高層ビルみたいなもっと高い建物を想像していたけれど、全然違っていた。
広々として緑豊かな美しい庭の中を歩いていくと、二階建ての木造の建物が見えた。鉄筋コンクリートとは違う感じ。
鉄筋コンクリートが一番耐震性もあるし素晴らしいと教わってきたけど、「彼らはそんな所に住んでいない」と父のノートに書いてあった。
本当にその通りだった。
「俺達庶民が住居として与えられている鉄筋コンクリートの集合住宅は、大量の接着剤を使用してコンクリートにビニールを貼り付けたような代物だ」と、父は書いていた。
「これは体を芯から冷やすので、健康面では当然マイナス。
おまけに、使われている接着剤が何年もかけてゆっくりと揮発していく。
住んでいる者はそれを吸い続け、健康を害していく。
けれど、それが原因だとは夢にも思わず、何か自然に病気になったらしいと思って病院に行き、症状抑える薬をもらう。
住居に関す夢こういった事を知り尽くしている彼らは、天然素材を使った家に住んでいるはずで、高い建物にも住まないはず。
高層階の環境は、人間の体に元々適さない。
そこに住むということは体のバランスを崩し、健康面に良くない影響があるのを彼らは知っている」
ノートの内容を思い出しながら、私は玄関の前に立った。
ここまで私を先導してきた人は、ここで待つようにと手で合図して中に入って行った。
私を乗せてきた車はもう走り去っている。
徒歩で誰かついてきている様子も無い。
うまい具合に一人になり、待つ時間がある分、私は周りの様子をじっくり観察することができた。
玄関の前には、色とりどりの花の鉢が並べられている。
レンガで作られた花壇もあって、そこにも美しい花が植えられている。
そういえば外の門からここへ辿り着くまでの間も、小道の両サイドに林があり、植物や花が豊富だった。
庭の中に小川まで流れていて、鳥の鳴き声も聞こえる。
私の住んでいた街にあったような巨大な鉄塔も無いし、10メートルごとくらいに設置されている電信柱も、張り巡らされている送電線も、ここには無い。
環境を重視する国では、そういうものは地下に埋める形を取っていたりすると、そういえば父のノートにも書いてあったけど・・・・
ここって国内なのに、環境が違いすぎてまるで異国のように思える。
庭というより植物園かと思うくらい、広大な土地の中に家が建っている。
建物は、二階建てだけれど横に長くてすごく大きくて、一体何部屋あるんだろうと思う。
子供の頃通った学校の校舎くらいの大きさはあると思う。
どっしりとした重そうな玄関扉は木製。
赤茶色の瓦屋根で、壁は白く、洒落たデザインの出窓もある。
他にも、太陽の光がたっぷり入りそうな大きな窓がいくつも付いている。
私の住んでいた集合住宅は、窓なんて無かった。
換気扇が付いているから空気の入れ替えは問題無いと聞いていたけれど、常に電気の明かりに頼らないと暗くて居られない場所だった。
それが普通だと思っていたから、気にしていなかったけれど・・・
これを見るとあまりにも違いすぎる。
少しくらい動いても大丈夫だろうと思い、私は建物に沿って歩いてみた。
玄関は真ん中あたりにあり、端まで行ってみたところで振り返る。
目測で大体20メートル位ある感じ。
全体の大きさは、その倍ということになる。
今までの人生で見たこともないような大邸宅だ。
角を曲がって進んでみると、奥行きはそれより短くて10メートル位だった。
こっちが裏庭になっているらしい。
裏庭の方は、広大な畑になっていた。
その向こうには水田も広がっている。
果物の木も沢山植えられている。
更に向こうには、一部に柵があって違う建物が建っている。
出入りできる形になっているという事は、ここの離れか何かかな。
一体どれだけの広さがあるんだろう・・・
父のノートにも書いてあった。
「俺達に回ってくる配給の食べ物。
あれは、食べ物と呼べるような代物では無い。
人工的に作られた物に、更に添加物が山ほど入れられている。
スナック菓子などには中毒性を引き起こす人工の甘味料、香料がたっぷり入れられている。
そのため、食べ続けるうちにこれが美味しいと勘違いして、もっと欲しくなる。
あれを食べ続けていると味覚がどんどん異常になっていき、元々持っている感覚はどんどん鈍くなっていく。
食糧による支配も、彼らの支配のやり方の中の一つだ。
まず、配給が無ければ庶民は生きていけないと刷り込んでいく。
そして配給の食物に添加する成分によって、自分の感覚を使えず自分で何も考えられない命令に従うだけの人間を大量生産する。
彼らは、自分達の食べる物に関しては、豊かな土壌で栽培された農薬不使用の安全な農産物だけを使っている。
化学肥料が大量に使われた農作物や、遺伝子組み換え作物、添加物まみれの食品など、彼らは決して自分の体には取り入れない。
どれほどそれが健康を害するか、良く知っているから。
彼らは自分達専用の水田や畑を持ち、そこで採れた物だけを食べる。
厳選された材料と、安全な調味料と、ミネラルが豊富で塩素やフッ素などの入っていない水を使って丁寧に調理された食事。
彼らはそういう物しか体に入れない」
数年前までは一般庶民も自分達の畑で作った野菜を食べたり、漬物など保存食も自由に作れたと、父が話したことがあった。
すぐにAIから警告が来たけれど。
父は私に、思い出せと言いたかったんだと思う。
ノートには、その頃から食品衛生法の改正が始まり、一般庶民が自由に食物を作って売る事が難しくなっていった経緯が書かれていた。
表向きは「全ての人に安心安全で美味しい食事を!」と言われていて、私もそれを信じていだけれど・・・・
実はあんな物は、大して美味しくないだけじゃなく安心でも安全でもなかったわけだ。
それどころか、配給に依存させるための支配システムの一環。
実際ここへ来て見たものについて考えると、父のノートに書かれていた事はやはり真実だと思える。
「もし、上のランクの誰かとの結婚許可が出れば、希望にとってそれはここから出られるチャンスになる。
上のランクの者達の生活を垣間見れるかもしれない。
子供を産むとなれば、母体の健康は維持されなければならないと彼らは考えているし、体を浄化させるため添加物入りの食品は出されないと思う。
人間の体の細胞は、半年あればほぼ全て入れ替わる。
その間に、体にとって本当に良い物を食べて、睡眠をたっぷり取って、体を浄化して体力を温存しておくといい。
何も知らないフリを貫き、満足しているように見せておけば警戒もされない。
出来るなら、敷地内の様子や建物の造りを把握し、どこから出られるか考えておけばいい。
逃げるタイミングは、この頃だと思う。
妊娠してしまうと、流産させないためにと言われて自由に出歩けなくなるかもしれないし、体調の変化で体力が一時的に下がるかもしれない。
出産を終えてしまえば、場合によっては命は無いかもしれない。
彼らの生活や環境を知ってしまった事になるから。
優秀な子供が生まれれば、彼らは希望に二人目三人目を産ませようと考えるかもしれないが、それでも、いずれは殺されてしまう可能性は大きい。
何としても早いうちに、体力をつけたら直ぐに逃げる方がいい。
俺も、何とか出来るように最大限頑張ってみる。
簡単には諦めない。
逃げることが出来たら、とりあえず市街地を出て山間部を目指すのがいいと思う。
山があることさえ、希望はもう覚えていないかもしれないが・・・・
真ん中にある市街地を囲むように、山間部はまだ残っている。
この住所からの方角を言っても、希望が結婚によってどこへ連れていかれるか分からないからその情報は役に立たないかと思う。
とにかくどちらの方向へ逃げても、市街地から離れるように外へ外へ向かえばいい。
そこで再び会えることを願っている。
途中でこのノートが見つかりそうになったら、ためらわずすぐに捨てなさい。
ここまで読んだなら希望の頭の中に、ここに書かれている内容は全て入っているだろうから。
そうなれば三冊のノートはもう必要無い」
戻る時は、うろついていたと見られて警戒されたくないので早足で戻った。
玄関の前まで戻り、何食わぬ顔で待っていると、数分後に中から扉が開いた。
入れということなのかと思い、私は中へ足を踏み入れた。
出迎えてくれたのは、さっき先導してくれた人とは違う人だった。
淡いグレーの服を着た年配の女性が扉の横に立っており、私に向かって軽く一礼した。
私も会釈を返した。
「こちらへどうぞ」
女性が言って、前を歩いて行くので私はついていった。
この人も、声に抑揚が無く表情が無い。
それでも、一言も話さない黒づくめの人達よりはマシかもしれないけど。
一目で性別が分かるというところも。
この女性の白髪混じりの髪は、綺麗に切り揃えられたショートボブで、地味めだけど化粧はしている。
白のシャツ、グレーのパンツスーツは制服なのかもしれない。
最初正面から見た時、胸に付けた名札のような物に気付いて見たところ、個人識別番号らしい数字が書かれていた。その横にB-1と書いてあった。
信用スコアだ。
Aランクの彼らに、より近いところに居る人達はBランクの人達なのかと思う。
廊下を歩いている間にも、食事のワゴンを押している人、部屋から掃除道具を持って出てきた人、書類を抱えて早足で通り過ぎる人など、数人とすれ違った。
年配の人も若い人も男性も女性も居たけれど、全員服装が同じというところを見ると、やっぱりこれがここの制服らしかった。
女性の化粧は控えめで髪型も皆んな地味だけど、全く同じというのではない。
皆んな表情無いし、彼ら同士すれ違っても誰も挨拶を交わさないけど。
Aランクの人達が雇い主で、黒づくめの人達が外で影の仕事をする存在、グレーの制服の人達は屋敷内の使用人か、その中でも上のランクなら秘書か側近のような存在といったところか・・・・
長い廊下を通り、螺旋階段を上がり、更に廊下を歩いて奥の方の部屋まで行った。
案内の女性が立ち止まり、壁に付いているプレートの番号を押すと、ロック解除される音が聞こえた。
その奥に更にもう一枚扉があり、女性がノックすると中から「入れ」という男性の声が聞こえた。
抑揚の無い、冷たさしか感じられない声。
私はそれを聞いただけで、一瞬背筋が寒くなった。
「下がれ」
案内の女性に対して言ったらしき次の一言で、女性は一礼して出て行った。
部屋の扉は開いていたので中を見ると、部屋の奥に窓を背にして男性が立っていた。
背が高く細身。
逆光で顔は良く見えない。
この男性が、もしかして私の結婚相手ということか。
「入れ」
そう言われたので、私は部屋の中へ歩いて行った。
思いっ切り命令口調か。
恐れる事はない。
何もこの人が私より偉いわけじゃない。
皆んな同じ存在。
父のノートに書かれていた真実の情報を思い出し、私は相手の目を真っ直ぐに見た。
私は、一歩中に進んで扉の前でお辞儀をした。
窓際に立っていた男が、数歩近づいてきた。
お辞儀を返すでもなく、握手の手を差し出すでもなく、何か言うでもなく、数十センチの距離まで来て立ち止まった。
ここまで近付くと、相手の顔がはっきり見えた。
髪も目も黒いけれど、顔立ちを見ると西洋人との混血かと思われる。
見たところ年齢は、私よりいくらか年上の30歳前後位の感じ。
彫りが深くかなり整った顔立ちなのに、私は目の前の男性に全く魅力を感じなかった。
それどころか目を合わせていると、背中から這い上がってくるような嫌悪感に襲われる。
何がそう感じさせるのか、私は最初分からなかった。
見た目ではなくて、醸し出す雰囲気。
ゾッとするような冷たさが、この男から伝わってくる。
人間らしい温かみを感じられないのは、黒づくめの人達も、ここで見た使用人達も同じだけれど。
それに加えて妙な威圧感があり、恐ろしく冷酷な感じがする。
男は、私の頭のてっぺんから足の先まで、吟味するように眺め回した。
まるで物を見るようなその視線に、だんだん怒りが湧いてきた。
さっきは一瞬相手を恐ろしいと思い、気持ちが萎みかけたけれど、怒りが私の心を奮い立たせた。
こんな失礼な態度ってある?
仮にも結婚相手だ。
彼だってその事はわかっているはず。
私は、もう一歩前に出た。
「はじめまして。結婚許可が出て、今日ここへ参りました」
相手の目を見て、はっきりと伝えた。
笑顔を作るのは無理だったけれど怒りは抑え、失礼にならない調子では言えたと思う。
けれど彼は、私の言葉を完全に無視した。
視線を壁に向け、彼が手の中で何か操作した。
すると部屋の壁の中に、小さな赤い光が現れた。
「お呼びでございますか?」
壁から、年配の男性らしき声が聞こえた。
「今来たから確認した」
彼が答えた。
「今来た」ってもしかして私の事?
壁に付いている何か機械に向かって、彼は話しているらしい。
屋敷の中のどこかに繋がっているのか。
「ご満足いただけましたでしょうか?」
壁からの声がそう言った。
「Cランクの女と言うからどんなものかと思ったが、見た目は悪くない。継続でいい」
言い終わると男は、何か操作してスイッチを切ったらしい。
微かな音が聞こえ、壁の赤い光が消えた。
「下がれ」
私は一瞬、自分に向かって言われたのだと分からなかった。
ここまで他人から失礼な扱いを受けた事は、今までの人生で一度も無かった。
あまりにも失礼すぎる態度に、怒りを通り越して呆れる。
後ろのドアが音もなく開いて「こちらへ」という声が聞こえた。
私が振り返ると、さっきここまで案内してくれた女性が立っていた。
もう一度部屋の中を見ると、男がすでに安楽椅子に座って背を向けているのが見えた。
「どうぞこちらへ」
女性がもう一度言ったので、私は仕方なく部屋から出た。
これが結婚だなどと笑わせる。
けれど考えたら、あんな男と同じ部屋で今日から一緒に過ごすなんて冗談じゃない。
下がれと言われたという事は、ここから出て違う場所に寝られるという事か。
それならむしろラッキーだったかもしれない。
女性は無言で先に立って歩き、私がついてきているか時々振り返って確かめた。
長い廊下をどんどん歩いていく。
廊下の端まで来ると、螺旋階段を降りた。
一階に降りて、また廊下を歩き、ほとんど反対側の端まで来たかという所で止まった。
今日ここに来た時最初に入った、玄関の近くまで来ていた。
階段は建物の片側にしか無いらしい。
「こちらです」
案内の女性はそう言って、部屋の扉を開けた。
「ありがとうございます。ここが私の部屋なんですか?」
「そうです。これから半年間、こちらで過ごしていただきます」
この女性は少なくとも、私が聞けば私の方を見て答えてくれる。
相変わらず表情は無いし、口調は淡々としているけれど。
「起床時間、入浴時間、就寝時間などはAIのメッセージでお知らせします。食事は毎回お部屋に運びます。何か困ったことがありましたら、壁のボタンを押してお伝えください」
「着替えの入った鞄を、ここに来る前に全部捨てられたんですけど。着替えは・・・」
「部屋の中のクローゼットに入っております」
「分かりました。ありがとうございます」
私がそう言うと、女性は一礼して去って行った。
父のノートの内容を、私は思い出した。
「子供を産むとなれば、母体の健康は維持されなければならないと彼らは考えている。体を浄化させるため添加物入りの食品は出されないと思う。人間の体の細胞は、半年あればほぼ全て入れ替わる」
たしか、そう書いてあった。
後でもう一度読み返してみようと思う。
案内の女性は、私が半年間ここで暮らす事になると言っていた。
父が書いていた通り、体内浄化ということか。
逃げるチャンスは、この半年間の間。
父のノートにも書いてあったように、その間に支配層の彼らの生活を垣間見れるかもしれない。
存分に睡眠を取って、配給の食料などとは違う体にいい食べ物を食べて、体力を温存しておく。
可能なら、逃げる時のルートを調べておく。
ここの人達の誰にも気付かれないように、感情は抑えて慎重に、表面は何事も無いかのように振る舞う。
私は自分のやるべき事を、心の中でもう一度確認した。
クローゼットを開けると、下着もパジャマも服も、確かに入っていた。
ここへ来る前に私が持っていた服の数よりも、かなり多いくらいだ。
部屋はほぼ正方形で、私が住んでいた部屋よりは随分と広い。
入り口の扉の反対側、奥の壁には大きめの出窓が付いている。
開け閉めは出来ないけれど、外には広大な庭が見える。
眺めは最高だった。
入って左側にドレッサーとベッド、右側に机と椅子があり、天井近い位置に一つ、換気用の小窓が付いていた。
ここが角部屋らしく、小窓からは空が見えた。
部屋の真ん中には、幅1メートル弱くらいの丸いテーブルが置いてあり、そこにも椅子が一つあった。
食事は部屋に運ぶとか言ってたから、おそらくこれが食事用のテーブルかと思う。
ホテルの部屋のような作りだけれど、トイレや風呂は無いところを見ると外なのかも。
監視カメラはおそらくあるだろうと思って、私はさりげなく部屋を見渡した。
監視カメラの探し方、よくある位置は、父のノートに書いてあったので覚えている。
やっぱりあった。
換気用の出窓のすぐ近く。
私はそっちを見ないように気をつけながら、部屋全体をもう一度見渡した。
もし今見られていたら、監視カメラの位置に気が付いたと思われたくない。
ザッと見たところ他には無いらしい。
あの位置だけなら・・・真下に入れば監視カメラからの死角になる。
ここは雇われている人間も多いから、監視カメラにのみ頼らなくても監視出来るという事なのかもしれない。
それと、ここに来る前の私くらいの生活レベルの人なら・・・この場所に来れば、かなり贅沢な生活と感じるはず。
喜んでここに居て、生活を楽しむのかもしれない。
ここに居る彼らが頑張って監視しなくても、逃げようとか思う人がそもそも居ないのかも。
今までの人生で来た事もないくらい遠くへ来た。
それに今日は朝から今までだけでも、ものすごく色んなことがあった。
そのせいか、すごく長い時間が経ったように思うのに時計を見たらまだ午前中だ。
ここへ来る途中でも車の中で寝たけれど、それでも足りないのかまた眠くなってきた。
父のノートの入った鞄をクローゼットの奥に押し込んで、私は服のままベッドに横になった。
部屋が一階だった事はありがたい。
逃げる段になった時、二階から飛び降りたり、ロープでつたい降りるようなマネをしなくて済みそうだ。
外に見張りが居るのか、建物の周りにはどんな囲いがあるのか。
その辺りを調べないと始まらない。
もし脱走に失敗したら、その場で始末されるか、連れ戻されたらもう次は無い。
必ず一回で成功させなければ。
いきなり逃走経路を確保しようとして動いたりすれば怪しまれる。
安心しているフリをして、とりあえず半月くらいは行動は控えよう。
ここの建物全体に、どれくらいの人数が居るのか。
それも確かめないといけない。
考えているうちに寝てしまったようで「昼食の時間です」というAIのメッセージに起こされた。
家で聞いていた音声と全く同じ。
庶民の私達の家でも、Aランクの人の家でも、AIだけはどこの物も同じなのかなと思った。
体を起こしてベッドの端に座っていると、トントンと2回ノックの音がして同時に「失礼します」という声が聞こえた。
この部屋には、中から閉められる鍵は無い。
なので、外から突然入ろうと思えば入れるけれど、それはしなかったということか。
そう思うと、以前の暮らしより少しはマシなのかもしれない。
私は、つい最近突然家に入られた経験を思い出した。
今日案内してくれた人とは違う人が食事のトレイを持って部屋に入ってきた。
30代くらいに見える女性で、グレーの制服を着ている。
やっぱり表情は無く無言で、真ん中の丸いテーブルの上にトレイを置いた。
「ありがとうございます」
私が言うと、無言で一礼して部屋から出て行った。
ここの誰かから、何か聞き出そうというのは無理そうかな・・・・
いや、決めつけてはいけない。
まだ来たばかりだし、すぐ諦めるのも早い。
上部だけでは、一人一人どんな人なのか分からない。
そういえば今朝は8時出発だったから、配給の朝食を大急ぎで食べて、コーヒーを飲んでいる間に出発時間がきてしまった。
なので、いきなり入ってきた彼らに、コーヒーを途中で捨てられた。
やっとゆっくり食べられる。
昼食のメニューは、焼き魚、炊き込みご飯、味噌汁、小鉢が二つ付いていて中身は冷奴とほうれん草胡麻和え、温かい緑茶、デザートの果物。
食器は瀬戸物で、ご飯は炊きたて、味噌汁もお茶も熱くて、どれも驚くほど美味しかった。
和食なんて本当に久しぶり。
そういえばほんの数年前までは、こういうメニューも普通に食べることが出来ていた。
配給の食事が当たり前になって以降それに慣れていたけれど、食べ物ってこんなに美味しかったんだと改めて思った。
食べ終わって窓の外を見ると、気持ちのいい天気だ。
さっき食事を運んできてくれた時も外から鍵を閉められた音はしなかったし・・・普通に開くのかな?
そう思って扉を押してみると、すんなり開いた。
出ていいって事?
考えたら、普通はそのはずだ。
仮にもこの家の主と結婚したわけだから。
拉致されたわけじゃないし、閉じ込められる方がおかしい。
ここに来る以前も、居住場所は決められているし遠くまでは行けなかったけれど、家から一切出てはいけないという決まりは無かった。
それと同じだとしたら、玄関から出てこの近辺を散策するぐらいかまわないはず。
それくらいなら怪しまれることでも無いし。
私は部屋から出て、廊下を通って玄関へ行った。
この部屋は玄関から近いので、すぐ外に出られた。
廊下にも、玄関を出てすぐの場所にも、制服姿の使用人が居て姿を見られたけれど、誰も何も言わなかった。
相変わらず皆んな無表情で、一切話しかけてこないし、もしかして私の姿が見えてないんじゃないかと思うほどだ。
そういう風に教育されているのかもしれないけど。
外の様子は、ここに来た時にも一度は見た。
けれど今度は、もっとゆっくり見ることが出来た。
昼の時間帯なので、今朝よりも外に人が居る。
果樹園や畑で作業している数人の姿が見られた。
庭の掃除をしている人も居る。
外で働く人達も屋敷内に居る人達と同じ色合いの制服で、作業着のような服装だった。
私が近くを通っても無関心、無表情で黙々と作業している。
この様子は、中にいる人達と変わらない。
けれど何となく、醸し出す雰囲気が少しだけ柔らかい気がした。
空気が綺麗で広々とした、環境のいい場所で働いているからかもしれない。
裏庭にある畑、水田、果樹園がある場所を歩いてさらに先へ進んでみると、来た時にもチラッと見た建物が向こうに見えた。
こちらの建物の離れが何かか?
母家の敷地との間には木の柵があるけれど、出入り口が付いていて自由に出入り出来る形になっている。
私はそのまま近づいていった。
母家が西洋風なのに対して、こちらの建物は純和風だった。
離れといっても相当の広さがある。
生垣に囲まれた美しい日本庭園があり、その奥に立派な瓦屋根の住居。
少し離れたところに茶室のような建物もある。
庭の掃除をしている人と、生垣の剪定をしている人の姿があった。
生垣に沿って通り過ぎ、さらに奥へ進むと、雑木林が広がっていた。
真ん中には細い遊歩道があり、散歩コースになっているのか。
緩やかに曲がりながら続いている道を歩いて行くと、色とりどりの花が咲いていて、果物の木もあり、鳥のさえずりが聞こえる。
小動物や昆虫の姿も見られた。
どこか懐かしい気がする。
子供の頃見た景色に、どことなく近いような・・・
道は一本道なので迷う心配は無く、私は行けるところまでどんどん歩いていった。
雑木林を抜けると、目の前数メートルのところにいきなり高い塀が現れた。
3メートル以上の高さはあると思う。
鉄製の丈夫そうな物で、その塀に沿って所々木が植えられていたり花壇があったりして、見栄え良く整えられている。
けれど、塀の最上部には有刺鉄線が張られている。
さっきの、母家と離れの間にあった柵とは大違い。
この塀は・・・・この場所と、外の世界とを区切っている壁。
それは、遥か向こうまで続いている。
この塀の長さは一体どれくらいあるのか・・・・
数百メートルどころでは無いか・・・1キロメートル位?もしかしてもっと長いのかも。
今朝ここに来た時は、外が見えない車に乗っていたから、どこからこの敷地内に入ったのか分からなかった。
方向的にはこっちは母家の裏庭がある方で、私が来たのは玄関の方からだから・・・・
そっちにも多分これと同じ塀があって、敷地をぐるりと囲んでいるのかと思う。
父のノートに書いてあった事を思い出す。
「支配層の彼らの居住区は、高い塀に囲まれている。
一般庶民と、彼ら特権階級を隔てる壁だ。
壁の向こうにあるのは、大きくて立派な家と広々とした庭。
彼らの住居は本当に美しく自然豊かで、家同士の間も広く空いている。
特権階級の彼らだけがそこに住むために、嘘の理由をつけて庶民をそこに近付けないようにしている。
土砂崩れなどの自然災害があったり凶暴な野生動物の出没などで、近付くと危険な場所とされている区域があるのは、希望も聞いた事があると思う。
実際、一般庶民の居住区側から見ると、危険区域、立ち入り禁止と書かれている。
それを知らないほとんどの一般庶民は、本当に危険な場所なのだと信じてそこへは近付こうとしない。
希望がもし上のランクの相手と結婚する事が有れば、この塀の内側を見ることになると思う」
これも、父のノートに書いてあった通りだ。
不自然に高い塀。
彼ら特権階級と、一般庶民とを隔てる壁。
ここからは塀の内側しか見えないけれど・・・・
危険区域で入ってはいけない場所があるというのは、ここに来る前の生活の中で、そう言えば何度か聞いたことがあった。
何が危険区域だ。
一般庶民を平気で騙して、環境が良く贅の限りを尽くした自分達の生活を守っている。
それが彼らのやり方ということだ。
私が今日見たのは今のところ、広大な敷地の中に建っているこの家一軒だけ。
けれど、彼らの居住区という事は、きっと他にも家があるんだと思う。
それぞれの家が、一軒につきこのくらいの敷地を持っているという事なのか。
私の今までの生活と比べると、あり得ない広さだ。
「平均的生活」と言われていた私達の住む集合住宅には、庭どころかベランダも窓も無かった。
私がもし父のノートを読んでいなかったら、庭を散策してここまで来たとしても、これが何のための塀なのか気が付かなかったと思う。
敷地内の他の場所と比べて、高い塀に有刺鉄線って、ここだけなんか雰囲気違うなとは思ったかもしれないけど。
裕福な人達だから防犯には気をつけているのかと、その程度に考えて納得していたと思う。
ここで働いている人達は、これが何のための塀なのか知っているんだろうか・・・・
この屋敷の人達は、私が庭を歩いてここまで来る可能性は分かっているはず。
それでもこの塀が何のための物で、塀の向こうに何があるか、気がつくとは思っていないという事か。
たしかに私は、父のノートを読まなければ気が付かなかったと思うし、それは彼らの考え通りだと思う。
ということは、塀まで来たからといって私が塀を乗り越えて逃げるとは全く思っていないはず。
それなら勝算はある。
問題は、この高さの塀をどうやって越えるか。
それか塀を越えなくても、どこかに出入り出来る場所があるならそれを探し当てればいい。
まずはどんな方法でもいいからこの塀の外に出る。
彼らの居住区から出て市街地に入り、街の中心部から外れた方向へ進む。
市街地を囲むようにまだ残っているはずの山間部を目指す。
そこまで考えたところで、私はそろそろ引き返そうと歩き始めた。
自由に散策が出来るなら、毎日普通に散歩しているフリで、あちこち見て回れる。
それをしながら、逃げる方法をじっくり考えればいい。
部屋に戻って時計を見ると、3時を回ったところだった。
私が居ない間に昼食の食器は片付けられていた。
出かけてきたのが1時過ぎだったから、往復で2時間くらいか。普通に歩いて約1時間ほどで、あの塀のある場所まで行けるという事だ。
今日はすぐ裏庭の方に回ったけれど、玄関からそのまま真っ直ぐ行ったらどこに出るのか。明日にでも一度行ってみようと思う。
行きも帰りも人の姿は見かけたけど、誰にも何も言われなかったし、私に対して無関心な様子だった。
無関心を装って本当は監視してるとかだったら怖いけど。
伝わってくるエネルギーから、どうもそういう感じははしない。
本当に無関心なんじゃないかと思う。
けっこう歩いたので疲れて、部屋でゆっくりしているうちにまた少し寝てしまった。
目が覚めてトイレに行きたくなり、部屋の外に出て探した。
部屋から数メートルの場所、廊下を少し進んだところにあった。
戻ってしばらくすると「夕食の時間です」のメッセージが入り、昼の時と同じように食べ物を持ってきてくれた。
来てくれたのは、昼間と違って今度は初老の男性だったけれど、ノックの仕方や入り方は昼間の人と同じだった。
これがマニュアルなのかなと思う。
夕食は洋食で、大きな海老フライにサラダもたっぷり付いていて、スープ、ご飯、デザート、コーヒーだった。
これも最高に美味しくて、食べ終わって寛いでいると「入浴の時間です」というAIからのメッセージが入った。
お風呂って何処にあるんだろうと思っていると、すぐにノックの音がして「失礼します」と声が聞こえ、扉が開けられた。
部屋の入り口に立って「ご案内します」と言ったのは、若い女性だった。
けっこう人が居るらしい。
来るたびに人が違う。
ある程度想像していた通り、風呂場は豪華な作りだった。私にとって当たり前だったシャワーだけの習慣とは大違いで、ゆったりと入れるヒノキの浴槽があった。
大きな鏡の前には椅子が置いてあり、座って使えるシャワーが設置されている。
屋敷に人は沢山いるようだけど、従業員用のお風呂とは別なのか。
ここは私一人で使えるらしい。
扉が木製で他の部屋とあまり変わらないから見ても気が付かなかっただけで、風呂場はトイレの横にあった。
部屋に戻ってからは、AIのメッセージで就寝時間を告げられるまで自由に過ごせた。
私は以前と同じように、ペン習字の練習をすると見せて父のノートを読んでいた。
監視カメラの位置も分かったし、あの位置から細かいところまでは見れないはず。
ベッドの寝心地は良くて、就寝が夜12時、起床が朝8時なのでゆっくり寝られる。私は、体力を温存するために休める時は存分に休んだ。
食事や入浴など決められた時間以外は、外に出ても何も言われなかった。
玄関から出て真っ直ぐ、裏庭とは逆の方にも行ってみた。
こちら側は、敷地の端には1メートルくらいの高さの木製の塀があった。
その向こうには、よその家があるらしい。
間に広い通路を挟んで、他の家の門扉と庭が見える。
通路は舗装されていない土の道で、道の両サイドには美しい花が植えられていて遊歩道のようになっている。
一つ一つの家が広大な敷地を持っているようで、反対側の塀のある場所まで徒歩で行くのは、相当に時間がかかりそうに思えた。
数時間で戻ってくるのはとても無理そうなので、こっちは諦めた。
脱出を考える時は、裏庭の方から行って、真っ直ぐに塀のある場所まで行くのが、おそらく最も近道。
玄関側から行くと遠いし、他の家も沢山あるようだし。
見つかる確率が上がってしまいそうだ。
ここへ来てからニ週間は、特に何事も無く過ぎた。
AIからのメッセージに従って同じパターンの毎日が続く。
自由に時間を使える昼間は外へ出かけ、夜は父のノートを読み返す。
脱出の時のことを、頭の中でシュミレーションする。
そういう毎日を過ごしていた。
水も食べ物も集合住宅に居た時とは比べ物にならないくらい良質な物だし、入浴時間にはゆっくり湯船に浸かり、睡眠はたっぷり取れるし、空気が綺麗な場所を歩ける。
そのせいか日に日に体が軽くなり、とても調子がいい。
以前は、慢性的な肩こりや頭痛、倦怠感ぐらいは普通にあるものだから仕方ないと思っていた。
気になる時は薬を飲んで、薬で痛みを抑えて仕事を頑張っていた。
けれど・・・・あれが普通ではなかったらしい。
父のノートにも書いてあった。
「一般庶民は体のあちこちに不調を抱えて何種類も薬を飲んでいる人が多いのに対して、彼らはすこぶる健康だ。食生活、住環境、ストレスの度合いなど、全てが違うから」
両方を体験してみた今だから余計に分かる。
これは真実だ。
こういう事を知るまでは、上のランクにいる人達というのは人格的にも高潔で優しく思いやりに溢れているものと私は思っていた。
常に人類全体の幸せを願い、自分達だけがいい思いをするなんて有り得ないという考えの人達だと、そう信じていた。
ずっとそのように教えられてきたから。
今もおそらくほとんどの人が、彼らを人格者だと信じている。
真実は真逆なのに・・・・
彼らは一般庶民から奪えるだけ奪い、自分達だけは贅を尽くした生活を営み、それでもまだ足りず、更に奪い取ることしか考えていない。
私は、脱出に向けてこの場所について把握しておこうというのは常に意識していた。
その気持ちで過ごして半月経つと、建物の中、周りの様子など大体頭に入ってきた。
今日は昼過ぎくらいから、何やらいつもと雰囲気が違って玄関の方が騒がしい。
部屋の中に居ても大勢の声が聞こえてくる。
数人の来客があったような様子だ。
それからしばらく間を置いて、また何人か入ってきた。
私には関係ない事らしく、私のスケジュールはいつも通りだった。
食事も普通に運んでくれる。
気になりつつも、いつも外に散歩に出る私が急に部屋にこもって来客の様子を見ていたら、きっとすごく怪しまれる。
そう思ったので、昼間はいつも通り出かける事にした。
夜になり、入浴を終えて部屋に戻る時も、廊下を歩いていると二階から賑やかな話し声が聞こえてきていた。
大きめのボリュームでBGMをかけていて、話の内容までは聞こえない。
男性の声も女性の声も混じっている。
ただの遊びの集まり?それとも何かの会合?
どんなメンバーが、今日ここに集まっているのか。
信用スコアAの人達の集まりである事は間違いない。
彼らは、同じランクの人間としか対等に付き合わないから。
就寝時間を告げるメッセージが流れ、部屋の照明が消えた。
今までは毎日すぐに寝てしまったけれど、今日は目が冴えて仕方がなかった。
二階の賑やかな話し声も、部屋に入って扉を閉めてしまうとそれほど聞こえない。
屋敷全体として防音はしっかりしているらしい。
彼らが集まっている部屋は、二階のどの辺りなのか。
私が最初に通された部屋は、二階の一番奥の方の部屋だった。
おそらくそれよりは手前の方。
一階廊下の監視カメラの位置は把握出来ている。
二階の方は知らないけど・・・
おそらく一階と同じではないかと思う。
だけど、廊下を端まで行って階段を上がるのは、さすがにリスクが大きいかも。
別の方法は何かあるだろうか・・・・
夜中にトイレに行くことは、今までだって普通にあるし。
夜中に部屋を出るということは別に怪しまれはしないと思う。
問題はそこから先。
トイレと風呂場は隣り合っていて、中のドア一枚で行き来できる。
掃除をしている時間には、開けたままになっているのも見たことがある。
トイレの窓は小さすぎて出入り出来ないけれど、風呂場の窓ならいけるかもしれない。
私は、廊下に出てトイレまで行き、扉を開けて中に入った。
廊下に出た時から、二階の話し声が聞こえてきた。
まだ何か話しているらしい。
中に入ると、手前に化粧台と手を洗うスペースがあって、その奥にトイレの個室がある。
風呂場と繋がっているドアは、この手前のスペースの横に付いている。
ドアを押してみると、鍵はかかっていなくて簡単に開いた。
トイレと風呂には監視カメラは無い。
廊下の監視カメラでもし見られていたとしても、トイレに入ったところしか見られていないはず。
風呂場に移動した私は、浴槽の横にある窓を開けた。
この大きさなら、何とか通れる。
窓から出て飛び降りても一階の高さだし、この下には危険な物は無い。
風呂に入りながら窓を開けると裏庭の緑が見える作りになっている。
散歩に出た時に確かめておいて良かった。
しかもこの場所は、建物の外から見ると少しくぼんでいて、内側に入っている。外の左右どちらから人が来ても、しばらく隠れることが出来る。
窓から出た私は、地面に降りて辺りの様子を見た。
もう真夜中で、二階で騒いでいる彼ら以外は皆んな寝ているのか静かだ。
もし起きている人が居たとしても、夜中に裏庭を歩き回る人は居ないようで、人の姿は見えない。
彼らが居る部屋は、偶然にもちょうどこの真上辺りらしい。
明かりが漏れていて声がよく聞こえる。
二階の部屋からベランダに出て、彼らは飲んで騒いでいるようだ。
ベランダの手すりに寄りかかるようにして、誰かが話している。
万が一彼らが下を見たとしても、ベランダの下にいる私の姿は見えない。
二階の部屋が明るいのに対して私が居る場所は真っ暗だから、そういう意味でも私に有利だった。
ベランダの手すりに身を乗り出している彼らの姿が、私からはよく見えた。
父のノートに書いてあった内容を読んで、ある程度は予想し、その姿を想像してはいたけれど・・・・実際に見ると本当に恐ろしかった。
「トップに君臨する彼らは人間ではない。
非人類種の彼らは、大きくて二足歩行する爬虫類のような姿をしている。
そして、彼らに近い、彼らのすぐ下の地位に居る者達は、非人類種の彼らと人間とのハイブリッド。
非人類種の血を濃く受け継いでいる。
国内でも、信用スコアAランクのトップの方には、おそらくこういう者達が居ると思う。
彼らは、人間に擬態することも本来の姿に戻る事も、どちらでも出来る」
父のノートに書かれていた事だ。
私の結婚相手の男性も、ここに来た日に見た時は人間にしか見えなかったけれど、今私が見ているのが本当の姿。
人間に擬態していれば外見的には美形に見えるにも関わらず、何故だかわからない嫌悪感があったのは・・・・この正体を感じていたのかもしれない。
近くに人が居ないのを確認して、出てきた時と同じように風呂場の窓から中に戻った。
ドアを開けて一旦トイレの方に戻り、食わぬ顔で廊下に出た。
もし監視カメラで見られていたとしても、トイレに行って戻ったとしか見えないはずだし、時間にしても10分程度だった。
怪しまれることは無いと思う。
部屋に帰ってベッドに入っても、さっき見た彼らの正体を思い出してしまい、なかなか眠れなかった。
次の日の昼食後、私はいつもの習慣で外に散歩に出ようと玄関に向かった。
玄関を出るところで、人と軽くぶつかってしまった。
私が考え事をしていたせいで、前をよく見ていなかったのかもしれない。
相手は若い男性で、隣に女性も居た。
「すみません」
すぐに謝ったけれど、二人は一瞬私の方をチラリと見ただけで、無視して屋敷の中へ入って行った。
二人は美男美女だったけれど、背筋がゾッとするような訳の分からない嫌悪感が私を襲った。
二人とすれ違った一瞬、その感覚をはっきりと感じた。
それに、二人の目を一瞬見た時に気が付いた事があった。
人間の目では無かった。
瞳孔が縦長になっている、爬虫類のような目。
グレーの制服の使用人以外、普段ここには人は居ない。
さっきのあの二人は、昨日の夜から来ている来客に違いない。
人間に擬態しているけれど、本来の姿が一部見えてしまっている状態。
昨日の夜に見た彼らの姿と重なる。
このあと、私はいつもと同じように外に出た。
逃走経路を考えたいという事もあるけれど、天気の良い日なら外に出るだけでも気分が上がる。
昼食後に出て遅くとも暗くなる前に帰らないといけないので時間は限られるけれど、毎日できるだけ違う場所を見て回っている。
私がまだ知らない外に続く抜け道、近道があるかもしれないから。
今日は、裏庭に方に回って雑木林の中の遊歩道を歩いた。
ここに来て一番最初に通ったコースだけど、他の場所も色々見た後でもう一度行ってみようと思った。
あの時見落としていた抜け道など、もしかしたらあるかもしれないし。
遊歩道を歩いて行き、もうすぐ雑木林を抜けるかなというあたりまで来た時、人の話し声が聞こえてきた。
ここでは珍しい事だ。
ここで働く人達は、お互いに一切会話をしないから。
私が挨拶してももちろん無視だし、最初は私が嫌われてるのかなと思ったけど。
彼ら同士の間でも同じらしいというのは間も無く分かった。
Aランクの人達同士は会話を楽しむようで、昨日二階で飲んで騒いでいた人達は賑やかに話してたけど・・・あの人達が、この辺りに来る事ってあるのかな?
今聞こえている話し声が、あの来客達だったとしても、私が散歩に出るのは別に止められていないのだし堂々としていればいい。
けれど・・・なんとなくだけど、あの人達ではないような気がする。
そのままさらに先へ歩いていくと、話し声がはっきり聞こえ始めた。
男性二人の声。
声の感じからして、どちらもまだ若い。
おそらくここで働いている人達ではないかと思う。
雑木林の切れ目まで来ると、並んで立って話している二人の後ろ姿が見えた。
グレーの制服。
思った通り、ここで働いている人達だ。
二人が立って話しているのは、あの塀の前だった。
ここの敷地と、一般庶民が住む市街地を隔てる高い壁。
最初、盗み聞きするつもりはなかった。
けれど、二人は私が近付いている事に気が付いてないようで、話の内容は全部聞こえてくる。
ここで急に出ていくのも何か気まずいと思ってしまう。
結局私は雑木林の中に隠れたままで、二人の話を聞いてしまった。
「・・・前に妹に会ってから、もう三年以上だ」
「気持ちはわかるけど。もし見つかったら・・・」
「それは俺も散々考えたけど、でもやっぱり諦められない」
「・・・そうか。二人きりの家族だもんな。やっぱり会いたいよな」
「このままずっとここに居たら、会える確率はゼロだ。もし見つかって消されたとしても、ここに居て何も行動しなくていつか後悔するより、ずっといいと思う」
「分かったよ。そこまで決意したんだったらもう止めない。一緒に行く事は出来ないけど、俺に出来る事があるなら協力する」
「ありがとう。気持ちは嬉しい。けど、これは俺の問題だから。誰も巻き込みたくない」
「この高さの塀を一人で乗り越えるのは無理だろ。そこだけでも・・・」
「この塀を越えなくても出られる方法はある。俺も最初、ここしか出口は無いと思ってたけど、ずっと調べてて地下通路があるのが分かったんだ」
二人のうちの片方が、脱出を計画している。
私は、途中から思わず聞き耳を立てていた。
ここから出て、会いに行きたい家族が居る。
考えている事は私と同じだった。
脱出経路は、塀を乗り越える以外にもあるのか。
「地下通路か・・・俺は全然気が付かなかったけど、そんなのがあるんだな。ここには見張りは案外少ないから、それだったらいけるかもな」
「生活が保障されてる場所から出て行きたいなんて思う人間は滅多に居ないから。奴らも警戒してないんだと思う」
「なるほどそうだよな。ここの塀の防犯システムだって、向こうから入ってくる人間には思いっきり警戒してるけど、中に向けてはほとんど対策してなさそうだもんな」
ここで、突然会話が途切れた。
沈黙が数秒続いてたいる。
一体何があった?
もしかして誰か来たとか?
足音もしないけど。
次の瞬間、さっきまで普通に会話していた二人が、突然殴り合いの喧嘩を始めた。
え?!何でこんな事に・・・
口論になってたとかでも無いのに。
わけがわからない。
見る間に、腕力で優っていた方が、もう一人を殴り倒した。
さらに倒れた相手の体に馬乗りになって、首を絞め始めた。
このままでは危ない。
「やめて!何があったか知らないけど!」
私は隠れていた場所から飛び出して走った。
考える前に体が動いていた。
相手を殺そうとしている男性の腕に飛びついて、力の限り引き剥がしにかかった。
近付いて初めて気がついた。
この人の表情。
何の感情も現れていない。
口論になってる様子はなかったけど、もし何か相手に対して腹が立ったなら怒りとか、傷ついたなら悔しさとか悲しみとか。
相手を殺したいほどの強い感情が、表情に現れていなければおかしい。
一体どういうこと?
私が必死に止めようとしても、腕力では全く敵わなかった。
振り払われ、突き飛ばされて、腰を強打した。
痛さを堪えて直ぐに立ち上がり、再び止めに入ろうとした時、私は倒れている男性の顔を見てしまった。
助けられなかった。
この人が、もう息をしていないのは明らかだった。
相手を殺してしまった方の男性が、ゆっくりと立ち上がった。
突然、その体が震え出し、よろめき、回転を始めた。
人間の自然な動きとは全く違う。
一体何が起きたのか。
「え?!何?!どうしたの?!」
私は、止めるにもどうしていいか分からず、かと言って逃げるわけにもいかないと思い、ただ呆然と見ているしか出来なかった。
異様な動きは激しさを増して、四肢の関節が変な方向に曲がり始めた。
次の瞬間、次々と体の骨が折れていく嫌な音がはっきりと聞こえ、私は思わず目を逸らした。
ものの数十秒で、男性はバタリと倒れた。
その直前に聞こえた音。
首の骨が折れる音だったと思う。
助けられなかった。
これだけ近くに居たのに。
呆然と立ち尽くしていると、誰かが近付いてくる足音が聞こえた。
一人じゃない。
数人の足音。
ここに居てはまずい。
このまま居ても、もう二人を助ける事は出来ない。
私は雑木林の方に走って行き、茂みの中に身を隠した。
私が隠れている場所の前を、数人の人物が通り過ぎていった。
黒づくめの制服姿の人達。
私がここに連れてこられる時、家にやってきた人達と同じ制服。
彼らは、倒れている二人の方へ向かって走って行った。
数分後に、今度はワゴン車が来てそこへ向かって行く。
何かを乱暴に放り込む音が聞こえた。
続けて、車のドアがバタンと閉まる。
ここからは見えないし音しか聞こえないけれど、音だけでも何が行われているのかは見当がつく。
車が去った後に行ってみると、ここで争いがあった事も、人が二人亡くなった事も、まるで無かったかのように元通りだった。
その痕跡は跡形も無く消されていた。
私は最悪の気分で、来た道を引き返した。
さっき見た場面が何度も思い出されて、どうしても気持ちが沈んでいく。
あの場を見たのに助けられなかった。
逃走を計画していたあの男性は、見つかって消される危険を犯してでも、家族にどうしても会いたいと話していた。
私も同じような状況だから、その気持ちは本当によく分かった。
あの二人は、数秒の空白のあと、急に喧嘩を始めた。
それまでに激しい口論になっていたとかなら、まだ分からなくもないけど、そんな事も無い。
それまでは、むしろ親密な感じで話していた。
逃走に関して・・・大っぴらには言えない内容を話していたというところも、信頼関係があった証拠のように思える。
いきなり喧嘩が始まった事は、どう考えても不自然だった。
それに、何の感情も示さないあの表情。
あの異様な体の動き。
まるで本人の意思とは関係の無いような・・・・
ここまで考えて、私は父のノートに書かれていた内容を思い出した。
「彼らが最終目標として掲げているのは、完全管理監視社会。
人類すべてを一括した集合意識として精神の檻に閉じ込め支配する事。
それを完成させるため、地球全体を覆う電磁波空間をAIクラウドに連結させる。
こうなると個人個人の自由な思考を完全に消し去り、彼らの意のままにコントロールすることが可能になる。
その下準備として、今のレベルの通信システムを完全配備してきた。
あらゆる場所に巨大な鉄塔が立ち始め、電信柱に機器が設置され始めた事はそう遠い過去のことでは無いから・・・希望も覚えているかもしれないな。
人体の方は、受信機となる。
なので通信システム配備と並行して、人体の方にもマイクロチップの埋め込みが進められてきた。
それが便利だという宣伝文句に乗せられて自らマイクロチップを体に埋め込んだ者も居る。
勤め先でそれが義務になったという事で、受け入れた者もいる。
そうでなくても、人体を受信機にするために行われてきた事がある。
次世代材料と言われる酸化グラフェン(黒鉛を酸化させる事でナノレベルまで単層化し得られるナノ炭素材料)を取り入れさせる。
薬に、注射に、食べ物に、水に、衣類に、空からの散布により、これはどこからでも入ってくる。
電波塔は、個人に対して遠隔操作したり管理する事が出来る。
極端な例で言えば「殺せ」と命じて他の誰かを殺させる事も(暗殺)
その人間の存在を消そうと思えば「死ね」と命じて自殺させる事も
数秒で完了するようになる。
彼らは遺伝子を操作して、通常の人間の数倍の筋力を持つ肉体、睡眠時間が極端に少なくても維持できる肉体、痛みを感じにくい肉体などを作る研究も進めている。
今のところは主に戦場に送る兵士としてそういった人間を作っている。
これからは労働力としても使うかもしれない」
遺伝子操作によって人間の肉体が改造されたり、思考までも乗っ取られたりするとなると、人間というよりもはや機械に近くなってくる。
最初これを読んだ時は、まさかそこまでと思ったけれど・・・
彼らが人間に対して行っている事全体を思えば十分にあり得るし、実際に私はそれを見てしまった。
おそらく、さっきあの場に居た事を彼らに知られてはいないと思う。
見つかっていたら私も消されたはずだし。
ここで働く人全員に盗聴器を付けて会話を聞いているのか?
だけど・・・あの二人の会話を聞いたのだとしたら、止めようとする私の声も入っているはず。
頭の中の思考を読んだ?
今の段階でそれはまだ出来ないと思う。
それだったら、脱走を考える私の頭の中も読まれてるはずだし。
会話を聞いたのでは無いかもしれない。
内容まで聞けなくても接触したという事がバレたのか?
ここで働いている人同士一切会話をしないのは、そういう規則なのかもしれない。
接触したという事はそれを破ったことになる。
まさか、たったそれだけの事で、死刑執行という事なのか?
一般的な人間の基準で考えたらあり得ないけれど、彼らならやるかもしれない。
頭の中では様々な思考が渦巻いていても、私は表面上は普段と変わらない様に過ごした。
今日見た場面を思い出すと食欲も湧いてこなかったけれど、何とか頑張って普通に食べた。
入浴で湯船に浸かれる時間は、気持ちを落ち着かせる意味でもありがたかった。
昨日の来客達は、まだ滞在しているらしい。
二階から、昨日と同じく賑やかな話し声が聞こえている。
彼らの正体はもう分かったし、これ以上確かめに行こうとは思わない。
一番上に君臨していて人類を支配している存在は非人類種だと、父のノートに書いてあった。
「彼らは決して表に姿を現さないし、肉体を持たない意識体としての存在だ。
歴史を振り返ると、人間の目から見える存在として姿を現していた事もあった。
目に見えない存在の方がより神秘性を増し、力を示せる事に気が付き、彼らは人前には姿を現さなくなった。
彼らは、自分達を神として崇めさせるため、様々な宗教を作った」
昨夜私が見た人達は、人とは言えない見た目だったけれど・・・意識体としての存在ではなく目に見える姿形があるわけだし、人間ではあるのかと思う。
A-1のランクということは、本当のトップに居る存在達と人間とのハイブリッド。
非人類種の彼らの血を濃く受け継ぐ者達。
彼らは、人間の姿にも、本来の姿にも、どちらにも自在に姿を変えることが出来る。
ノートに書かれていた事は、今まで見てきた通りだ。
最初に会った結婚相手は、完全に人間の姿だった。
今朝見たカップルは、一見普通の人間の姿だったけれど、目が人間の目ではなかった。
昨夜見た彼らは、完全に非人類種で、爬虫類のような姿だった。
どの姿であっても、中身は変わらない。
支配層のトップの非人類種と、人間を掛け合わせたハイブリッド。
彼らの価値観も行動も、人間の基準で考えたのではきっと理解出来ないと思う。
「人間を命令通りに動かす事、都合が悪くなれば消す事も、彼らは自在に出来るようになる・・・・すでにそれは実験段階。何度も実行されている。遠隔で指令を送り特定の行動を取らせること(スパイ活動、暗殺、自爆テロなど)も出来る。証拠を消すため、その人間の脳や心臓の機能を麻痺させて停止させる・・・傍目にはその人間が全部自分の意思で勝手にやったようにしか見えない」
父のノートで読んだこの事も、まさに今日見た事そのままだった。
支配層の彼らが、AIを使って人間に関して常に情報収集をしているという事も、そういえば書いてあった。
それを元に、今使われている個人識別番号や信用スコアも作られている。
年齢
職業
収入
家族構成
健康状態
普段の生活習慣
主義主張
思考の傾向
会話の内容
趣味趣向に至るまで
私が集合住宅で暮らしていた時は、そこに取り付けられているAIによる監視システムがあって、会話の内容など全て聞かれていたけれど・・・
この屋敷の中にも、住み込みの使用人の部屋には当然そういう物があると思う。
今日の場合、場所は外だった。
あの辺りには、監視カメラがあったり盗聴器がある様子は無かったけど。
もしかしたら、普段から集められている個人データが、判断の基準になっているのかもしれない。推測だけど。
収集されたデータからあの人達は、支配層の彼らから見て好もしくない思考を持つ存在として普段から認識され始めていたのかもしれない。
そして、位置情報的なもので監視されているとしたら・・・・
二人が接触、会話しているというのが知られて、消されてしまった。
確実な証拠は無いけど、おそらくそういうことじゃないかと思う。
あの時、塀を乗り越えなくても外に出る方法があると、たしか言っていた。地下に通路があるとか・・・・
生活が保障されているここから出たいと願う人は滅多にいないから、外から中に入ってくる者に対しては警戒していても、その逆は警戒が甘いとも言っていた。
それはきっとその通りなんだろうなと思う。
信用スコアCランクの私でも、父のノートを読むまで、自分の生活は安心安全と信じていたし、そこから出ようなどと考えもしなかった。
それよりもずっと広くて環境のいい場所に居るBランクの彼らなら、余程のことが無いと出ていこうとは思わないはず。
私が結婚相手として選ばれたのはおそらく肉体的健康とか、そのあたりの事だと思う。
他の部分でどう評価されているのか知らないけど、少なくとも今のところ、脱走の可能性ありとは見られていないはず。
そうでなければ、自由に庭に出るのを許可して散歩などさせない思う。
私は父のノートを読むまで、支配層の彼らが作ったシステムに対して全く疑問を持った事も無かったし・・・主義主張や思考の癖についても今までのデータを集められているのだとしたら、きっと奴隷のように従順と認識されているに違いない。
そうでなければ、肉体的健康という意味でどんなに優れていても、彼らからしたら危険思想の持ち主を結婚相手には選ばなかったと思う。
来客の彼らは、翌日も翌々日も帰る様子は無かった。
毎晩夜になると二階で騒いでいる。
まさかずっと居るとかじゃないよね・・・・
昼間出かける時や、夕方帰ってきた時、彼らの中の誰かとすれ違う事はあった。
最初の日に見たカップルも、他の人達も、国籍は様々だった。
性別も年代もバラバラで、20代から40代くらいか。
皆んな私を見ても無関心で、知らん顔で通り過ぎた。
こっちとしてもその方がいいけど。
いずれここから逃げようと思っている私としては、顔を覚えられたりしても面倒だし。
私はここ数日、散歩に出た時は、どこかに地下通路に繋がる抜け道は無いのかと探しながら歩いた。
けれど、少なくとも私が探した範囲では見つからなかった。
誰からも普通に見れる様な場所に作るわけ無いか・・・
今日も諦めて戻りかけた時、数十メートル向こうを誰かが歩いて行くのが見えた。
一人じゃない
話しながら歩いてる。
7~8人は居る。
ここの使用人の制服姿ではない。
今滞在している来客達だ。
一度だけ対面した結婚相手も、あの中に居るのかもしれない。
遠くてはっきり見えないけど、多分、あの人がそうかな・・・
彼らは今のところ、私に気がついてないと思う。
誰一人、一度もこっちを見ないし。
彼らの姿を見かけた瞬間から、私は近くにあった木の影に隠れていた。
見つかったからといって、屋敷の敷地内を散歩してるのは別に不自然な事ではない。
それでも隠れたのは、あわよくば彼らがどこへ行くか見届けられると思ったからだ。
ちょっと散歩というのもあり得なくはないけど、そんなのにわざわざ全員で出て来るかなあと思う。
もし本当にうまくいけば、彼らしか知らない地下道へ通じる通路を、見つけられるかもしれない。
幸いな事にこの辺りは大きな木が沢山あって、いくらでも身を隠しながら進める。
彼らは自分達の話に夢中になっているのか、周りを警戒しているような様子は全然無い。
そういう意味でも、見つからない様にあとをつけて行くのは大して難しくなかった。
敷地内と外を隔てる低い木製の柵があり、そこに付いている扉を開けて、彼らは敷地内から出た。
外には遊歩道や果樹園があって、少し行くと他の屋敷の生垣がある。
生垣に沿って歩くと門扉があって、彼らはそこから入って行った。
私は、少し間隔をおいて彼らの後から入った。
どちらの庭の出入り口も、鍵さえ閉めていないので簡単に入ることが出来た。
この居住区は彼らの同類しか住んでいないから、防犯なんて気をつけなくていいんだろうなと思う。
彼らは、賑やかに話しながら屋敷の庭の中を歩いて行く。
私が今居る屋敷の庭とは、ここはまた個性が違う。
広々としていて、美しい自然が見られるという所では共通だけれど。
庭の一角がオープンテラスのような造りになっていて、そこにテーブルや椅子があった。
彼らはここに座って、家の中からも何人か人が出てきた様子。さっきまでより人数が増えている。
今からパーティーでも始めるのか。
もうすぐ夕方に近い時間だけれど、暗くなっても照明を使って外で楽しめるのかもしれない。
近付き過ぎては見つかる可能性があるので、私は離れた場所から彼らの様子を見ていた。
ここにちょうど倉庫ような建物があり、隠れるのには好都合だった。
けれど、ずっとここに居ても、地下の抜け道というのを探す事は出来ない。
そうか・・・今、屋敷の主も来客達もここに居るということは、屋敷の中は使用人しか居ない。
彼らがこれから数時間か、もしかしたら夜までここに居るつもりなら、しばらくは帰って来ないという事だ。
屋敷に戻れば今晩、部屋を抜け出すチャンスかもしれない。
このまま夜になってもここに居たら、夕食の時間に私が戻らないと、きっとすぐに知らせがいってしまう。
人数を動員して本気で探されたら、見つかるのは時間の問題。
それまでに外への通路が見つからなければ終わりだ。
それならここに居るよりも戻った方がいい。
彼らが居ないうちに、屋敷の中のどこかに地下通路への入り口が無いか、調べる事が出来るかもしれない。
戻ろうと決めて、見つからないうちにここから去ろうと思った時、この倉庫の鍵がかかっていない事に気が付いた。
引き戸が数センチ開いたままになっている。
倉庫なんか見ても、ガラクタが入ってるだけだと思うけど。
もしかして逆に貴重品とかお金を隠してるとか?
もしそうだったとしても、そんなのを盗んで見つかるリスクを上げる気は無い。
私はここから脱出出来さえすればいいんだから。
余計な事してないで早く去らないと見つかったらまずい。
そう思ったけれど、何故かこの中の事が気になる。
何故か分からない。
何か感覚的なもの。
私は、その感覚に従って倉庫の引き戸を開けた。
離れているし音は聞こえないとは思うけど、それでも慎重に。
音を立てないようにゆっくり。
向こうに居る彼らからは見えない反対側だから、まず見つかる事は無いと思う。
引き戸を開けると目の前数十センチのところに、私の背丈ぐらいのつい立てがあった。
外からは物置のように見えたけど、あまり物が入っていない。
つい立ての後ろを覗いて見ると、大きなダンボールの箱があった。
ガムテープで蓋をしてあって何も書いてないし、何の箱か分からない。
重いのかなと思って端の方をちょっと押してみた。
「えっ?!何これ・・・」
思わず声が出てしまった。
小声だったし距離もあるので、彼らに聞かれたりはしてないと思うけど。
軽い力で押しただけで、ダンボール箱がスッと動いた。
その場所に、床を切り抜いた様な穴があった。
下へ降りられる梯子がかかっている。
床に膝をついて下を覗いて見ると、数メートル下に床が見えた。
そんなに深くない。
これってもしかして・・・・
私は、思い切って梯子を降りてみた。
地下通路だ。
どこへ繋がっているのか分からないけれど、見たところかなり向こうまで続いている。
一人なら余裕で通れる幅があり、所々に明かりが灯っていて暗くもない。
ここから見る限り真っ直ぐに道が伸びていて、迷路の様になっているわけでもない。
少し先まで行ってみても迷う心配はなさそうだ。
頭上で微かな音がしたので見上げると、さっき降りてきた床の穴が閉まっている。
自動的に閉まるものなのか?
それだったら普通に押したらまた開くのか?
それとも侵入者があったら閉まる仕掛け?
もしそうなら、戻ったって危ない。
こうなったら進むしか無い。
道は両側に続いている。
どっちへ行く?
何となくこっちかな。
私は自分の直感を信じて、決めた方へ歩いて行った。
地下道は、ほぼ真っ直ぐに続いていた。
途中、少し細い道で横道に入る場所が二ヶ所あったが、それは無視してそのまま真っ直ぐ進んだ。
最後の方は緩やかにカーブしながら続いている。
道の突き当たりまで行くと、上に登るための梯子があった。
あの倉庫から降りてきた場所と同じ形だ。
梯子の下に立って見上げると、四角く切り取られた部分はあるようだが、
何かで塞がっている。
ここに降りる時も、降りてしばらく経ったら入り口が勝手に閉まったけど・・・ここはどうなっているのか。
とりあえず梯子を登っていって、入り口を塞いでいる蓋らしき物を軽く押し上げてみた。
そうするとそれは簡単に開いた。
降りてきた時と全く同じだ。
軽く触れると、そこにあった物がスーッと横に動いた。
上がってから見るとダンボール箱で、これも降りてきた場所と同じだった。
周りを見渡すと、この場所も倉庫の中の様な場所だ。
八畳間くらいの広さで窓は無く、出入り口の引き戸が付いている。
物はあまり多くなくて、箱がいくつか積んである程度だった。
その中に紛れるように、このダンボール箱がある。
知っていれば、隠し扉は一番大きい箱の下だしすぐ分かると思うけれど、知らないで見たらきっとただの倉庫に見える。
向こうの屋敷でもここでも、地下への出入り口があるという事を隠すために、つい立てを置いたり箱を置いたりしているのかと思う。
ここはどこの倉庫なのか。
急に外へ出て、人に会ったら面倒だ。
私は、引き戸の近くまで行き、少しだけ開けて外を確認した。
大丈夫そうだ。
今は周りに誰も居ない。
出てみると、何となく周りの景色に見覚えがあった。
それもそのはずで、ここは私が今いる屋敷の裏庭だ。
ここに倉庫があるのは、散歩の時に何度も見て知っていたけれど。
まさか中にこんなものがあるとは思った事もなく、倉庫の存在なんて今まで忘れていた。
今日彼らが行った家と、この家は地下で繋がっているということか。
地下道を見つけた時、一番うまくいけば今日のうちに外への抜け道を発見できるかと思ったけれど、そう簡単にはいかなかった。
それでも、今住んでいるこの屋敷の中に、地下の隠し通路へ続く入り口があると発見出来た。大きな収穫だと思う。
さっき、横に外れるちょっと細い道もあったけど・・・・
他の家の敷地内に繋がっている可能性が高い?
けど脇道があった方角から考えると、そっちじゃない。
脇道が続いているのは、おそらくこの屋敷の裏庭の奥。
それより先に、他の屋敷は無い。
そこにあるのは、市街地との間を隔てる塀。
殺された二人の男性が話していた事・・・地下道を通れば塀を超えなくてもここから出られるということは、あの脇道が市街地へ続いている可能性はある。
私は、最初の予定通り一旦屋敷に戻ることにした。
夕食の時間が近いし、今居なくなったら直ぐに探しに来そうだ。
脱出するなら、最大限時間を稼げる時を選びたい。
偶然にも屋敷の裏庭に出られたし、散歩から帰ってきた感じで普通に戻ればバレないと思う。
地下道の、あの脇道。
二ヶ所あったけど、うまくいけばどちらかが、直接市街地へと続いているかもしれない。
確かめに行くのは今夜。
このまま明日まで、彼らが帰って来なければやりやすいけど。
私はそれから、何食わぬ顔で戻って玄関から入った。
AIからのメッセージが来て、夕食の時間になり、入浴の時間になった。
湯船に浸かりながら、今日これからの事を考えた。
夜中に活動するために、今日は早いのうちに少しでも睡眠を取っておこう。
集合住宅で父のノートを読んだ時と、同じ手を使えばいい。
ベッドに寝転んで、スマホを見ているフリをしながら仮眠を取る。
全員が寝静まった夜中に起きて、トイレへ行くフリをしてそのまま風呂場へ、風呂場の窓から外に出る。
彼らの正体を見た時と、同じルート。
今回は行き先は違う。
そのまま裏庭を走って、あの倉庫へ行く。
二本あった分かれ道のどっちへ進むか。
方角としては、道が真っ直ぐだったらの話だけど、どちらも市街地へ向かう方向。
これは今悩んでも仕方ない。
行ってから道の前に立って、感覚で決めよう。
うまくいけば、抜け道が見つけられたら、そのまま市街地へ逃げよう。
見つからずに逃げられたとしたら、とにかく街の外の方へ。
市街地は監視カメラだらけだし、警備も厳しいけど。
とにかく出来るだけ遠くへ。
まだ残っているはずの山間部を目指す。
脇道から入っても市街地へ出られなかった場合、途中で見つかりそうになった場合は一旦戻り、他の方法を探りながら次の機会を待つ。
今日抜け道を見つけられた時は、ここで過ごすのは今日が最後。
風呂から戻ってきて、ベッドでスマホを見るフリをしているうちに、だんだん眠くなってきた。
初めて、父の夢を見た。
亡くなった母も出てきた。
子供の頃、私が育った家で、当たり前のように両親が居る。
家族三人で鍋を囲む、賑やかな夕食の時間。
私の目を通してそれを見ているけれど、自分が子供なのか今の年齢なのかよくわからない。
しばらくすると、三人で食卓を囲んでいる場面はそのままに、いつの間にか私達の居る場所が、今居る屋敷の庭に変わっている。
食事を終えた私は両親と一緒に、当たり前のように外に出て、屋敷の庭を歩いている。
母が病気で亡くなったことも、父が連れ去られて居なくなったことも、もしかして全部夢だったのかな。
そう思った時目が覚めた。
一瞬、朝なのか夜なのか分からなかった。
そうか。この屋敷の自分の部屋に居たんだ。
仮眠を取ろうとしてたんだっけ。
私は起き上がって、クローゼットに入れていた鞄を取り出した。
三冊のノート、財布。
持って行く荷物は最低限にしておこう。
化粧品や鏡、ブラシを入れなければ、もう少し物が入る余裕が出来る。
一番履き慣れている靴を一足取り出して、鞄に押し込んだ。
着替えたいところだけど、夜中にトイレに行くのに服を着て行くのは変だし。
でも、今日は屋敷の主が居ないから・・・皆んなてきとうで、監視カメラなんかろくに見てなかったらいいけど。
希望的観測はしない方がいいかな。
逆に、今着替えた方がいいかも・・・・
この位置だと監視カメラには映らない。
クローゼットの扉の影に隠れて、私は着替えを済ませた。
Tシャツとジーンズの上に、もう一度パジャマを着る。
このサイズの鞄なら、パジャマの下に隠せる。
AIから就寝時間のメッセージが来て、私はいつも通りベッドに入った。
出るのは真夜中だから今のうちに眠っても差し支えないけれど、これからやろうとする事を考えると、さすがに緊張して眠れなかった。
私が住んでいた市街地と比べると、ここは監視カメラの数は多くない。
自分から出ていこうとする人がほとんど居ないのが理由の一つ。
もう一つの理由は、使用人の数がこの屋敷でせいぜい三十人程度だから。他の家も変わらないと考えると、それぞれの家でその程度の人数なら個人情報を把握して管理できるのかと思う。
今日のうちに脱出を決行した場合、私が出て行った事がバレるまで、うまくいけば明日朝までか、市街地に出るまで時間がある。
市街地まで抜け道が続いていたとして、どこに出るのか?
市街地には、広い屋敷の庭など私が見ていた範囲にはなかったけど。
庶民の中では富裕層と言われる人達のところならあるのかな。
向こうでも同じように庭の倉庫とは限らず、全然違うところに出るかもしれないけど。
市街地に行けば監視カメラだらけだし、夜中にウロウロしていれば目立つ。
出られた場所によって、一気に走って山間部を目指すか、夜明けまで隠れられるところが有ればそうした方がいいか、行ってから判断しよう。
私は必ずここを出て行く。
それが今日だとしても、もう少し先だとしても、出て行く事だけは自分の中ではっきりと決めている。
昨日夢を見た時も感じだけど、父は今も生きていると思う。
これは前にも得られた感覚。
父の個人識別番号が消えた時も、死んだという事では無いと感じた。
根拠は何も無いけど。
亡くなった母もきっと応援してくれている。
それを思うと勇気が湧いてきた。
結局眠る事はできなくて、時刻は夜中の一時になった。
このくらいの時間になると、起きている人は居ないはず。
私は起き上がって廊下へ出て、トイレから風呂場へ行ける扉を開けて移動した。
前の時と変わらず、鍵は掛かっていなくて助かった。
鞄から靴を出して履き、パジャマを脱いで靴のかわりに鞄の中に押し込んだ。
鞄は、たすき掛けにして体から離さないように持った。
聞き耳を立て、窓の隙間から外の様子をうかがう。
外には誰も居ない。
私は、風呂場の窓から外に飛び降りた。
建物を見上げると、明かりのついている部屋は無い。
起きている人は居ないらしい。
今なら、見つからずに倉庫まで行けそうだ。
月明かりを頼りに、私は裏庭を走った。
この時間なので、誰にも会う事無く倉庫まで行けた。
彼らもまだ帰ってきていない。
倉庫の中に入り、一番大きなダンボール箱を軽く押すと、地下への入り口が開いた。
下に降りると、微かな音が聞こえてきた。
何か叩いているような、響く音が伝わってくる。
人の声。騒めきのようなのも聞こえる。
真っ直ぐ行った先から?それとも脇道の方から?
どちらから聞こえてくる音なのか、ここに居てはまだ分からない。
誰か居るとしたら、上手く避けないと見つかる可能性もある。
私は、今日一度来た道を引き返す方向に進んだ。
進むにつれて、微かだった音が少しずつはっきり聞こえるようになってきた。
大勢が騒いでいる?
この地下道を知っていて使っているのは彼らだけのはずだから、今この近くで何かやってるって事?
この屋敷に数人の来客があって、しばらく滞在した後、屋敷の主も含めて全員で他の家に移動。
最初はそこの庭に集まってたみたいだけど。
あの家の倉庫から、この地下道は続いているから、あの家から皆んなでここへ来るのは考えられるけど、一体何のために?
地下にも、彼らが集まって楽しめる娯楽施設みたいなものがあるのかもしれない。
お金はうなるほど持ってるんだし、何でも作れるよね。
この道をまっすぐ進んで来た時はそんなものは無かったから、二ヶ所あった脇道のどちらかの先に、それがあるのかな。
それとも、ここの入り口みたいに壁のどこか押したら扉が開くとか?
考えながら、私はとりあえず先へ進んだ。
今のところ、壁の中から音が聞こえている感じはしないから、やっぱりどっちかの脇道の方かと思う。
近くまで行けば、二つの道のどちらから音が聞こえてきているのか分かるかもしれない。
彼らが集まっているようなら、そっちは避けて反対の道へ行けばいい。
先へ進むほど、騒いでいる人の声らしきものは、大きく聞こえてきた。
近付いたからだけじゃなくてボリュームが上がっている感じがする。
何かを打ち鳴らす音。
叩きつける音。
ただ賑やかな宴というのとは明らかに雰囲気が違う。
屋敷に来客があって、彼らが飲んで騒いでいた時とも全く違う。
話している言葉の内容までは、はっきり聞こえないけど。
攻撃的。
破壊的。
興奮状態。
狂宴。
これって・・・
大勢の人間が叫び騒ぐ声がひときわ大きくなる。
その時、人の悲鳴が、それに重なるように聞こえてきた。
今、漂ってきたのは血の匂い。
もしかしたらこれは・・・・
父のノートで読んだ、彼らが好む儀式。
誰かが今、その犠牲になってるって事?
生贄を捧げる儀式を行うのは、ここに居る彼らよりもっと上の立場の存在達で、国内ではないはずだけど・・・それを模倣して何かやっているというのはあり得る事だ。
私は、道を走りながら考えた。
どちらの道の先で、それが行われているのか。
脇道の近くまで来ると、はっきりと分かった。
こちらから見て手前にある方の道ではなかった。
彼らがいるのは、奥の方の脇道に違いない。
ということは、こちらから行って手前の方の脇道を進めば、少なくとも彼らとは鉢合わせなくて済むということか。
運が良ければそこが、市街地へ抜けられる道なのかもしれない。
違ったとしても、道がどこへ繋がるか確かめて、見つからずに戻って来れれば・・・今日は何食わぬ顔で部屋に戻って、また次の機会を狙うことが出来る。
だけど・・・今誰かが犠牲になっているのに知らん顔で通り過ぎて行くのか?
行ったからといって、おそらく私に何が出来るわけでもない。
相手は大勢居るし、助けられるわけない。
もう遅いかもしれないし。
むしろ見つかって捕まり、ここから脱出するチャンスを潰してしまうかもしれない。
もっと悪くすれば殺されるかもしれない。
それでも・・・・
冷静に考えたらきっと、無茶な選択をしていると思う。
けれど黙って通り過ぎる事は出来なかった。
脇道に入ると、今まで歩いてきた道の半分ほどの道幅で、一人が通れる程度だった。
彼らの浮かれ騒ぐ声が、だんだんはっきりと聞こえてくる。
血の匂いが濃くなってくる。
犠牲者の悲鳴はもう聞こえない。
行っても手遅れかもしれない。
それでも私は、走り続けた。
もし、まだ生きている人が居るなら・・・
放っておくことは、やっぱり出来ない。
歩道の横の石の壁には、くり抜き棚がいくつもあった。
そこには燭台、斧、剣や槍、盾、鎧など、色々な物が置いてある。
装飾品だとすれば刃の部分は使えないとしても、何か持っていれば素手よりもマシかもしれない。
私は、何か武器になる物は無いかと探しながら進んだ。
壁に固定されていなければ使えるはず。
私の力では重くて振れないかもしれないけど・・・・
刀身があまり長くない剣があったので手に取って見た。
固定はされていなくてすぐに取ることはできたけれど、予想以上に重い。
走って逃げる時には、こんな物を持っていたら不利になる。
それでも今は、何も無いよりは武器がある方が少しでも安心できた。
進んでいくと、目の前に扉があった。
頑丈そうな鉄の扉。
普通に押したくらいでは全く動かなかった。
剣を一旦下に置いて取手の部分を両手で持ち、全体重をかけて力いっぱい押すと扉は少しずつ動き、ゆっくりと開いた。
鍵がかかっていなかったのは良かったけれど力を使い果たし、これを開けるだけで私は肩で息をしていた。
扉を半開きにしたまま、再び剣を持って私は先へ進んだ。
扉は重くて普通に押したくらいではとても動かないから、逆に自然に閉まる心配は無い。
この扉が防音の役目を果たしていたらしく、彼らの声が急に大きくはっきりと聞こえてきた。
さらに奥へ進むと道は緩やかに曲がりくねっていて、突き当たりにある扉から明かりが漏れているのが見えた。
鉄製の引き手が付いた木の扉で、上の部分に黒い鉄格子の入った窓が付いている。
外から入ってくる者の顔を見て確かめるための窓かもしれない。
中では狂宴が続いている様子で騒がしく、私の履いている靴もスニーカーなので、足音で気付かれるような心配はほとんど無かった。
扉の側まで行って、私は中を覗いて見た。
中の方が明るくて、私が居る通路はそれよりも随分暗い。
中から外は見えにくいはず。
彼らは自分達の楽しみに夢中で、こちらに全く意識を向けていなかった。
梟を模った大きな石像が、正面に置かれている。
燭台がいくつも置かれていて、その前に祭壇があるようで、彼らが周りに集まっていた。
祭壇の上に何があるのか、彼らが前に居るのでここからは見えない。
彼らの人数は、ざっと見て二十人くらい。
黒いローブを着た人間の姿の者もいれば、本来の姿に戻っている者も居て、全員が興奮状態で浮かれ騒いでいる。
以前に、屋敷の二階に居る彼らを見た事があるから、彼らの正体そのものにはもう驚かなかった。
何度見ても恐ろしいものではあるけれど。
今はあの時とは違って、ただ酒を飲んで騒いでいるだけではない。
彼らの手や顔は、血に染まっている。
悍ましい儀式がここで行われている事は間違いない。
私に背中を向ける位置で祭壇の前に居た数人が、奥へ移動した。
それで初めて祭壇の上が見えた。
恐怖に目を見開いたまま息絶えている女性の顔。
私は、その顔に見覚えがあった。
何度も部屋に食事を運んでくれた人。
屋敷の使用人の女性だった。
部屋には何人か違う人が来ていたけど、数人で回していたようでその中の一人。
私が会った中で彼女が一番若くて、20歳になるかならないかに見えた。
屋敷の使用人は誰も私とは話さないので言葉を交わしたことは無かったけれど、何度も顔を見た事がある。
彼女が生きている姿を見てから、何日も経っていない。
その女性が今、目の前で死体となって横たわっている。
ぱっくりと開いた首の傷。
そこから吹き出した血を浴びて、彼らは狂ったように浮かれ騒いでいた。
悍ましさに全身が震え出した。
ここで何が行われているか知っただけで、私にはどうする事もできなかった。
また助けられなかった。
精神的ショックで気分が悪くなり、一瞬眩暈がした。
倒れそうになり、扉に手をついて体を支えた。
その時、私が持っていた剣が、扉に付いている鉄製の引き手に当たって音を立てた。
中に居た数人が、一斉にこっちを向いた。
見つかった。
私は、すぐに扉から離れて走り出した。
彼らが大勢で追ってくるのが分かる。
このままだと追いつかれる。
追手の気配をすぐ後ろに感じた時、私は一瞬で体の向きを変えて夢中で剣を振った。
相手が目の前で、ドサリと倒れた。
それを見て、後ろから追ってきていた者達が一瞬怯んだのを感じた。
私は、剣を捨てて全力で走った。
扉まであと少し。
半開きにしておいた扉から、体を滑り込ませる。
扉の取手に飛びついて、力の限り引っ張った。
重い鉄の扉が、バタンと音を立てて閉まる。
開ける時はかなり時間がかかったのに。
とりあえずこれで少しでも時間が稼げる。
私は全力で走った。
どこに繋がっているか分からないけれど、もう一本の脇道へ。
今はそれしかない。
あそこに居た者の中にはきっと、私の結婚相手も入っていたと思う。
顔を見られたとしたら、一旦屋敷へ戻るという選択肢はもう無い。
使った事の無い重い剣を振り抜いて相手を倒した事も、重い鉄の扉を一瞬で閉められた事も、自分でも信じられなかった。
私は格闘技やスポーツをやっているわけでもなく、特に筋力を鍛えているわけでもない。
普段の私の力ではとても無理だ。
これが火事場の馬鹿力というやつなのかもしれない。
こんなところで死にたくない。
私は生きてここを出て、父に会いに行く。
その思いが強いから、何でも出来たのかと思う。
脇道を抜けた時、向こうから走ってくる人の姿が見えた。
すぐそこに見える。
隣の屋敷の方角からだ。
もう連絡が行って追手が来たのか?
走ってくるのは一人で、若い女性だった。
敵?そうじゃない?
追手が差し向けられるなら、もっと大勢で来るのでは?
考えながらも私はそのまま走り続けて、もう一本の脇道に入った。
すぐ後から、さっきの女性が追いついて来た。
「このまま真っ直ぐ走って!市街地へ出られる」
後ろから、彼女が私に向かって叫んだ。
これが本当なら、抜け道を教えてくれるかもしれない。
彼女は誰?
もし罠だったら?
それでもここを進む以外、どちらにしろ他に選択肢は無い。
グズグズしていたら彼らに追いつかれる。
さっきの脇道と同じく、一人通るのがやっとの細い道を、私は走り続けた。
すぐ後ろを走っている彼女が、息を切らしながら私に向かって話し続けた。
「突き当たりの・・壁まで行って・・・」
「右側にある・・・レバーを・・引いて」
「・・壁を押して」
それを聞いて間もなく、緩やかに曲がりながら続いていた道の先に、突き当たりの壁が見えた。
右側のレバー。
確かにそれらしいのがある。
あれが見える前から彼女は言っていたから、知っていたということか。
私がレバーを引くと、ガタンと音がした。
目の前の壁を軽い力で押すと、回転扉のように開いた。
私は外へ出て、彼女がそのあとに続いた。
目の前に広がるのは、市街地だ。
外へ出られた。
「助けてくれたの?」
私は、彼女の方を振り返って聞いた。
「あなたも逃げて来たんだって分かったから」
「もしかして同じ立場とか?」
「私は半年前にここに来て、屋敷から逃げて来た。今日は留守になって、逃げ出せるチャンスだったから」
「私は来てまだ日が浅いけど、偶然地下道見つけて、今日がチャンスだと思ったから逃げて来た。ありがとう。助かった」
「お礼言われるのはまだ早いよ。逃げた事はもうバレてるから、これから追手が来る」
「私は山間部を目指すつもりだけど」
「それでいいと思う。塀に沿っていけば、方角はこっちで間違ってないはず。私は途中寄るところがあるけど、目指す方向は同じだから」
私達は、塀に沿って走り始めた。
「大軍で追ってくるのかな?」
私は走りながら聞いてみた。
「それは無いと思う。誰かを逃した不手際を、市街地の人達に知られたくないと思うから」
追ってくるのはせいぜい数人ということか。
絶対に逃げ切ってみせる。
一人で逃げる覚悟をしていたけれど思いがけず道連れが出来て、私はとても心強かった。
彼女は23歳で、思った通り同年代だった。
女性らしくたおやかで可憐な雰囲気の、とても美しい人だ。
小柄で華奢に見えるけれど、あの屋敷からここまで走って来た所を見ると体力はそれなりにあるらしい。
名前を聞くと「明日香」と教えてくれた。
私と同じで元は市街地に住んでいた彼女は、結婚によって隣の屋敷に入ったのが約半年前。
結婚相手の子供を妊娠しているかもしれないと言う。
子供の頃に父親を亡くして母親と二人暮らしだというところも、私と境遇が似ていて親しみを覚えた。
さっき「途中寄るところがある」と言ったのは、今は一人で暮らす母親の所へ行くということだった。
私の状況を話すと、暖かい言葉で励ましてくれた。
「根拠なんか無くても、そういうカンってけっこう当たるものだから。お父さんはきっと無事だと思うよ」