の飲みかけのコーヒーをテーブルから持ち去って流しに捨てた。

この分だと部屋から引きずり出されそうな気がして、それは嫌なので私は立ち上がった。

自分で歩いて行く方がよほどマシだから。

一人が、私の持っている鞄の大きい方を掴んで取り上げた。

「待って!これは着替えとか・・・」

相手は私の顔も見ずに、鞄を近くに居たもう一人に渡した。

ゴミ袋を持っていたその人物は、私の鞄をそこに放り込んだ。

持っていけるのは鞄一つだけという事か。

逆らっても何を言っても無駄な事は、昨日の状況から分かっている。

昨日のように争って突き飛ばされて怪我をしたり、無理やり引きずって行かれるのは避けたい。

私はすぐに鞄を諦めた。

こっちの鞄さえ取られなければいい。

無駄な体力は使うまいと思った。

一人が先導しているのか玄関の方に向かって歩いて行ったので、私はついて行った。

去り際に壁の表示を見ると、私の個人識別番号が消えるのが見えた。

エレベーターで下まで降りるとワゴン車が待っていて、後部座席の扉が開いているので私は乗り込んだ。

窓には覆いがかかっていて中は薄暗く、乗ったことはないけど警察の護送車ってこんな感じかと思うような車内の雰囲気だった。

昨日は、いきなり人が家に勝手に入ってきて父の持ち物を捨て始めるもんだから、面食らって固まってしまった。

びっくりしすぎて入って来た人達の事もよく見ていなかったけれど、今は少し観察する余裕が出てきた。

昨日も今日もそうだけど・・・家に入ってきて荷物を捨てたり人を運んだり、こういう作業をする人達というのは一言も言葉を発しない。

挨拶なんてもちろんしないし、無言で勝手に入ってきて全ての作業を黙々と行う。

こっちの質問にも一切答えない。

逆らえば腕力でねじ伏せにくる。

けれど、私が何か言ったり逆らったりした事に対して、怒りや苛立ちの感情は伝わってこない。

表情一つ変わらない。

ただひたすら機械のように、やるべき事を実行しているという様子。

制服なのか全員同じ服装をしていて、黒の長袖の上衣に黒のズボン。黒の帽子、マスク、手袋、靴。

服の胸と背中、マスク、帽子の前と後ろに個人識別番号らしき数字が書かれている。

その数字の横にC-2という表示があり、これは全員同じだった。

これはおそらく信用スコアの数字。

私のすぐ上のランクの人達という事か。

職業の種類の中には、こういう事をやる職業というのもあるらしい。

人の家に行き、荷物を始末し、人を運ぶ。

移動の理由が、治験でも召集でも結婚でも、多分やる事は同じ。

この車の運転も、おそらく同じ仕事の人がやってるのかなと思う。

言葉を発しないだけでなく、この人達には表情が無い。

見えている部分が少ないというのもあるけれど、それにしても・・・

表情が無い事に加えて何の感情も伝わって来ない。

最初、人間ではなくてAIを搭載されたアンドロイドか何かかと思ったくらいだ。

よく見ていると瞬きはするし、生きた人間の気配は感じられるので、アンドロイドでは無さそうだと分かった。

身長や体格の違いから、男性も女性も居るようだけど。

髪の長い人は居なくて、帽子でほぼ隠れているから分からないけれど髪型まで性別関係なく皆んな一緒なんじゃないかと思う。

今は、運転席に男性が一人。

この人は最初から車に乗ってここで待ってたらしい。

助手席に一人。

私の前のシートに並んで三人。

運転席の人以外の四人が、私の部屋に入って来た人達。

うち二人は女性だと思う。

今は後ろ姿しか見えないけど、この人達同士の会話も無い。

皆んな真っ直ぐ前を向いたまま、姿勢も変えずに無言で座っている。

一体どういう人達なのか・・・

この人達も、仕事を終えてプライベートな時間は、普通に人間らしく過ごすのかな。

何だか想像できない。

人間らしくという事で言えば、私の今の生活だって人間らしくないのかもしれないけど。

父のノートを読んでから、そう思うようになった。

私は、いつの間にか座ったままウトウトしていた。

この状況でも寝られるなんて、けっこう図太くなってきたかも。

寝ている事に関しては別に咎められもしないし、起こされもしないらしい。

ただ私を所定の場所まで運べばいいという任務なのかと思う。

前の席を見ると、相変わらず皆さん同じ姿勢で、真っ直ぐ正面を向いて座っている。

車に乗ってからどれくらい時間が経ったのか。

私はスマホを取り出して時刻を確認した。

この事も別に止められはしなかった。

時刻は午前9時半過ぎ。

1時間くらい寝ていたらしい。

外の景色はわからないけど、どんな場所に来ているのか・・・

普段は勝手に遠くまで行くのは禁止だし、家から徒歩10分圏内で生活の全てが済んでしまう場所に居たから・・・

こんなに遠くまで来たのって、微かに覚えている子供の頃以来だ。

それからさらに1時間以上走って、やっと車が止まった。

ドアが開いたので、降りろという事かと思って、私は外に出た。

降りようと足元を見た時に、最初に見えたのは土の地面で、すごく意外だった。

地面に立って前を見ると、目に飛び込んできたのは緑豊かな場所で更に意外だった。

林の中に小道が伸びていて、数十メートル向こうにあるらしい木製の門に向かって続いている。

先導していく一人がそこを歩いて行くので、私はついて行った。

なんか想像してたのと全然違う。

Aランクの人達の住む所だから、私が今までいた場所よりも更に近代的な場所だと思い込んでいた。

高層ビルがいくつも立ち並んで、自動運転の車が走り回り、ドローンが飛び回っている場所だと思っていた。

そういえば、父のノートに書いてあった。

支配層の彼らは、自分達は自然豊かな場所に住んでいると。

医療に関しても、効くかどうかあやしい原始的な民間療法と言われているようなものを、彼らは好んで使う。

私達が知っている最新医療というものは、彼らは決して自分達には使わない。

定期検診だの人間ドックだのと、頻繁な検査をすることもない。

何故なら、人間の体にとって本当は何が一番合っていて害が無く、副作用なども無いに等しいか、彼らは知り尽くしているから。

頻繁な精密検査で被曝するような、バカなマネもしない。

それでむしろ健康を害する事をよく知っているから。

健康に関してこれが標準という数値を設定して(しかもそれは度々変えられ、健康とされる範囲は狭まっている)その数値から外れると病気ということになる今の状況は、彼らの都合により作り出された。

そんな事が書いてあった。

そのあとに、医療ビジネスに関する事が詳しい内容が続いていた。

それを読むまで私は、頻繁に精密に検査する事で病気が早く見つかり命が助かると信じていた。

何なら病気になる前に、遺伝子を操作したり内臓を摘出して、病気になるのを未然に防ぐ事が最良のやり方だというのも信じていた。

今住んでいる住居や町の形が、最も近代的で便利で快適で、最高の環境だと信じていた。

上のランクの人は、それと同じような形の、もっと広い所に住んでいるのかなと想像していた。

父のノートに書かれている内容を読むまでは。

支配層の彼らは、高層ビルなんかに住まないし、アスファルトに覆われた場所にも住まない。

強い電磁波に晒され続ける環境にも身を置かない。

それが人体にとって強いストレスになり、有害だとよく知っているから。

私達が住んでいる町の形は、便利で安全で快適に生きられるように作られたという表向きの情報とは違い、彼らが私達を管理しやすいように作られていると、父のノートに書いてあった。

Aランクの人達は一体どんな場所に住み、暮らしているのか。

私は今からそれを見る事が出来る。

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