天気の良い日でも夕方になると急に冷え込んでくる。吹く風の冷たさに、季節が秋から冬に変わりつつあるのを肌て感じる。けれど、雪が降って本格的な寒さがやってくるのは、まだ少し先だ。そんな秋の日の夕方、学校からの帰り道で、和人はそれを見つけた。
舗装されていない土の道に、それは落ちていた。最初は全く動かなかったから、落ちている、もしくは置いてある、それとも捨ててある?そんな感じに見えた。歩いている道の先に、地面の色とあまり違わない色の、その塊があるのが目に入った。
誰かゴミでも捨てたんだろうか。田畑の風景が広がるこの村は静かで、道端にゴミを捨てるようなマナーの悪い人も滅多に居ないのだけれど。ゴミだったら自分が拾って家で捨てようと思い、和人はそれに近づいた。
辺りが暗くなりかけていて離れた位置からはよく見えなかったけれど、近くで見るとそれは、茶色い毛の塊のようだった。縫いぐるみの古いのとか?それにしても随分汚れているけど。そう思って手を伸ばした時、それが微かに動いた。ビクッとして手を引っ込める。え?生き物?
今度は腰を落として目線を低くした体勢で、和人はそれに近づいた。近くで見ると、最初に小さな耳らしき物が見えた。足も、尻尾もある。泥に汚れて所々毛の抜けているそれは、小さな猫だった。捨て猫?
すぐそばにしゃがんで、ゆっくり手を伸ばす。ものすごく汚れているし、栄養状態が良くないからか毛が抜けて痩せこけているけれど、背中に触れると体温が伝わってきた。かなり衰弱しているようで、このまま放っておいたら間違いなく死んでしまう。
和人は、すぐに上着を脱いで猫を包んだ。家まではあと少し。この小さな命の火が消えてしまわないようにと願いながら、暗くなりかけた道を急いだ。
和人が猫を拾ってきたのを見ても、祖父母は大して驚かなかった。以前にも、どこからともなくやってきた猫が家にしばらく居たことはあったし。 猫以外でも、ここは元々色々な動物が訪れる。平家作りの古い民家で、台所は昔ながら土間で、寒くなければ昼間のうちは玄関も勝手口もほぼ開けっ放しにしているような家だ。動物達が勝手に入ってきたり通り抜けていくことは毎日の事だった。
こういう感じなのは和人の家だけでなく、この村では大抵どこの家も開けっ放しだ。動物が勝手に入ってきても、誰も特に気にしない。
ここは長閑な田舎で周りは知り合いばかりだから、開けっ放しにしていても危険も無い。開けている方がむしろ、余分に収穫できた農作物を誰かが分けてくれたりするから都合がいい。玄関に白菜や大根が置いてあることなどよくある事だった。
和人が拾ってきた猫はひどく汚れていて衰弱しているだけで、心臓の音はしっかりしていた。指先に水を付けて口元に持っていくと、小さ舌でそれを舐めた。熱くなり過ぎない程度に温めたミルクを与えると、それも少し飲んだ。猫の体は手のひらに乗るくらいの大きさで、おそらく生後一ヶ月くらいではないかと祖父母が言った。
和人は、泥だらけの猫の体を洗って、夜は自分の服の中に抱いて眠った。拾ってきた日の翌日からはお粥も少し食べたし、一週間もするとかなり元気になってきた。
それから毎日学校から帰ると、和人は真っ先に猫の所へ行った。本当は学校にも連れて行きたいくらい、ずっと気になっていた。最初は弱っていただけで、だんだん普通に食べるようになってきたし、もう命が危ないということは無いと思うけれど。真冬じゃなかったことが救いだった。
猫がすっかり元気になって家族の一員として迎え入れられた頃、そろそろ名前を決めなくてはということになった。猫は雄だったので、強そうな名前がいい。
和人が考えて、漢字で力と書いてリキと読む名前にした。これから先もずっと、強く生きて欲しいという願いを込めた。
和人の両親は、和人が子供の頃に車の事故で亡くなっていた。まだ小学校にも上がる前の、四歳くらいの時だったからほとんど覚えていない。両親と過ごした日常の一コマが、何となく断片的に思い出される事はあっても、顔さえもはっきり覚えていない。写真で見て、そういえばこんな顔だったかもと思うくらいで。
それでも、元々一緒に住んでいた祖父母がずっと面倒を見てくれて、愛情を注いでくれた。それだけで十分で、両親が居ない事を特に辛いとか寂しいと思ったことは無かった。和人にとっては、祖父母が親のようなものだった。
祖父は先祖代々この村に住んでいて、土地も家もある。受け継いだ財産もあるので、それを運用しながら生活していた。
家族全員で農業もやっているけれど、生活費を稼ぐためというより自分達が食べるためだった。収穫が多かった時は、庭に置いている台に並べて良心市で売ったり、道の駅や通販で売っていた。
小学校に上がった頃から、和人は収穫や箱詰めの手伝いをするようになり、その仕事がけっこう好きだった。
徒歩で片道20分ほどのところにある小学校に通い、家の手伝いも続けながら、それなりに楽しく日々が過ぎて行った。そんな日常の中で猫を拾ったのは、もうすぐ小学校を卒業するという年のことだった。
リキは、半年、一年と経つうちに、どんどん大きく成長していった。和人達が見ていて、普通の猫よりかなり大きいのでは?と思い始めたのは、リキが一歳になるかという頃からだった。一歳を過ぎてもまだ成長は続いていた。
キジネコと言われる毛の色で、全体が濃い灰色に近く、そこに黒い模様が入っている。目の色は緑色で、体が大きいだけでなく四肢も太く逞しい感じで、見るからに強そうな猫に成長した。
強く元気に生きろと願いを込めて強そうな名前にしたことが良かったのかなと思い、和人にとってはリキの成長が嬉しかった。
リキはまだ仔猫の頃から、じっと家に居るような猫ではなかった。家の中に入れておくとすぐ外に出たがる。夜中でもよく外出して、次の日の朝になると帰ってきた。
帰ってきてしばらく寝ていたかと思うと、また外に出ていった。人口密度も少ない村のことだから、猫が外をウロウロしていたくらいで文句を言う人も居ないし、リキは自由に育った。
よく狩りもしているようだったし、二歳くらいになると他の猫と喧嘩をすることもあるようで、返り血を浴びて帰ってくることも度々あった。誇らしげに頭を上げて、のしのしと歩く様子から、勝ってきたんだろうなあと分かった。
こんなに体の大きい猫は滅多にいないし、この近所でリキに勝てる猫は多分いないだろうと、和人は祖父母と話していた。
リキは家族の前では穏やかで、べったり甘えてくることは無いけれど、和人にも祖父母にも友好的だった。
家に居る時は大抵、和人の部屋に来て寝るので、三人の中でも特に和人とは仲が良かった。呼びかければ鳴き声で応えてくれるし、寝る時は寄り添って寝て、一緒に外を歩いたり、菓子を分け合って食べたりして過ごした。
話しかければ、じっとこちらを見て聞いているようで、人間の言葉が通じているのではないかと思う時があった。
和人が中学二年になった年、それまで元気だった祖母が突然亡くなった。
まだ残暑の厳しい九月、朝普通に畑仕事に出て、気分が悪くなったと言って家に帰ってきた時は、まだそこまで具合が悪いとは自分でも気が付かなかったらしい。
「少し寝れば良くなるから」と言って、その日はずっと部屋で休んでいた。けれどその翌日、祖母はあっけなく亡くなってしまった。
心筋梗塞という医師の診断だった。祖母は日頃から「ピンピンコロリで死ぬ時はあっさりがいい」と言っていたので、願いが叶ったと言えばそういうことになるけれど。
祖母と仲が良かった祖父はひどく寂しそうで、急に老け込んだように見えた。和人にとっても、母親代わりだった祖母の死は大きなショックだった。
そして、それから約一年後の冬。まるで祖母の後を追うように、祖父までが亡くなってしまった。風邪を拗らせた挙句、肺炎になって死んでしまうまで僅か二週間ほどだった。
和人はついに一人になってしまった。せめてもの救いは、二人ともあまり苦しまずに亡くなったこと。祖父が亡くなった時、和人は中学三年の終わりに近く、あと少しで卒業だった。なので、施設に入れられるようなことはなく、このまま住み慣れた家で暮らすことが出来た。
そして何より救いになったのは、リキが居てくれることだった。捨て猫だったから誕生日がはっきりしないけれど、今の推定年齢は三歳。人間で言えばもう立派な大人で、まだ若く活力がみなぎっている。
この時から、一人と一匹の暮らしが始まった。
リキはよく外へ行きたがるから、自由に出入り出来るように猫用入り口を作った。和人は家の修理も自分でやるくらいで、こういう事が得意だった。壁の一部に、リキが出入り出来る大きさの穴を開け、そこに開閉式の扉を付けた。
リキは、夜となく昼となく、気ままに出入りして好きなように暮らしていた。
食事は、和人が食べ始めると側へ寄ってきて座るので、猫が食べても大丈夫そうな物を適当に分け与えた。魚が好物のようだから、釣りに行って収穫があった時は多めに焼いた。
夜は同じ布団で最初から一緒に寝ることも有れば、夜の間外出していたリキが明け方になって戻ってきて布団の上で寝ている時もあった。体が大きい猫なので、乗られると凄く重くて金縛りにあったような気がするけれど、何だか憎めない。
和人にとってリキは、唯一の家族だった。祖父母が亡くなった時、リキが居なければ本当に孤独になっていたかもしれないと常々思う。
和人には祖父母から受け継いだ家も財産もあるから、経済的に困る事は無かった。
だからと言って、それだけで精神的孤独から逃れられるわけではない。村の人とも顔見知りではあるけれど、特に親しいと言えるほどの友人は近くに居なかった。ここでは就職出来る場所は無いし、少中学校で親しかった友達は皆んな、村を出て都会へ行ってしまった。
そんな中で、リキだけは、ずっと和人の側に居てくれた。
言葉が通じているのではないかと感じるのは、リキが仔猫の時からずっと変わらない。むしろ日を追うごとに、どんどん深く通じ合えるような気がしていた。
和人は、祖父母が亡くなった後も暮らしを変えていなかった。受け継いだ土地と家があるからここに居なければといった義務感からではなく、ここの暮らしが心底好きだった。
友達が皆んな高校卒業と同時に村から出て行っても、和人は同じように都会に行きたいとは思わなかったし、今と違う暮らしをしたいとも思わなかった。
受け継いだ家をいつも綺麗に整え、畑で作物を作り、沢山採れた時は売りに出かけた。家では自分のペースでゆっくり、料理や洗濯をし、日々の暮らしを楽しんでいた。そんな和人の暮らしの中に、いつもリキの姿があった。
人間に媚びることなく常に自由気ままで、猫らしい猫という雰囲気のリキ。リキも、この家が、この土地が、とても気に入っている様子だった。
和人は日々、人間に話しかけるのと同じようにリキに話しかけた。リキは神妙な顔をして聞いていたり、まるで人間のような表情をする。こんな風だから和人にとっては、人間の話し相手が常に側に居なくても、全然気にならなかった。リキがいつも話しを聞いてくれるから。
和人が家を直す作業をしている時も、外で農作業をしている時も、家で料理を作っている時も、リキはよく側に座っていた。そして好奇心いっぱいの目で、和人のやっている事をじっと見ていた。
「手伝ってくれるわけじゃないけど、お前が居ると不思議と作業が進むよ」
そう言ってやるといつも、ニャオと鳴いて尻尾の先をちょっと動かした。
月日は流れ、和人がリキを拾った日から二十年が過ぎた。和人は三十代になったけれど、基本的な暮らしはそのままだった。
恋愛もそれなりにあったけれど結婚することは無く、受け継いだ家や畑を守りながら、住み慣れた土地で暮らした。
自分の畑で作物を育て、多く収穫出来た時は車に積んで売りに行った。村に残っているのは年寄りが大多数で車の運転をしない人も多かったから、代わりに買い物に行ったり、野菜を預かって売る事もあった。
パソコン作業が苦手な年配者に頼まれて手伝ったり教えたり、家の修理なども得意なので、頼まれれば直しに行った。
そういったことで少しずつ収入が得られたし、家と畑は元々あるので生きていくには困らなかった。
リキは、気が向けば和人の仕事について来たり、来ない時は自由に外を歩き回ったり家で寝ていた。
隣近所の人もリキの存在を知っていて、よく声をかけてくれた。カツオブシや煮干しなど好物のおやつを、近所の人がくれることも多かった。
リキは仔猫の時からずっと、やんちゃで活発だった。好奇心旺盛で、外を走り回るのが好きで、近所の人達もよく外でリキを見かけた。おやつをくれる人にはちゃっかり寄って行くし、色々もらって食べていた。
それに対して和人は、どちらかというと物静かで口数が少なく、仕事で人に会う以外は一人でのんびり過ごすのが好きだった。なのでリキは、和人と隣近所の人を繋ぐ存在でもあった。和人が隣近所の人と話すのは、リキの話題が多かった。
リキの存在が、皆を笑わせてくれたし和ませてくれた。
やんちゃで活発だったリキも、年を取ってくると若い時程は走り回らなくなり、だんだん寝ている時間が長くなってきた。それでも、見た目の衰えはあまり目立たず、年を取ってむしろ貫禄が増したような感じだった。猫の平均的な寿命を大きく超えても、まだけっこう元気だった。
和人は、一番の親友であり家族であるリキに、少しでも元気で長く生きてほしいと願った。
それでもやはり、全ての生き物に共通の命の終わりは必ず訪れる。
ある日の午後、和人が農作業から戻ってくると、リキが縁側で寝ていた。これはいつもの風景で、ただ静かに寝ているようにしか見えなくて、リキの命が終わった事に和人は最初気がつかなかった。
体に触れてみた時は、まだ暖かさも残っていた。
その日の朝も、玄関近くに座っていたリキが、出かける和人の方を見てニャオと鳴いて尻尾を動かした。全くいつもと変わらない様子だったのに。
呼びかけて、すでに息をしていないことが分かって、和人は体の震えが止まらなくなった。リキの体を抱きしめて、狂ったように泣いた。
隣近所の人達が、何ごとかと集まってきた。皆んなリキをよく知っていて可愛がっていたので、悲しみを共有し一緒に泣いた。
リキが死んだあと、食事も喉を通らず眠れない日々を送っていた和人を、近所の人達は心配して時々様子を見に来た。多く作り過ぎたからと言って、食べやすいおかずを持ってきてくれたりもした。和人はその優しさが嬉しかったし有難いと感じたけれど、それでもなかなか立ち直れなかった。
リキが死んだ冬の寒い日から数ヶ月が経ち、春の気配が感じられる季節になってようやく、和人は日常の生活を取り戻した。
あの時、体中の力が抜けて動けなかった和人の代わりに、近所の人達がリキの体を埋葬した。綺麗な布に包んで木の箱に入れて、よく日の当たる庭の隅に埋め、石を積んで花の種を撒いた。今では、墓の周りには春の花が美しく咲いている。
リキが死んだことを認めたくないような気持ちから、その場所を見るのも辛いと思っていた和人も、ようやく墓の近くに行って花を眺め、リキに話しかけるように墓に向かって語りかけるようになった。
「おはよう」
「行ってくるよ」
「ただいま」
挨拶の声をかけるのは習慣になり、その日収穫できた野菜の事、天候の事、こんな花が咲いたなど、この場所に来て自分の日常の事を話した。
そうするようになってから何故か心が満たされた。
姿形は無くなったけれど、リキの存在はまだ近くにあって、いつも見守ってくれているように感じられた。
和人が初めて不思議な体験をしたのは、リキが死んでから半年が過ぎた頃の事だった。
その日和人は、帰りが遅くなりそうだったので珍しく家に鍵をかけた。
昼間に農作業を終えた後、夕方から街に出る用事があったからだ。街までは車で二時間ほどかかる。自分の買い物の他、近所の人達から頼まれた買い物もあり、帰ってくるのは夜遅くなる。
近所の家や畑に行くくらいなら勝手口も玄関も開けっ放しで、それでも安全な村だったけれど、今日は夜遅くまで留守にするからと一応用心のために鍵をかけたのだった。
ところが逆にそれがいけなかった。普段鍵などほとんど使わないものだから、鍵を無くしてしまったらしい。予定通り買い物を終えて家に帰って来たはいいが、カバンの中から鍵が見つからない。
早く家に入って休みたいのに、カバンをひっくり返して探しても鍵は無く、気持ちが焦る
どうしても見つかりそうになければ、仕方ないから今日は車の中で寝て、明日明るくなってからもう一度探そうかとも思った。
その時ふと、背後に何かの気配を感じて和人は振り返った。何かの気配といっても危険を感じさせるものではなく、ただ静かにそこに居る感じ。月明かりの下、それは和人の方を見ていた
緑色に光る二つの目。体全体も淡い光りに包まれているそれは、猫だった。普通の猫より一回り体が大きく、長い尻尾の先は大きく二股に分かれている。その二本の尻尾がユラユラと揺れていた。
「リキ・・・」
和人は、呼びかけて一歩近づいた。辺りが暗くて体の模様までははっきり見えないけれど。あの目の色、体の大きさ、全体の感じからして間違いない気がした。リキは確かに死んだはずだけれど、でも目の前にいるこの猫は、あまりにもリキに似ている。
この日の不思議な出会いのことを、和人は翌日、日記に書いた。
6月1日
家の鍵を無くしたようで、今夜は車の中で寝ようかと思った時、気配を感じて振り返ると猫が居た。どう見ても、リキに似ている。
模様までははっきり見えないものの全体に黒っぽいのはリキの体毛の色に近い。リキと同じ緑色の目で、普通の猫より一回り体が大きいところも似ている。
逆に違うところというと、長い尻尾の先が大きく二股に分かれていた事。その二本の尻尾がユラユラと揺れていて、体全体も淡い光りに包まれていた。
その様子を見ていると何か、この世の生き物ではないような。でも猫には違いない。
リキが死んだことで精神的にまいっていた俺が、幻覚を見ているのか?
最初はそうも思った。
猫が俺の方を見て、ニャオと鳴いた。
この鳴き声にも聞き覚えがある。
やっぱりリキに似ている。
猫は、ゆっくりと近づいてきて、俺の顔を見上げた。
そして、そこから玄関の扉に向かって歩いて行き、止まった。
その場を指し示すように、前足で地面をトンと叩いた。
近付いて見ると、落とした鍵がそこにあった。
出かける時慌てていて、鍵をかけた後すぐ近くに落としたらしい。
今は周りが暗いから見えなかったのだ。
玄関に鍵なんかかけたって、まるで意味が無かったという間抜けな話だ。
鍵を拾って鍵穴に差し込もうとした時、隣で猫用扉がパタンと音を立てた。
リキが死んでから、そのままになっていた猫用扉。
今ここから入った?
ということは、やっぱりあの猫はリキなのか?
急いで鍵を開けて中に入り、すぐに電気をつけた。
猫の姿はどこにも無かった。
窓も勝手口も閉めているし、出られる所は無いはずなのに。
呼びかけてみても反応が無い。
気配も無い。
猫用入り口から入ったのに、煙のように消えてしまった。
6月2日
今朝起きて見ると、畳の上に毛が落ちていた。
明け方の、まだ薄暗い部屋の中で、それは淡く光っていた。
昨日の猫の毛に違いない。
毛の色を見ると、やはりあの猫はリキなのではと思う。
昨日俺が見たのは幻ではなかった。
死んでから数ヶ月は、姿を見せなかったのに、何で今なのかわからないけど、来てくれたことに対しては嬉しさしかない。
もしかしたら前にも来てくれていて、俺が精神的に落ち込みすぎていて気が付かなかったのかもしれない。
後で思い出したけれど、そういえば子供の頃、ねこまたの話を聞いたことがあった。
尻尾が二股に分かれた猫は「ねこまた」と言って、長く生きた猫が化け猫になった姿だと、じいちゃんが話してくれたことがあった。
リキは確かに長く生きていた。
昔話の中に出てくる猫又は、どちらかというと怖い感じで描かれていたりするけれど。
じいちゃんもばあちゃんも元気でリキがまだ仔猫だった頃「リキが長く生きたら猫又になったりして」とか、冗談で話したのを思い出す。
「猫又でも、リキだったら怖くないね」と言って三人で笑った。
6月3日
昨日の夜のことは、きっと一生忘れない。
あれが最初で最後の体験なのか?
これからもあるのか?
昨日の夜、寝床に入ってしばらく経った頃、あの猫が姿を現した。
寝ている俺の掛布団の上に乗って、俺の顔をじっと見ている。
昨日見た時と同じく体全体が淡い光に包まれていて、重さは感じない。
不思議と怖くもない。
近くで見るとやっぱり、この猫はリキに違いない。
「リキ?」
呼びかけると、猫は小さくニャオと鳴いた。
肯定かな。
何となく伝わってくる。
ポンと飛び降りたリキが「ついて来い」と言っているみたいだ。
言葉を喋るわけじゃないのに、何を言いたいかはっきり伝わってくる。
何だろう。この感じ。
猫用入り口から出て行ったリキの後を追って、俺は玄関から出た。
月明かりはあるが、懐中電灯でも持ってくれば良かった。
リキは時々振り返りながら、どんどん進んでいく。
竹林の中に入っていくリキの後について、道も無いようなところを竹藪を掻き分けるようにして進んだ。
こんな所に一体何があるのかと思っていると、突然、少し広くなっている場所に出た。
丸く切り取られたような空間。
月明かりに照らされたその場所には、沢山の猫達が集まっていた。
近所で見かけた事がある猫も居る。近くの家で飼われているあの猫もいる。
他にも、白い猫、三毛猫、黒猫、リキと似たようなキジ柄の猫など、色んな猫がいて、好きなように座ったり寝そべったりして、賑やかに話している。
そして、その話ている内容が俺にも分かった。
言葉として聞こえたというのとは違う。
さっきのリキの言っている事が分かった時と同じ。
言葉を聞くよりも早く、なんか直接入ってくる、伝わってくる感じ。
猫達の話す様子は、村の人達の井戸端会議と何も変わらない。
俺が入って来て見ているのに気がついたのか、お喋りに熱中していた猫たちの中の一匹が振り向いた。
「あんたの知り合い?」
リキに向かって問いかける。
「長年一緒に暮らしてた人。聞かれても大丈夫だ」
「そう。じゃあその辺てきとうに座って」
そう言われたのが分かったから、俺は空いている場所に腰を下ろした。
リキは俺の隣に、くつろいだ感じで座った。
二股に分かれた尻尾の先が揺れている。
今見ている限り、リキ以外は普通の猫らしい。
猫たちが話していたのは、この村のこと。
人間の俺より、猫達の方が余程色々なことを知っていた。
6月4日
猫たちの会議に参加したあと、俺はどうやって家に戻ったか覚えていなかった。
途中で眠くなり、いつの間にか眠ってしまったらしい。
そして気がついたら、自分の部屋に居た。
起きた時、もしかしたら全てが夢だったのかと思った。
けれど、いつもなら自然に目が覚める時間に今日は起きられなかった。
目覚めた時はすでに昼だった。
寝た時の服装のままだけれど、外に履いていったサンダルが部屋の入り口に転がっていた。
部屋の中まで履いてきたということか?!
俺の体は布団の中には入っていなくて、掛け布団の上に上半身だけ乗せるような変な格好で寝ていた。
寒くも無い今の季節だから、それでも平気だったけど。
夢遊病でもあるまいし、普段はこんな事はまず無い。
決定的だったのが、髪の毛に付いていたのと玄関に落ちていた枯れた笹の葉。
竹藪の中の湿った地面を歩いたのも間違いないようで、サンダルの裏がひどく土で汚れていた。
普段は外に洗濯物を干す時ぐらいしか使わない履き物だから、汚れることもそんなに無い。
しかもよく見ると、サンダルの裏にも枯れた笹の葉が付いている。
やはりあれは本当のことだったらしい。
猫たちの話の内容を、忘れないうちに書きとめておく。
それは、ここからそう遠くない場所の、ある村の話だった。
その村の様子が、ここ数年で急速に変わってきたのだと言う。
ここからが、俺が聞いた猫たちの会話。
「新しい町の形を目指すとかっていう開発みたいだね」
「自然豊かな暮らしなんて謳ってるけど、元々の自然を作り替えて公園とか道とか花壇とかどんどん作ってるみたい」
「人工的に作られた物なんか自然とは遠いよねぇ」
「昔ながらの古い家とかみんな壊されて新しい建物が増えてるし」
「色んな場所に変な監視カメラがいっぱい付いてるし」
「電信柱が増えたし、建物の屋根に変わった形のアンテナがいっぱい立ってるよね」
「便利な暮らしにはあれが必要らしいけど」
「買い物も全部宅配で手に入れるか、村の真ん中にできた大きなショッピングモールで済むみたい」
「そこって食べ物とか日用品とか何でも揃ってて、無人のレジがあるんだって」
「何だかねぇ。味気ないねぇ」
猫たちの会話から、その村の様子が映像で直接伝わってくる感じ。言葉として聞いてるわけじゃないのに、それ以上に早く分かる。
沢山いる猫たちの、それぞれの個性も伝わってくる。人間と同じ。皆んなそれぞれ見た目も性格も違って個性的。
その村では、数年前まで沢山あった個人店が、必要とされなくなり姿を消したらしい。
畑で作物を作るのも、漬物などの保存食を作るのも、全て許可制になって勝手に作る事は禁止されているこれが最も、衛生的にも安心という事らしい。
「防犯上でも衛生面でも安心安全で、便利で暮らしやすい町。最新のシステムを備えた近代的な場所でありながら、自然と融合している」という売り文句で、国内だけでなく海外からも移住してくる人が増えているという事だった。
そんな事は全く知らなかった。
自然と融合と言ったって、それって融合か?便利で安全?安心?
俺の中には違和感しか湧いてこなかった。
ここに集まっている猫たちがこの事を知ったのは、その村を離れてこっちに逃げてきた野生の猫が沢山居たかららしい。
その猫たちから聞いたと言う。猫の情報網はすごい。人間の俺より知るのが早い。
生き物にとっては住みにくい場所となったその村から、動物たち、昆虫たちは離れて違う場所に移って行っていると言うその開発とやらが、もしかしたらこの村にも及んでくるかもしれないと、猫たちは噂していた。
もしそうなら、絶対やめてほしい。
若い人はほとんど街に出て行くから年寄りが多くなったこの村だけど、このままで皆んな楽しく暮らしている。
地域で愛されている動物たちも居るし、虫も多いから畑の土は柔らかく、いい作物が育つ。
監視カメラなんか無くても、この村では玄関勝手口開けっ放しで何の問題も起きない。
食べ物や日用品は自分で作るか、村の中の個人店で買うだけで十分足りている。
作物が多く採れたら、当たり前のように近所に分ける。
この世代で村に残ってるのは俺ぐらいかもしれないけど、俺はここでの暮らしが好きだ。
6月7日
激しい雨が降った昨日一昨日は、家の中を直したり、保存食を作って過ごした。
この二日間リキは現れなかったから、猫の会合に参加出来たのはあれが最初で最後だったのかなと思い始めていた。
近くの村で起きていることを、もしかしたらここでも起きるかもしれないことを、リキが俺に知らせるために呼んでくれたのか。
家に居た二日間で、そんなことを思っていると、今日の夜になってリキが現れた。
ついさっきのことだから、寝る前に、忘れないうちに書いている。
夕食の準備に土間で飯を炊いている時、背後に気配を感じた。
振り返ると、米櫃の上にリキが座っていた。
もう会えないかと思っていたから、突然の出会いに喜びが込み上げる。
「もう来ないと思ったのか?会えたことを喜んでくれて俺も嬉しい」
そう伝わってきた。
リキは、俺の気持ちを読めてる?
リキが言葉を喋ってるわけじゃないのに言いたい事が瞬時に伝わってくるのは、猫の会合に参加した時と同じだ。
「来てくれて本当に嬉しいよ。これから晩飯なんだけど、リキは・・・」
「俺は食べ物は必要無い。気にせず食べながら聞いてくれたらいいんだけど」
「じゃあ、そうさせてもらおうかな」
俺の方も言葉で言わなくても、リキには伝わるらしい。
これってもしかしてテレパシーの会話?
この前の会合では、リキだけでなく他の猫たちの会話も分かった。
何となく、この感覚に慣れてきたかも。
「リキは、猫又っていう妖怪なの?子供の頃、じいちゃんばあちゃんに聞いたんだけど」
「人間からはそういう名前で呼ばれているらしいね。俺にとっては呼び名なんて何でもいいんだけど」
「そういえば・・・猫又って怖いイメージだけど、リキがもし長く生きて猫又になっても、リキだったら怖くないねって、じいちゃんばあちゃんと話してたよ。思った通り、やっぱり怖くないな」
「和人は友達だから。俺は一回死んで、でも何だか知らないけどこういう形でまた戻って来れた」
「光ってる体の毛も、二股の尻尾も、すごくかっこいいよ。見た目と雰囲気は変わらないし、すぐにリキだって分かったし」
「体の大きさは変えられるんだぜ」
リキの体は、ものの数秒で大きくなった。
形はそのままに、馬ほどの大きさになる。
「この前背中に乗せて運んでやっただろ?覚えてないと思うけど」
「そうだったのか。ありがとう」
なるほど。あの時の謎が解けた。
今度は、スルスルと縮んで鼠ほどの大きさになった。
「わぁ!小さくもなれるのか」
「この方が隠れやすい時とかは小さくなる」
そしてまた、数秒で元の大きさに戻った。
「リキは、昼間には出て来れないの?」
「そうだな。大抵昼間は休んでて、活動するのは夕暮れ以降だ。和人や他の猫たちからも、夜の方が姿が見えやすい」
なるほどそうなのか。毛が光ってるのは夜だと目立つし確かに。
「俺以外の人間には、リキの姿は見えないのか?」
「見られると面倒だから、見られないように生きてるけど。俺が意図的に姿を見せようと思えば、誰からでも見えると思う」
俺たちが話していると、開けっ放しの勝手口から一匹の猫が顔を見せた。
見覚えのある、体の大きな茶色の猫。会合の時にも来ていた。
向こうも俺に気がついたらしい。
「明日も来るだろ?」
その猫は、リキと俺を見て伝えてきた。
「俺も行っていいのか?」
俺がそう思うと
「当然」
と、リキとその猫から返ってきた。
仲間と認めてくれているらしい。
明日もまた、夜中に会合があると言う。
夕食を終えて勝手口から外に出てみると、近所の家で飼われている犬のシロが近くを歩いていた。
シロは俺の姿を見ると、尻尾を振って近付いて来た。
「ここしばらく見なかったけど久しぶり。元気?」
こんな感じの言葉が、シロから伝わってきた。
「そういえば久しぶり。俺は元気でやってるよ。そっちも元気そうじゃないか」
俺はシロの背中をワシャワシャと撫でた。
シロは俺の手をペロリと舐めて、リキにも挨拶してから去って行った。
あまりにも自然にテレパシーでコミュニケーションが取れて、不思議だという気さえ起きなかった。
猫だけでなく、犬とも大丈夫らしい。
この村では、犬も猫も自由に歩き回っている。
犬猫以外にも、鶏、アヒル、牛、馬、山羊、羊、ウサギなど生き物は多く、野生の犬猫、狸やキツネも沢山居る。
もしかして俺は、他の生き物たちとも普通にコミュニケーション取れるのでは?
「本当はこっちが普通なんだけどな」
リキから伝わってきた。
「俺はどんな生き物とも普通にテレパシーで話すし、俺だけじゃなく他の生き物同士も普通にコミュニケーション取ってるよ。動物だけじゃなくて植物も鉱物も。これが出来ないのは人間だけ。人間だけが、人間同士しか話さない。不便だねぇ」
そうだったのか。
あまりにも知らな過ぎた。
俺は、リキと再会したことが刺激になったのか、他の生き物たちと同じ能力が偶然目覚めたのかもしれない。
リキは「明日夜に迎えに来る」と言ったあと、体の輪郭がぼやけたと思ったら煙のように消えた。
6月9日
昨日の夜、リキは約束通り迎えに来てくれた。
二回目だからか俺もけっこう余裕出てきて、周りの様子を見ながらついて行った。
最初の時は見てる余裕なかったけど、俺達の他にも色んな方向から、猫達が集まってくる。
座る場所とかは決まってないらしくて、どこでも好きなように座っていいらしい。
色んな能力を持っている猫又のリキがリーダーかというと、そうでもないというのも聞いた。別に誰がリーダーというわけでもないらしい。
一応集まる場所があって、暗くなってからというざっくりした感じで時間が決まっていて、いつ会合をやるかは、誰かが言い出した時という事だった。
上下関係も無いし、開催日も時間もてきとうな感じが猫らしくて、なんかいいなあと思う。
そんな猫達の中に、俺も入れたことが嬉しい。
「ここも、その新しいタイプの街とやらの候補地になっての?」
「どうやらそうらしい。少しずつ広げてきてて、こっちまで進むのは遠い先では無さそう」
「そうなったら住みにくいな。俺は、先祖代々あの場所に住んでるし、今更出てどっか行く気も無いし・・・」
俺がそう思っただけで、周りには伝わっていくらしい。
「人間って、家とか仕事とかあるから移動には不便だね」
「猫だって自分の縄張りとか、住み慣れた場所はあるけどね」
すぐに色んな反応が返ってくる。
「出て行かずに済んだら一番いいけど」
「だけどどうやって?だよね」
「候補地にふさわしくなくなればいいんじゃない?」
このアイデアを出したのは、俺の近くに座っていた三毛猫。
小さめの体つきで可愛くて、でも気の強そうな感じのメス猫。
「理由は何でもいいから、ここってあんまり良くない感じの場所だし避けようってなれば、候補地の話って無くなると思わない?」
なるほどそれはその通りだなと思う。
だけど・・・良くない場所だという評判を立てるためにどうするのか。
あまり物騒な提案が出てきたらちょっと引くかもと思ってると、そういう話は出なかった。
「例えばだけど。幽霊が出るとか妖怪が出るとか、そういう噂を立ててみたら?」
「実際、リキは妖怪だからね」
「そういう系の事で、ビビらせることができたらいいけどね」
「開発を進めたい人達は、最先端のテクノロジーを駆使した便利でかっこいい街のイメージを打ち出したいわけだから、そういうのってマイナスイメージになるでしょ」
「そうか。それはいけるかもしれないな・・・」
俺もそう思った。なかなかいいアイデアだと思う。直接人を襲うとか傷つけるようなことでもないし、それがうまくいけば何よりだ。
隣の村もこの村も候補地になっているとあって、もうすでに調査に訪れている人間がいるらしい。今年に入って、何度かそれらしい人物達を見かけたという話が出た。
今度そいつらが来た時にどうするか。
調査に来る時刻は大抵昼間だろうから、幽霊や妖怪が出る時間帯じゃない。なので、来た時を狙うより、まずはそういう噂を流すことから始めようというので話がまとまった。
そこで人間の俺に期待が集まった。
ネットでの発信をうまく使って、ここの村の噂を流すこと。
皆んなが期待しているその作業を、これからやってみようと思う。
その後で実際に、幽霊、妖怪が出た現象を皆んなで作る。
万が一身バレしても、俺は見たことをただ発信しただけということになり、嘘でもないし、村や誰かに対する誹謗中傷でもない。
俺だって、この村には変わってほしくないし、出て行きたくもない。
6月16日
一週間前の会合のすぐ後から、俺はネット配信作戦を開始した。
「写真に写ったのは妖怪か?!幽霊か?!」
みたいな感じで、実際にそれらしい写真を作って上げた。
暗闇で撮ったリキの写真だから、本物なわけで。
身バレを防ぐため、普段使っているものとは別のアカウントを作った。
全くの作り話を考えるより、元々それらしい言い伝えがあるならそれを活用しようと思い、村の人達に話を聞いてみる事もやった。
近所で付き合いのある人達、仕事で回っている家の人達にも、機会あるごとに聞いてみた。
そうすると面白いように色々と、昔から言い伝えられているこの地域の妖怪や幽霊の話が集まってきた。
若者は街へ出て居なくなるこの村はお年寄りが多く、昔からの言い伝えなどを知っている人が多い。それは大いに助かった。発信出来るネタには困らない。
言い伝えの怪談を聞くと同時に、村の開発の話を知っているかということも聞いてみたが、これに関しては知らないという人ばかりだった。
猫達の情報をもらうまで、俺も知らなかったぐらいだから当たり前か。
猫達の会合には、今までトータルで4回参加した。
言葉で話さなくてもどんどん伝わってやり取り出来るから、人間同士話すよりも早い。
毎回思うけど、皆んな色んな考えを持っていて見た目も性格もすごく個性的。最初の時は「猫が沢山居る」しか思わなかったけど、何回か見ていると見分けられるようになってきた。
例の開発が始まった村から移動してきた猫達も居るとのことで、猫の数も最初よりだんだん増えてきている。この前の時は30匹近く居たと思う。
話し合いも白熱していて賑やかだった。白熱していても深刻にならないところが、何となく猫らしくていいなあといつも思う。
6月30日
話を聞いて回る事や発信の方が忙しくて、しばらく日記が書けなかった。
元々親しくて信頼出来そうな人には、村の開発の話と、それを阻止したいという考えを、話してみたいと俺は考えた。
リキにはこの事を最初に話したし、猫達にも伝わっている。
この村の暮らしに満足していて、例の開発なんか喜ばない人は多そうだから、話しても問題無いんじゃないかと猫達も思ってくれた。
動物達の方でも、犬、カラス、狸など、猫以外の動物達が、この事を知って対策を考えているらしい。この事はリキから聞いて、俺も動物達と直接コミュニケーションを取った。
動物とコミュニケーションを取れる人間は、この村だけでも他にも居るらしい。長老のタネ婆さんも、それが出来る人だった。
この村で最高齢のタネ婆さんは、村の真ん中に立っている古い家に一人で住んでいる。たしか95歳かそれくらいだったと思うけど、自分の身の回りの事は全部やれるし、頭もしっかりしている
漬け物を作るのが得意で、作った物を近所の人が預かって販売所で売っている。
タネ婆さんは、若い頃から色んな動物と話していたようで、今もそれは続いているらしい。
近いうち、一度会ってこようと思う。
この前リキが行ったら、姿を認識して話しかけてくれたという。
他にも、すでに計画を話して、協力を約束してくれた人達も居る。
善次さんとキクさん夫婦。二人とも、温和で優しい。老舗の和菓子屋さんで、ここの菓子はすごく美味くて俺は子供の頃からよく買っている。家の修理や、インターネットを使っての店の宣伝は、逆に俺が仕事をもらっている。二人とも70代だけど、まだまだ元気な人達だ。
長年野菜作りを仕事にしている喜助さんは、65歳だけど筋骨逞しいおじさん。この年代の人にしては長身で、日に焼けてワイルドな感じがなかなかかっこいい。
喜助さんは、去年中学を出てすぐ村にやってきた孫の良太君と一緒に暮らしている。良太君は、この村でただ一人の十代の若者。野菜作りが好きで喜助さんの仕事を継ぎたいらしく、街にいる両親の元を離れて一人で引っ越してきた。この家に居るのが犬のシロで、シロともこの二人とも俺は気が合うしよく話す。
20年位前に村に移住してきた寿江さんは、服や鞄、布製の草履なんかを作って売るのを仕事にしている女性。じいちゃんばあちゃんが生きてた頃仲良くしていたから、俺もよく遊んでもらった。たしか今年還暦を迎えたとか言ってたけど、それでもこの村では良太君と俺の次に若い。
6月30日
一昨日の夜、タネ婆さんに会ってきた。
俺より先にリキが来ていて、縁側で長々と寝そべって寛いでいた。
いつも思うけどリキは、妖獣なのに緩い感じで緊張感が無い。こういうとこが猫らしくて好きだけど。
今まで話した人達と同じく、タネ婆さんも俺達の計画に協力的だった。
妖怪猫又の伝説も、この村にはあるらしく、その話も聞かせてくれた。
明日にでもさっそく発信したい。
「昨日の昼間も、この辺を見かけない奴がウロウロしてたねぇ」
と、タネ婆さんが言っていた。
いよいよ、開発候補地として本格的に調査が入っているのかもしれない。
夜でなく昼間でも、やり方によっては妖怪出没計画を実行出来るかと、猫達の会合でも最近話していたところだった。
この村は、全部の人口を合わせても50人に満たない。そして、住民の半分は80歳以上。それでも介護を必要とするような人は0で、皆んな元気だけど。
この村では、俺が行っていた小学校も生徒数が減って廃校になったし、薬局も診療所もスーパーも、10キロ以上離れた二つ隣の村まで行かないと無い
今すでに開発が始まっている村も、ここと変わらないような所だったのに。
猫達の話によると、寂れた場所の方が土地が広く空いていて、新しい街を作ろうとするにはやりやすいのではないかという事だった。
たしかにそれはそうかもしれない。
今住んでいる人間を立ち退かせるにしても、人数が少なければ早く済むし、立退料としていくらか金を出すにしても安く済む。
一度今ある建物を全部壊してさら地にするにも、建物が少ない方がやりやすいに違いない。
「深刻な顔してどうしたんだ?」
背後に気配を感じたと思ったらリキが来ていた。
「近いうちこの村で、開発の説明会とやらがあるらしいぜ」
いよいよ来たか。
「その時を狙うのか?時間は?」
「まだ分からない。場合によっては昼間でも、何か仕掛けられないか考えよう」
今日のところは、そこまでで話を終えた。
その日は朝から、どんよりと曇っていた。
蒸し暑い夏の昼間。
村の集会所の前には、見慣れない車が2台止まっている。この地域の開発について、これからここで説明会が開かれるのだ。
一時間ほど前、国とも連携して動いている地方自治体の職員が数人でこの村にやってきた。和人は、前に見たことのある奴も居るなと思った。今年に入って村の中で何度か、見慣れない人間が来ているなと思ったから覚えている。
村には数十人しか居ないのだから、もちろん全員顔見知りで、知らない人間が来ればそれだけで目立つ。
ここが開発の候補地になり得るかどうか、時々来て少しずつ調査を進めていたといったところか。
そして、やると決めたから今日の説明会に至ったのかと思う。
地域でも、国全体でも、こういう場合一応「関わりのある人達の理解を得ていく」「説明を重ねていく」という言葉は出してくる。
けれど最後には、人々が賛成しようと反対しようと強制的に押してくる。
決行は最初から決まっていて、説明会などパフォーマンスにすぎない。
そこまで分かった上で、和人達はこの日を待っていた。
前回猫達の会合があったのは二日前。
どういう作戦に出るか皆で話し合った。
そして今日は、計画実行にはおあつらえむきの天気だ。
天は俺たちに味方してくれたかと、和人達人間も、動物達も思った。
「普段ここはあんまり使いませんからねぇ。元々ちょっとこわれてるのかもしれませんけどぉー。これしか無いんでねぇ」
寿江は職員たちに向かって、脚立に乗って裸電球の具合を見ながらのんびりとそう言った。普段はどちらかというと明瞭にハキハキ話す方なのだが、わざと話し方を変えている。
服装も、起きてそのまま来たんじゃないかと思えるようなくたびれたTシャツとウエストがゴムのズボン。ボサボサの髪を輪ゴムで束ねている。いつもは、デザインから自分で考えて作った店の商品を、宣伝も兼ねて身に付けているのに今日はあまりにも違いすぎる。
けれどそれを知っているのは村の人達だけだ。
寿江の後からのっそりと入ってきた和人も、汚れる仕事の時に来ている古くなったジャージの下と、首の伸びたTシャツを着ていた。髪は伸びかけてボサボサで顔も洗っていなければ髭も剃っていない。これももちろんわざとだ。この日のためにしばらく散髪にも行かなかった。
年は若そうなのにまともに働いている人間にはとても見えない様子に、中に居た地方自治体の職員達は一瞬、嫌な物を見るような顔をした。
その次に入ってきた善次とキクの夫婦も、負けず劣らずモッサリとした格好で入ってきた。普段は商売をしているのもあって、二人とも小綺麗でさっぱりとした格好をしているから、それとは大違いだ。
計画に参加している者以外の村の人達には、詳しいことは話していない。この村が何やら、新しい街に生まれ変わるという計画でこれから開発が進むらしいという事と、今日その説明会があるという事だけ伝えた。
「後で会場を片付けたりするかもしれないので、汚れてもいい格好でどうぞ」とも言い添えた。
最初に入っていった和人達を見て、なんだかむさ苦しくて貧乏くさい奴しかいないと思うだろうし、その後も身なりのいい人間は一人も入って来ない。
平均年齢も高いし、貧乏そうな年寄りばっかりかとナメてかかるに違いない。そうなれば、会合での打ち合わせ通りだと、和人は思った。
この小さな村には、元々ちゃんとした集会所のような物は無く、長い間空き家になっている家の一室を使っている。
ホワイトボードは自治体の職員達が持ってきた物で、印刷物も配られた。
近くの家から座布団を持ってきて、それぞれ好きなように床に座っている。来ていない者も数人いるが、ほぼ村人全員に近い40人が集まっている。
その辺で井戸端会議をしている時と変わりなく、何だか長閑な雰囲気だ。
説明する側も、村人達の雰囲気を見てナメてかかっているようで、緊張感はほとんど無い。
開発に反対する気性の激しい若者や、うるさ型の頑固な老人も数人は居るかと思って来たらそんな様子もなく、これは楽勝だと思い始めていた。
天井の裸電球は、時々消えそうになって点滅したりしながら、ぼんやりとした光を放っている。
天気が悪くて暗いとは言ってもまだ昼間だし、それでも何とかなるだろうということで説明がスタートした。
緑のある風景は残しつつ街全体の形を整え、建物の形も統一して太陽光発電を用い、全ての家にインターネットを完備する。家の中に居ながらにして、暮らしや趣味の全てに不自由しない最新鋭のシステム。配達や重労働はロボットに任せ、自動運転の車が走る世界。開発が進めば、そんな素敵な街に生まれ替わりますといった説明が続いた。
年寄りが多いので、話に出てくるのが知らない言葉ばかりで、聞いても何の事かピンとこない者がほとんどだった。
説明する方はそんな事はお構いなしで、要は文句が出なければそれでいいわけで、とにかく全部喋って早く終わらせようとひたすら話し続けた。
始まって15分くらい経った頃から、窓を叩く雨音が聞こえ始めた。天気が、曇りから雨に変わったのだ。
最初は小雨から、だんだん降り方が激しくなってきた。
天井の裸電球が、突然フッと消えた。
部屋の中は更に薄暗くなる。
その時、あまりにもおあつらえむきに、外で雷が鳴った。稲光で、窓が一瞬光った。
その窓の外に、何やら大きな獣の姿が見えた。
緑色の目が爛々と光ってこちらを睨んでいる。
体全体も淡く光っていて、この世の生き物とは思えない。
窓に一番近い所で説明をしていた職員は、ギャーと叫んで腰を抜かした。
その場に居た他の職員五人も、恐怖に顔を引きつらせて窓と反対側の方へ後退りしている。
数秒後、再び雷が鳴って、獣は煙のように消え失せた。
「一体何だったんだ?さっきのあれ・・・」
「・・・尻尾が・・・二股に分かれてたぞ」
「ネットで流れてたやつか?」
「もしかして猫又?」
職員達は部屋の隅にかたまって、ヒソヒソ話し始めた。
もう説明どころでは無いだろう。
説明なんか放り出して今すぐ帰りたいに違いない。
相変わらず激しい雨が降っていて、時折雷が鳴っている。
その音に被せるように、地を這うような恐ろしい鳴き声が聞こえ始めた。
猫の声だ。数匹?いや数十匹?
全部猫又なのかと思った職員達は、もう生きた心地もしなかった。
そして今度は廊下側の窓の方から、バタバタと鳥が羽ばたく音が聞こえてきた。
一羽や二羽ではない。ものすごい数。鳴き声も聞こえてくる。
真っ黒い鳥の群れが、廊下側の窓を突き始めた。カラスの群れだった。
和人達はこの計画を知ってはいたものの、実際見ると想像以上に迫力がすごいと思った。
子供の頃に見た古い映画、ヒッチコックの・・・確かそのまま「鳥」という題名だったか・・・それを思い出す。
分かっていてさえ、ちょっと怖かった。
カラス達が窓を突くのに被せるように、廊下側から今度は不気味な笑い声が聞こえてきた。
「・・ヒッヒッヒッ・・・ヒィッヒッヒッ・・・」
そして、下から伸びてきた人間の手が、窓にピタリと付けられた。
「ぎゃあああああああ!!」
「わあああああーっ!!!」
職員達は今度こそ説明など放り出して、部屋の真ん中に全員かたまってしまった。
外にも、廊下側にも、何やら恐ろしい存在が居るわけだ。
出ようにも出られない。
カラス達は、ひとしきり窓ガラスを突いて羽ばたいた後、一羽また一羽と去っていった。不気味な笑い声も、窓に押し付けられた不気味な手も、カラス達が去ったと同時にいつの間にか消えた。
外に面した方の窓に現れた巨大な猫又も、それ以上現れる事は無かった。
部屋の真ん中にかたまっていた職員達は、やっと少し気を取り直した様子で、扉に近づいて何も居ないか確認している。
この数人の中でリーダー格と思しき二人が、これ以上説明会を続けるのもどうしたものかと話し合っている。
「ここまでの説明で、ある程度分かっていただけましたか?」
二人は、前の方に座っていた村人達に聞いて回り始めた。
「専門用語多いし詳しくは分からんけど、今の村のままじゃなくなんか新しい街を作るとかそういうことかねぇ」
「儂は耳遠いし。分からん言葉も多いし。何のことかさっぱり・・・」
「あのぉ・・ここが作り替えられるということは・・・今住んでる私達ってどうなるんです?」
寿江が質問した。
「一旦は出ていただくことになりますが、新しく出来た賃貸住宅の方に優先的に入っていただくことが可能になります。それに関しましては、後半説明させていただく予定だったのですが今日のところは・・・
職員の男性は、どうも帰りたそうな気配を滲ませている。
「あの・・・ここではこんなことが普通なんですか?」
リーダー格らしきもう一人の方の職員が、近くにいた和人に聞いた。
「そうですねぇ。動物多いんで」
「・・・動・・物・・ですか・・・」
たしかに猫又は動物とはちょっと違うかもしれないけどと思いながら、和人はあえてそれ以上言わなかった。
正体が分からない物の方が恐ろしさが増す。存分に怖がってくれたようだから、まずは作戦成功だと思った。
この事を計画したのは、会合に集まってくる猫達と人間七人。それにカラス達が協力していた。廊下側の窓の下に隠れて不気味な笑い声を立て、手のひらを窓に押し付けたのは長老のタネ婆さんだ。
タネ婆さんはこれをやってのけた後、カラス達が去ると同時に素早く部屋の後ろの方に行き、別の扉から部屋の中に入った。そして何食わぬ顔で、座っている村人達に混ざった。
パニック状態だった職員達は、全くこれに気が付いていなかった。
「続き今日やらないんでしたら今日は帰られますかぁ?」
固まってしまった職員の男性に、和人が聞いた。
「そうですね・・・」
言いながらもう一人の方を見る。
あっちの人の方が上司なのかなと、和人は思った。
「今日のところはこれで帰らせていただきます。説明会はまた後日改めてさせていただくか、もしくは対面でなくても方法はありますのでまた連絡させていただきます」
上司らしき方の男性が答えた。
これを聞いて、今日来た他5人の職員全員が、明らかに助かったという顔をした。帰りたくてたまらないんだろうなと和人は思った。
近くに居た寿江も同じことを思っていたけれど、関心の無いフリで知らん顔を決め込んでいる。
職員達の車2台が出て行った後、和人はすぐに喜助に連絡した。喜助と良太、犬のシロは、車が通る道の途中に待機している。
樹木が生い茂っているこの辺りは、昼間でもかなり暗い。
今日は、雨足はおさまってきたけれどまだ小雨は降っていて、空の色はどんよりしている。
連絡を受けた二人は、木の影に隠れて車が来るのを待った。
車が山道に入ったちょうどいいタイミングで、カラス達が飛び回り、猫達が不気味な声で鳴き始めた。タヌキ達やキツネ達が、ガサガサと音を立てて走り回る。
その声に重なるように、犬のシロが狼のような唸り声を上げる。
それに呼応する様に、他の犬達の声が重なる。
舗装もされていない山道は狭くてカーブ多く、慣れないとスピードは出せない。
「なんか変な鳴き声聞こえてない?」
「ここってやっぱ何か居るのかなあ」
さっきの集会所での事に加えて、山道に入ってからの雰囲気は不気味で、早く帰りたいという思いは全員同じだった。
けれど、慣れない山道で事故を起こして帰れなくなったらそれこそ最悪なので仕方なく慎重に走る。
細い山道を2台連なって走っていると、前方に何かが見えた。
「ちょっと待てよ・・・何だよあれ・・・」
先を走っていた車の方で、運転していた男性が気が付いた。
「・・・もしかして鬼とか?」
「ナマハゲとかいうやつかも・・・スピード落としたらかえってまずいですよ。襲ってきたらどうするんですか」
助手席に居た女性職員が言った。
「そうだな。通り過ぎるしかない」
それは、木の影から半分体をのぞかせて車の方を見ていた。
身の丈2メートル以上。
長い白髪を振り乱し、その間からギョロリとした金色の目がのぞいている。赤銅色の皮膚で、動物の毛皮のような物を身につけ、片手に斧を持っている。
「やばいよ!斧持ってるし」
通り過ぎようと思ったけれど結局怖すぎて、運転していた職員はブレーキを踏んだ。
後ろをついて来ていたもう一台も止まる。
車の方を見ていた鬼のような生き物は、ゆっくりと歩いて木立の中に消えて行った。
「行ったみたい」
「良かった」
「待ち伏せとかしてないよね」
「山の方入ったし大丈夫と思うけど」
「今のうち行こう」
狼のような唸り声、不気味な猫の鳴き声、ガサガサという音ははまだ続いている。異様な数のカラスが、木立の間を低く飛び回っている。
とにかくこの場から早く逃げたくて、職員達は車をスタートさせた。
前の車から後の車に、道の脇の木立に鬼のような生き物が居たことを連絡した。
逃げるように去って行った車2台を見送った後、その生き物はのっそりと木の影から出てきた。
「うまくいったっぽいね」
「そのようだな」
喜助の肩車に乗っていた良太は、白髪の鬘と鬼の面を外した。
7月12日
開発の説明会があったあの日から一週間。
今のところ静かだ。
あの日、帰っていった2台の車が山道に入ってから、最後はリキがもう一度姿を見せた。
大きくなった状態で木立の影から現れた猫又は、相当インパクトあったと思う。
その前の喜助さんと良太君の鬼も効いてるし、皆んなけっこう上手くやれたと思う。
タネ婆さんの活躍も凄かったし。
猫さん達とか、シロと他の犬さん達、カラスさん達、タヌキさんやキツネさん達も。
会場見張り役だった俺達4人は、もっさりした格好で行って様子を見るだけで良かったし楽だった。
村の人達のほとんどは俺達の計画について何も知らなかったし、大丈夫かなと思ったけど。そこは問題無かった。この村では常に動物がウロウロしてるし、鳥も虫も多いから、皆んな生き物の存在には慣れてるのかもしれない。普段見る以外の、何だかよくわからない存在が居たとしても、まあそういう事もあるのかなあくらいにしか思っていないのかも。
巨大な猫又が現れても、すごい数の猫の鳴き声やカラスの襲来があっても、誰もそれほど驚きはしなかった。
「まあ随分と賑やかなことですなぁ」
「すごい数のカラスだねぇ」
といった感じで話している人は居ても、恐怖に震える人は居なかった。
開発の説明を聞いて喜んで賛成する人は居なかったところを見ると、俺達とそう変わらない考えの人が多かったのかなと思う。
説明を聞いても知らない言葉ばかりで分からなかったという人も「分からないものに安易に賛成とは言えない」と語っていた。
地方自治体の職員さん達も多分、上から言われて仕事で来てるだけだと思うし・・・あそこまで怖がらせてしまってちょっと悪いことしたかなと思わないでもないけど。
それでもまあ、襲って怪我させたとかじゃないし。怖かったという感想だけ持って帰って上に報告してくれれば、うまくいけば開発の話に待ったがかかるかもしれない。
ネット上で噂を流すところから当日の計画実行まで、俺達の側としては全部計画通りいったと思う。
今回のことだけで、この村が開発候補地じゃなくなればそれに越したことは無い。
そう簡単には行かないという場合も、あるかもしれないけど。
7月13日
今日はリキが迎えに来たから、猫の会合に参加してきた。
リキからも今日皆んなに連絡があるらしいけど、行ってから言うって事で急いでるみたいだったからとりあえずついて行った。
途中からリキが大きくなって背中に乗せてくれたので早く移動できた。
大きさは変わっても毛並みは滑らかで猫そのままの感じ。
揺れも少なくて滑るように走っていく。
スピードはあるので、俺は風の抵抗を受けないように頭を低くして上体を倒し、リキの背中に密着する感じで乗っていた。
最初はちょっと慣れないから体が硬直してたけど、少しずつ慣れて体の力が抜けてくると、リキと融合したような一体感。風を切って走るのは爽快だった。
俺の人生で、猫又に乗る体験が出来るなんて思ってもみなかった。
集会場所に集まってきた猫達の数は、さらに多くなっていた。
開発が進んだ村がどんどん住みにくくなって、移動してくる猫が増えたのか。
最近では、猫だけじゃなくて他の動物達も周りに集まって来てるのが気配でわかる。
説明会の日の計画にも彼らは協力してくれたし、今も動物さん達皆んなで話の内容聞いてるのかも。
「この前説明会に使われた家のポストに、匿名で手紙が入ったらしい。タネ婆さんが教えてくれた」
皆んなが集まったところでリキが情報を伝えてくれた。
「これから近いうちに、動物が行動範囲にしているこの辺りに毒の入った餌が撒かれると思うから、それが撒かれたら皆んなが食べないうちに撤去して欲しいって。手紙入れたのは多分、あの時説明会に来てた中の誰かじゃないかな。ここで起きた事を上に報告した時、それなら生き物を排除すればいいっていう話になったんじゃないかと思う。そういうやり方は嫌だなあと思いつつ堂々と反対するのは無理だからこっそり教えてくれたのかも。あと、お祓いが出来る人を呼んで何かやるらしい。妖怪とか鬼が出るって報告が入ったからそれも排除しようってことかな」
「自分達が邪魔と思ったものは、何でもかんでも排除するんだねぇ」
「ここしばらくなんにも無かったから、あの時で懲りてもう来ないのかと思ったら甘かったね」
「なかなかしつこいねぇ。教えてもらえなかったとしても毒入りの餌を食べてしまうバカは居ないけど。その調子で色々仕掛けてくるんならこれからどうするか・・・」
「そのお祓いって言うのもどんなもんなんだろうねぇ」
「インチキなんじゃない?」
「全くのインチキだったら逆にいいんだけど。特に害もないし」
「それは言える。せっかく皆んな静かに暮らしててバランスが取れてるところに、中途半端に変な刺激与えられると困るよね」
ここで静かに暮らしているというのは人間と動物だけの話じゃなくて、リキのような妖獣さんとか他に居るのかも。
せっかくこの村に静かに棲んでるのに、祓われたら怒るかも。
7月18日
匿名の手紙の情報は本当だった。
昨日実際に、自治体の職員らしき人達数人が村を訪れた。
そして、毒入りの餌を山の中に撒いていった。
俺達はすぐにそれを回収して捨てたし、毒入りの餌を食べて死ん者は居なかったけど。
近いうち、どれぐらい効果があったか見に来るのかな。
村では、もう開発の事は忘れたかのように皆んな普通に暮らしている。
この件で常に連絡を取っているのは、人間では俺含め計画に加わった7人だけ。人間同士の話し合いでは、長老のタネ婆さんのところに自然に集まるようになった。
そういえば昨日は、タネ婆さんのところにお孫さんが来てた。今までにも何回か、両親と一緒に来てるのは見たことあったけど。年は多分俺より少し下くらいの女性。茜さんという名前は昨日初めて聞いたし、まともに向き合って話したのも昨日が初めてだった。
小柄で華奢で可愛らしい感じで、肩までの長さの真っ直ぐな黒髪と色白の肌。小さな顔の中のパーツも全部小さめで、派手さはないけど顔立ちは整っていて、この人を見た時俺は雛人形を連想した。
おっとりした話し方も柔らかな笑顔も可愛くて、ちょっといいなあと思ってしまった。可愛いしやっぱり彼氏とかいるのかな。
タネ婆さんも、町からたまに来る息子さん夫婦も、日に焼けて体格もがっしりして逞しい感じなので、茜さんみたいなタイプの娘さんがどうやったら出てくるのか不思議な感じがする。
茜さんは普段は両親の商売を手伝ってるらしいけど、しばらく休みをもらって遊びに来てるとか。しばらくタネ婆さんの所にいるみたいだけど。また会えるかな。
7月21日
昨日の夕方、また自治体の職員らしき人たちがやってきた。数日前とはメンバーが違うし、この事に関わっている人数はけっこう居るのかと思う。
開発にそれだけ力を入れているということか。
再び毒入りの餌でも撒きに来たかと思ったら、今回は目的が違っていた。
そういえばこの事も、前に情報として聞いていた。
例のお祓いらしい。
村にやって来た彼らは、あの時鬼に化けた二人やリキが姿を見せたあたりに、何やら天幕のような物を張っていた。霊能者っぽい女性と、その助手らしき人が二人、あと説明会の時に来ていたリーダー格らしき男性二人がその場に居た。
俺は近くの岩陰に隠れ、良太くんは少し離れたところの木陰に隠れて、彼らの様子を見た。
もし見つかりそうになったら素早く逃げないといけない。こういう身軽さを要求される役目は、若い世代の俺達に回ってくる。
リキは姿を現さずに近くにいるらしい。最近俺は、リキが姿を見せなくても近くに来ると気配で分かるようになった。
天幕から煙が出ているので多分何やら焚いてるようで、呪文を唱えたり何か撒いたり、バッサバッサと何か振っている音がする。
「あれはまずいな」
リキから、そう伝わって来たと思った次の瞬間、天幕の中で騒めきが起こった。
職員の男性二人が、ギャーと叫んで天幕から転がり出た。
その数十秒後、天幕の中に居た3人がゆっくりと出てきた。
「もう大丈夫ですよ」
「彼らは二度と現れることは無いと思います」
そんなことを言っていた。
リキが何かやったのかなと思ってると、すぐ近くに気配が戻ってきた。
「わざと見えるところに俺が姿を現して消えてやったから、あいつらお祓いがうまくいったと思っただろうな。それで去ってくれたらいいと思ってやってみたけど、遅かったかもしれない」
「遅かったとは?」
「結界が破れたと思う」
このあと、明らかにその場の空気が変わったような・・・何かまずいことが起きたらしいのは、俺にも分かった。
昨日のことを思い出して日記を書いていた和人は、リキの気配を感じて振り返った。
まだ昼間だけれど今日は天気が悪くて、部屋の中は薄暗い。
リキは小さくなって、茶箪笥の上に居た。目立たないように小さくなったのか、人の手のひらに乗るくらいの大きさになっている。
リキは、和人の机の上にフワリと飛び降りた。
「それって日記か何かなのか?手書きで文字を書く人間も、最近では珍しいな」
「俺はわりと、これ好きなんだ。書いてると落ち着くっていうか気持ちが整理できる時もある」
「なるほどな」
「あれから大丈夫なのか?」
和人は、一番気になっていることをリキに聞いた。
山の中で行われたお祓いのような儀式のあと、急に周りの空気が変わって不穏な気配を感じたのは昨日の事だ。
和人は、今まさにその事を日記に書いていた。
「今のところ、人間には特に危害は無いみたいだな。結界が破れたのは間違いないけど。あいつらが余計なことをするし、あの場所に棲んでいた存在達は明らかに怒っている」
「それは俺も感じた。一瞬で空気が変わったし。あれ以上続けられたらもっとまずいから、リキが入ってうまくやってくれたのも分かった」
「入るのがちょっと遅かったけどな。もう結界が破れた後だったし」
「でも今のところ何も起きてないってことは、リキがあの時点で止めてくれたからだよ」「これから起きないとは言えない。あいつら、まだ村にいるんだろう?」
「そうだな。今日あたり帰るんじゃないかな」
昨日の夕方、お祓いがうまくいったと思っているらしい霊能者と職員達は、開発が進みつつある辺りまで行って飲食し、宿泊していたという。
あの後、他の猫達と一緒に彼らを尾行して様子を見てきたリキが、和人にその事を教えた。
自分達が何をやらかしたかも知らずに、全くいい気なもんだと和人は思った。
「今日は集まるのか?」
「その予定だ。また夜に迎えに来る」
リキは、そう言って窓の隙間から消えた。
和人は思わず、リキの消えた隙間をじっと見つめた。
いくら小さくなっていると言みっても体長十センチ位はある体が、数ミリの隙間からシュッと抜けるのを見るとびっくりする。
今までにも、消えたり現れたり、大きくなったり小さくなったり、乗せてくれたりしてるわけだから・・・・今さら驚くことでも無いけど、リキの能力はまだまだあるのかもと和人は思った。
リキが出て行ってから間もなく、和人のスマホにラインのメッセージが入った。
今日はこのまま何も無ければ、猫の会合がある夕方まで畑仕事に行こうかと思っていたところだった。連絡をくれたのは良太で、タネ婆さんの家に今、皆んなが集まっているという内容だった。畑仕事は別に急ぐわけでもないし、和人はすぐ行く事にした。
この前のお祓いの時に何かまずい事が起きたのではないかと良太も感じていて、皆に話していた。
霊能者とスタッフ達の一行は、帰る時はまたあの山道を通ることになる。彼らが今宿泊している村からそのまま街へ抜ける道は無いから、一旦この村まで戻り、あの山道を通って帰るしかない。
その時に何か起きなければいいけれど・・・というのが、良太の心配の種だった。
リキも同じ気持ちだったので、度々行って彼らの様子を見ていた。
彼らが帰ってくる時は山道のあの場所で待機して見守るつもりでいると、良太からのメッセージには書かれていた。
リキも良太も「祟られたってあいつらが悪いんだからほっとけばいい」と半分思いつつも、でもやっぱりどこかで気にしていた。
和人も「何とも世話が焼ける」と思いながら、それでも放っておくのもどうかという気持ちだった。
タネ婆さんの家に和人が到着した時には、この件に関わっている全員が揃っていた。
善次とキクの夫婦、寿江、喜助と良太。犬のシロも一緒に居る。
今滞在している茜も居て、会えたらいいなと思っていた和人は嬉しかった。せっかく会えたのだし他愛のない楽しい話もしたいところだけれど、この状況ではそうもいかないなと思った。
あのお祓いの後、空気が変わったのを肌で感じてしまった事もあって、このまま何事もなく済むとは思えなかった。
あの場に居た良太も同じで、彼らが帰る時には絶対に皆で見守った方がいいと主張していた。
逆に、集まっているメンバーの中でもあの場にいなかった者達はそこまで怖さを実感していなかった。
「あの時何も無かったんだし大丈夫なんじゃない?」
寿江が言った。
「そうよねぇ。あまり気にしすぎてもかえって何か呼び寄せるとか言うじゃない」
「それでももし何かあったら、あってから対処したって間に合うだろう」
善次とキクの夫婦も、けっこうのんびりしていた。
「そう簡単に済むもんじゃない」
いつになく強めの口調でタネ婆さんがそう言ったので、皆んな一斉にそっちを向いた。この村で生まれ、百年近くここで生きている長老のタネ婆さんは、昔から今にかけての村の中の事を何でも知っている。生き字引のような存在だった。
「あの場所に封印されていたものは・・・」
タネ婆さんが言いかけた時、リキが突然部屋の真ん中に現れた。ここに居るメンバーは皆んなリキを知っているので特に驚かない。
「あいつら、もうすぐ帰るらしい。行った方がいいかもしれない」
喜助の運転するジープが、昨日の場所に向かって走り出した。助手席に良太が乗って、後部座席には和人とシロが乗っている。ジープの横にぴったりと付くように、リキが走っていた。
村落を抜けて山道に近づくにつれて、明らかに空気が重くなってくるのを全員が感じていた。
この山道は、街へ出る時村人達がいつも普通に利用していたもので、こんな空気を感じたことは今まで無かった。
ねっとりと纏わりつくように空気が重く澱んでいて、何やら生臭い匂いまで漂ってきた。
「これって相当ヤバいんじゃない?」
和人は、横を走っているリキに向かって話しかけた。
「そうらしいな」
彼らより先に着くことが出来ただけ、とりあえず良かったと和人は思った。
車からは降りずに、この場で全員で待つことにした。
ついこの前まで、この山道は木々の緑が美しく、夏でも爽やかな風が吹き抜けていた。
ところが今は、同じ場所とはとても思えないほど薄気味悪い場所になってしまった。
ここに居る全員が、それを感じていた。
和人達が到着してから数分後に、向こうから見覚えのある車が走ってきた。
前に職員二人、後ろの席に霊能者の女性と助手の二人。
彼ら全員の乗った車が、道の端の方に寄って待機している和人達の横を通り過ぎた。
山道に入った彼らの車が、黒い雲の様なものに覆われていく。
喜助は、すぐ後を追いかけた。
「何だよあれ・・・」
良太が指差した方を、後ろの席から身を乗り出して和人も見た。
彼らの車を覆い隠すように広がった黒い雲の中に、金色に光る目玉が一つ、こっちを向いていた。
「何あの気持ち悪いやつ」
隣ではシロが戦闘態勢で、現れた目玉に向かって低く唸り声を上げている。
前を走っている彼らの車は、コントロールを失ったようにフラフラと蛇行している。
車と言うよりも、現れた黒い雲のようなものにすっぽりと覆われてしまっていて、中がどうなっているのかも見えない。
乗っている彼らが無事なのかどうかも分からない。
黒い雲の真ん中に現れた金色に光る一つ目は、追いかける和人達の車の方をじっと見ている。
それが何とも不気味で、ついて行って大丈夫なのかと思いつつ、ここまで来て今さらやめるわけにもいかなかった。
ハンドルを握っている喜助は、とりあえず一定の距離をあけて彼らの車の後からついていくしかなかった。追い付いて横に並ぼうにも、細い一本道では無理がある。
重く澱んだ空気は、山道に入ってからずっと変わらない。
突然、周りの木立が騒めき始めた。
真っ直ぐに立っているはずの木の幹が、まるで生き物のようにグニャグニャとうねっている。
うねりながら立っている木の細い枝が、車に向かってスルスルと伸びてきた。
リキが、その枝に飛びかかって叩き落とした。
それでも枝は左右の木から、何度も何度も伸びてくる。
リキの防御をかいくぐって伸びて来た枝が、車の窓ガラスにバシンと当たった。
かなりの衝撃で、和人達は窓ガラスが割れるんじゃないかと思った。
乗っている三人とも、木の幹がうねり出した時、最初は自分の目がおかしくなったのかと思った。
けれど、リアルに窓ガラスに当たってくる枝があるので、嫌でも信じざるを得なかった。
黒い雲に覆われたままの彼らの車には、次々に枝が絡みついている。
そのせいなのか、車の走るスピードが落ちて来きた。
絡みついた枝は見る間に太くなり、ついに車体を持ち上げた。
このまま行くと彼らの車にぶつかると思った喜助は、ブレーキを踏んだ。
高く持ち上げられた車体が、和人達の目の前で激しく地面に叩きつけられた。
「中の人達は・・・」
和人は、すぐにでも助けないと大変な事になりそうな気がした。
「これじゃ降りられないよ!」
良太が後ろを振り返って叫んだ。
車を止めた途端、和人達の車にも枝が絡みつき始めた。
リキが戦ってくれているけれど追いつかない。
「斧を取ってくれ!」
喜助に言われて、和人は座席の下にあった斧を渡した。
「降りた方がいい」
絡みついてくる枝と必死に戦いながら、リキが皆に伝えてきた。
このまま中に居たらかえって危ないという事か。
確かにこのままでは、遅かれ早かれ彼らの車と同じことになるかもしれない。
脱出するなら、今しかない。ドアが開かなくなる前に。
皆考えていることは同じだったようで、今リキが居てくれる側のドアの方を一斉に見た。
勢い良くドアを開け、三人と一匹が外に飛び出した。
和人は良太をリキの背中に乗せた。
伸びてきていた枝は、さっきまで皆が乗っていた車に絡みつき、みるみる太くなっていく。
車を捨てて逃げた和人達の方にも、枝の一部が伸びてきていた。
それを喜助が斧で叩き落とし、シロが噛み付いて振り回した。
「全員乗れるぞ」
そう伝えてきたリキの体は、和人が今まで見た事が無いくらい大きくなっていた。
和人が先に飛び乗って、シロを抱えた喜助に手を貸した。
伸びてくる枝を振り切って、リキは飛ぶように走った。
良太が一番前で、和人、シロ、喜助の順で三人と一匹が乗っていても、その重さをものともしないでリキが疾走する。
和人が一人で乗っている時と同じ、振動をほとんど感じさせない滑るような走りだった。
「助けるつもりだったけど、ああなったらもう無理か・・・」
「助ける前にこっちがやられる」
獣道を走り、竹林の中を抜けて、リキは走った。
もう大丈夫という場所まで来た時、皆んなを下ろしたリキはスッと元の大きさになった。
山道で事故があったいうことは、喜助が警察に電話して知らせていた。救急車も頼んだので、今頃向かってくれているはずだった。
もしまだあのままの状況だったとしても、危険なら多人数で対応してヘタに近づかないはずだから大丈夫だろうと和人は思っている。
タネ婆さんの家まで歩いて戻りながら、和人は膝が震えてくるのを感じていた。
横を歩いている良太を見ると、表情が固まっていて顔色に血の気が無い。喜助の方はさすがに落ち着いているように見えるけれど、ほとんど話さないし普段の豪快さが無かった。
さっきのあれは恐ろしすぎたし、リキが居なかったら今頃誰も生きてなかったんじゃないかと和人は思った。
喜助も良太も、リキの背中に乗っている時「助かった。ありがとう」と何度も繰り返し言っていた。
間一髪で助かったという気持ちは、全員共通だった。
自分達が出る前、話し合いの場でタネ婆さんが言いかけたのは何だったのかと、和人は今になって思い出した。
警察には、喜助がうまく説明していた。山道を走っていたら前の車が突然フラフラと蛇行し始めて、どこかにぶつかったのか凄い音がした。後ろを走っていた自分の車も、急にコントロールを失って状態がおかしくなったので運転をやめて、その場に止まった。地震か何か起きたのかと思い、危険を感じたので車を離れてから通報したという風に話していた。
まるっきり嘘でもないから、それなりに辻褄が合っているし怪しまれることもなかった。
本当の事を話した方が、むしろ怪しまれたかもしれない。
喜助の車は、多少凹んでいるもののほとんど無事だったらしい。
その十数メートル位先に、大破した車があったと言う。
中に乗っていた五名は、命だけは助かったものの全員が重傷。意識不明で病院に運ばれた。
車は前後左右から押しつぶされたような、異様な壊れ方をしていた。
事故処理にあたった警官達は何があったか見ていないので、これをどう解釈していいのか分からなかった。仕方ないのでとりあえず書類上は、急カーブを曲がり損ねた車が道の側壁に衝突し横転したということにしておいた。
リキ、和人、良太、犬のシロが、一緒にタネ婆さんの家に戻った。喜助はさっきの現場まで車を取りに行くことになり、後で来ると言って一旦引き返していった。
和人が外から声をかけると、タネ婆さんが出てきた。
「戻ったのかい?猫の会合も今日はここでするらしいよ」
「この家でですか?」
「そうだよ。もう皆んな来てる」
言われて中に入ると、白、黒、茶、キジ柄、三毛など様々な色の背中が見えた。
部屋に猫が敷き詰められているといった感じだ。
窓の外を見ると、カラスやトンビ、山鳩が、近くの木の枝に沢山止まっている。
犬や狸、狐達も覗いている。
猫以外にもいろんな存在が集まってきていた。
茜は膝の上に猫を三匹乗せて、その背中を撫でながらタネ婆さんの隣に座っている。和人は、茜が猫好きで良かったと思った。
善次とキクの夫婦が、猫のおやつの煮干しを配っていて、寿江は猫と戯れていた。
「喜助さんがまだだけど、この話は喜助さんはもう知ってるから、話し始めてもいいかねぇ・・」
タネ婆さんは、和人達が出かける前に中断していた話しを、今もう一度語り始めた。
「私がまだ若かったころ、戦争が終って間もない頃の話だよ。この村は戦争で焼かれる事も無く、ほとんど無傷のままだった。家さえも少ないし、攻撃対象にもならなかったんだろうね。私たちは今と同じような感じでこの辺りで暮らして、山には山の生き物達が住んでいた。動物や虫たちも、人間の目には普段見えない存在達も。私は何故か子供の頃から、そういう存在達の事も知っていてね。存在を認識して、会話をすることも出来た。山に入る時は、今入ってもいいか必ず聞いてから入っていた。誰だって勝手に入ってこられたら嫌だし、人と会いたくないとか邪魔されたくない気分の時だってあるからね」
「人間と同じなんですね」
和人が言った。
「そうだよ。あんたはリキと話せるんだから分かるだろう」
「そうですね。同じだと思います」
「皆がそのくらい普通に分かってればいいんだけど、分からない奴もいるからねえ。困った事に。戦争が終って街が復興する中で、この辺りも開発しようという奴らが出てきた」
「なんか今と同じような状況ですね」
「まさにそうだよ。いきなりズカズカと山に入っていって、勝手に木を沢山伐採したり、岩を削ったり、珍しい植物があれば引き抜いて持って帰るんだからね。森林を伐採したり一部焼き払ったりして場所を空けて、何やら新しい建物を作ろうともしてたねえ。自然を生かした観光名所を作るとか言ってやりたい放題だったよ」
「そんな事されたら、そこに棲んでる人達は怒りますよね」
「当然怒ったよ。それで工事中に事故が起きたり、山に入った者が突然病気になったり気がふれたり・・・そんなことが続いたから、さすがにあいつらも気付いて止めるだろうって、私はその時は思ってたんだけどね」
「そうじゃなかったんですか?」
「山には何か邪悪な物が棲んでいて祟りかもしれないとか言い出して、お祓いをする人間を呼んできてね・・・今と全く同じだよ」
「人の家に勝手に入って物を壊したり焼いたり盗んだりして、家の人が怒ったらその人を邪悪だと言って排除するみたいなもんだよね。それって。失礼すぎるでしょ」
寿江が、あきれたようにそう言った。
「そんな事さえ分からない残念な奴らが居るから困るんだよ。お祓いなんかされたら、元々棲んでいた彼らはもっと怒る。喧嘩売られたようなもんだからね。私は山に入って彼らと会って、何とか棲み分けられないか話し合った。彼らだけじゃなく山に住む生き物たちも皆怒ってたし、私も半分、生きて帰る事をあきらめてたくらいだった。このままいくと、村ごと消滅するくらいの災害が起きるかもしれないって、その時は思ったよ。それでも彼らは分かってくれて、こっちもこれ以上開発は進めさせないからという約束で許してくれた」
「進めさせないって・・・そんなことが出来たんですか?」
和人が聞いた。
「それしか、彼らに納得してもらう方法は無かったからね。先に言ってしまって、後はやるしかなかった。お祓いでも去らなかった妖怪や幽霊の噂を流し、ここに近づく者を脅したよ。私に協力してくれた者もけっこう居たからね。山に棲む存在達とは、お互いの約束で棲み分ける事にして、その境目に結界を張って、互いにそこから先へは入らないことにした。私はその場所を知っていたから、大丈夫か気になってよく見に行ってたよ。最近はさすがにあそこまで歩くのはしんどくてね。行かなくなって五年位経つけど、今まで大丈夫だったから油断したのがまずかった」
「またお祓いなんかするからその結界が破れて、今日みたいなことになったんだね」
良太が言った。
「その通りだよ。今回も、最初の脅しが効いて開発が取りやめになればよかったけど、そうはいかなかったみたいだね」
ここまでじっと聞いていた猫たちが騒めき始めた。
「全く人間って、ろくなことしないねえ」
「過去にもそんなことあったのに学習能力無いのかねえ」
「困った生きもんだねえ」
「そんな奴ばっかりってわけでもないけどな」
自分も人間だし・・・と思って和人がなんだか情けない気分になりかけた時、リキがフォローしてくれた。
「それでこれからどうする?」
近くに居た黒い猫が聞いてくる。
「もう一回山に入って頼みに行くとか?」
と、隣の三毛猫。
「一回約束して破ったんだから、今度こそ命無いかもね」
なんだか不穏な事を言ってくれる。
だけどほんとにそうかもと、和人は思った。
「開発を進めてる奴ら、まだ諦めないでなんかやってくるかなあ」
良太が、心配そうに言った。今日の事で諦めてくれればいいけど、そうではなさそうな気がする。
「ここに来てた奴らは、どうせ上から言われて来ただけだろう。もっと上の立場のやつらは、命令通り動いてる人間が怪我しようが、何なら死のうが何とも思ってない」
善次がそう言った。普段温厚な性格だが、こういう所はシビアによく見ている。
「私もそう思いますよ。駒としか思ってない。だから何かあれば次を用意して、また実行させるでしょうね」
善次の隣に座っているキクも同じ意見のようだ。
「俺の出来る範囲で、話しに行ってみるか・・・」
リキが立ち上がった。
「人間が起こした面倒なのに悪いねえ」
タネ婆さんは、本当に申し訳なさそうに言った。
「友達の危機だから。出来る事はする」
「俺も行くよ。どこまで出来るか分からないけど。待ってて解決しそうにもないからね」
和人も立ち上がって、リキと一緒に出ていった。
途中から、車の走れる道を避けて直接山に入り獣道を行く。
山に入るとリキは馬ぐらいの大きさになって、和人を乗せて走った。
和人もリキに乗るのに慣れてきて、体の力を抜いてゆったりと乗れるようになった。
実際、馬に乗る時ほど揺れないし、尻が痛くなるわけでもない。
乗っている方が体に余計な力さえ入れなければ、リキは滑るように走るし、とても楽に移動出来る。
それはそうなのだが、山に入った頃から空気がどんよりと重いのは、今日の出来事があった時と変わっていなかった。
「もしかして、さらにひどくなったような気がしないでもない。怖いと思っているから気のせいか・・・」
小さく呟くように独り言を言ったつもりが、リキにはしっかり伝わっていた。
「気のせいってわけでもない。確かに今朝より空気が重くなってる」
リキから答えが返ってきた。
山に居る存在達はやっぱり相当怒っているし、車をひっくり返したくらいでは気が済んでいないのか・・・それを思うとやっぱり、怖くないと言えば嘘になる。
けれど、ここまで来て引き返すわけにはいかないと、和人は心の中で決意を固めた。
木々の間を抜け山の奥深く入って行くと、まだ昼間の時間帯なのに薄暗かった。
リキの背中に乗った和人が辺りを眺めると、木の幹が、枝が、生き物の様にうねっているのが見えた。あの事故の時見たのと同じだと、和人は思った。
木だけじゃなく、道に生えている草も、地面も揺れている。
真っ黒い雲のような塊が、近くを飛んでいた。その中に光る大きな金色の一つ目が、和人達の方をジロリと見た。
目を合わさない方がいいような気がして和人が反対側を向くと、そちら側にも同じ存在が居て、金色の一つ目でじっと見ている。
地面を這うように移動する黒い塊も居る。こっちは、金色の目が上にいくつも付いていて、その目が和人達をジロジロと眺め回した。
木々の間に時々居るのは、細長くて灰色の体から長い手が何本も出ている妖怪。三つある目は血のように赤くて、長い舌を垂らしている。
何となくピリピリしたい感じが伝わってくる。やっぱり皆んな怒ってるのかと和人は思った。
少し開けた場所に出ると、リキは止まった。
そこには2メートル四方ほどの空間があり、真ん中に大きな木の切り株があった。そしてその切り株の上に、和人が見た事もないような奇妙な生き物が乗っていた。見たことの無い生き物と言えば、山の中でも色々見たし、リキだって妖怪だけれど、この生き物はまた全然雰囲気が違っていた。
形はサツマイモのような感じ。色も似ている。普通のサツマイモの色よりもう少し明るい、ピンクと赤紫の中間のような色。大きな体は丸々としていて、ツヤツヤと光っている。片方の端に顔が付いていて、黄色い楕円形の大きな目とが二つと、小さな鼻の穴が二つえる。顔の部分は上半分が鮮やかな緑、グラデーションのように色が変化しつつ下の方は鮮やかな黄色。パタパタとはためく大きな耳が、顔の両サイドに付いている。尻尾は細く枝のように分かれていて、その先にいくつも淡く光る粒が付いていてキラキラと美しかった。
この生き物からは、怒っているエネルギーは伝わってこないと和人は感じた。図体は大きいけれど凶暴な感じは全く無く、なんだかのんびりした感じの生き物だと思った。
「扉を開けて欲しいんだけど」
生き物に向かってリキが頼んだ。
「いいけど」
生き物はあっさり承諾して、切り株の真ん中が縦にスッと割れた。
その割れ目が、見る間に横に広がって大きさを増していきいき、大きな穴が空いたと思ったら、開いた部分に鮮やかな緑色のカーテンが現れた。カーテンは閉まった状態で、真ん中で分かれているように見える。
開けたら向こうは切り株の内部なのかと和人は思った。
びっくりするようなものをあまりに多く見すぎて、もう感覚が麻痺している気がした。
「開けてくれてありがとう。和人。行こう」
リキが、当たり前のようにカーテンの真ん中へ進んで行く。
切り株の直径は1メートルほど、高さはその半分位なので、自由に体の大きさを変えられるリキは余裕で通り、和人は身を屈めて潜り込んだ。
切り株の内部は薄暗いけれど、真っ暗闇ではなかった。カーテンは光を通す素材のようで、薄いカーテンを通して外からの光が漏れてきている。中はカーテンの色と同じ緑色で、丸い天井の小さなドームのような場所だった。
キャンプに行った時のテントの中の感じを、和人は思い出した。何となくそんな感じの空間で、不思議なことに中に入ると普通に立つことが出来た。切り株の高さからすると内部はもっと狭いはずなのに、ここでは空間の大きさが伸び縮みでもするのかと和人は思った。
中に入ってから数秒で、今度は床の一部がスッと割れた。ここに穴が開いたら落ちると思って和人が飛び退くと「大丈夫大丈夫」とリキが伝えてくる。
床の割れ目はどんどん広がって空間が開き、下へと続く階段が現れた。階段には明かりが灯っているようで、暗くはない。
一人がやっと通れる位の幅しかない螺旋状の階段は、先が見えないくらい遥か下まで続いていた。
普段の猫の大きさのリキが、トントンと軽やかに降りて行く。
和人も続いて階段を降りた。
数メートル歩いて振り返ると、入り口の穴がスッと閉まるところだった。
「え?閉まったんだけど」
「大丈夫大丈夫。出る時はまた開けてくれるし。ここ以外にも出口はあるし」
前を歩くリキが教えてくれた。
リキはこういう時いつも、振り向いてもいないのに和人の思考が分かり、即座にその答えを伝えてくれる。人間の言葉は話さないし猫の鳴き声でも無く、ダイレクトにメッセージが飛び込んで来る感覚で、一瞬で足りる理解のやり取り。和人はリキと会ってからだんだん、会話するよりもずっと速いこのやり取りに慣れてきていた。
和人は、リキに遅れないように少し早足で階段を降りて行った。
階段の材質は何か分からない、少し柔らかい物質だった。子供の頃工作で使った、固まる前の紙粘土みたいだと和人は思った。
幅の狭い階段で、遥か下まで続いているし手摺もないけれど、落ちそうとか怖いという気は何故かしなかった。
周りの壁は緑色で、階段は白。壁に灯っている明かりは蝋燭の火のような感じで、けれど実際に蝋燭があるわけでなく炎だけが壁に浮かんでいた。
階段は、真っ直ぐ下に降りているのではなく僅かに斜めになっていて、入り口の位置から前に進んでいるようだった。
階段が続いている下の方は、白く霞がかかっていてよく見えなかった。
雲の中へ降りていくような感じがする。
不気味とか怖い雰囲気ではないけど、いったいどんな場所へ行くんだろうと和人が思っていると「もうすぐ終点。そこから今度は上りになる」と、リキが伝えてくれた。
「上がった場所は普通に山の奥だから」
「そこに誰か居るわけ?」
「山の主に会いにいく」
「なるほど。山の主がそこに居るんだね。さっき入り口に居た生き物が山の主かと思ったけど違ったんだ。考えたらそうか・・・だったら、リキがあそこで言うはずだしね。山に居る存在達が皆んな怒ってるから、今から山の主に会って、開発のことを謝りに行くって事か」
「入り口に居たのは門番。門番はのんびりしてるから、開発のこともあんまり気にしてないみたいだけど。妖怪も人間と同じで皆んな性格違うから、気の荒い存在とかも居るし、怒ってる者も多い。あのお祓いはたしかに人間側が失礼なことしたんだけど・・・とりあえず謝って、山の主が聞いてくれるかどうかわからないけどね」
階段は、下り切ったらいつのまにか平坦になって、そのまま緩やかに上りになった。上りになると階段の材質が変わって、光沢のある白い布のような物になった。何も無い空間に布だけが浮いているような感じだ。
それでも、その布は歩く者の体重をしっかりと支え、普通に布の上を歩いて行ける。
「乗る?」
しばらく歩いてからリキが問いかけてきたので、まだ遠いのかもしれないと思った和人は乗せてもらうことにした。
下りる時は狭い螺旋階段で、リキに乗って走るのは無理な感じだったけれど、今はごく緩やかな上りで階段は真っ直ぐに続いている。
馬ほどの大きさになって和人を乗せたリキは、そこを滑るように駆け上がっていく。
壁に灯っていた明かりは、途中から少しずつ数が減っていった。
その明かりが無くても前方から差してくる光が、進む道を照らしている。
「もうすぐ着く」
リキからそう伝わってきて数秒後、緑色のカーテンが目の前に現れた。
入り口と同じだと和人は思った。
カーテンはやはり真ん中で分かれていて、リキはそこを走り抜けた。
次の瞬間、和人は森の中のひんやりとした空気を感じていた。
そこには、手付かずの自然の風景が広がっていた。
樹齢数百年、中には千年以上かと思われる大木がそこら中に存在していて、大地に大きく根を張り、空に向かって枝を伸ばしている。
木漏れ日がキラキラと眩しい。
大木の枝が、風を受けてザワザワと揺れた。
和人が見たことの無い植物も沢山見られ、木の幹にも、植物の葉の上にも色んな虫達が居る。
鳥のさえずりが聞こえ、美しい羽を持つ蝶が、植物の周りを飛び回っている。花粉まみれになった蜜蜂が、花の中から飛び出してきた。
動物達が草の間を走り回るガサガサという音が聞こえ、どこからか川のせせらぎの音も聞こえてくる。
この空間全てから、森の息遣いが聞こえる。
ここに立っているだけでとても心地よくて、自然に呼吸が深くなる。
そんな感覚に、和人は何故か胸がいっぱいになった。
自分が住んでいる場所も自然が美しい田舎だと思っていたけれど、それとも全く別次元だと感じた。ここには人工的な物が一切無く、これこそが本物の自然の風景だと思った。
見ると、植物の葉の影から何かが顔を出している。
とても小さいけれど、人間に近い形。
その生き物の近くにも、同じような大きさで人間のような者が、草の蔓にぶら下がっている。
よく見ると何人もいるらしい。
他にも、フワフワとした白い毛の固まりの様なものが、植物の周りを飛んでいる。どうやら生き物のようで、丸い目があって尻尾があった。
「和人はここでもやっぱり色々見えるんだな」
リキが伝えてきた。
和人は周りの風景に圧倒されて、リキの存在さえ一瞬忘れていた。
「村から出て山道に入った時も色んな存在が居たけど、ここでも同じだね。雰囲気は随分違うけど」
「ここは平和だからね。誰も怒ってないし」
普通は人間の目に見えない存在達を、自分が認識出来るようになったのはそういえばまだ最近だなと和人は思った。
「タネ婆さんは子供の頃からそういうのがあったみたいだから多分生まれつきだけど、俺はそんなのは無かったし・・・動物達のテレパシーの会話が分かるようになったのも、普通は見えない存在が見えるようになったのも、リキに会ってからだな・・・」
「そろそろ行こうか」
獣道を、リキが先に立って歩き始めた。
「ここはどういう場所なの?異世界とか?」
草や木の枝をかき分けて歩きながら、和人がリキに聞いた。
「違う違う。そんなんじゃない。村のある場所から、ただ山奥に入っただけ。開発の事で山に住む存在達が怒ってるから山の主に会いに行くのに、違う場所に行ったってしょうがないだろ」
「まあそうなんだけど、あまりにも感じ違うから。それに途中で通ってきたあの階段とか・・・それから、門番とか・・・」
「ある一定の場所から奥へは人が入ってこないように、山に棲む存在達も色々考えてる。門番は大抵の人間には見えないから、あの入り口は誰も見つけられない。それよりもまず、あそこまでたどり着ける者は居ない。山道から入って普通に進もうと思ったらムジナが居て、入ってきた奴を化かしたりする。進んでいるつもりが気がついたら何度も同じ場所をグルグル回ってたり。そうなったら諦めて帰るしかなくなる」
「山で狸に化かされたとか、昔話でよく聞くもんな。あれってほんとなんだ」
「動物の狸とはまた違うんだけど。化かすのは妖怪だから」
「俺が今まで見た以外にも、色んな存在が居るんだな」
「ここへ来る時上りの階段があっただろ。あれだって妖怪なんだぜ。気が付いてなかった?」
「え?!ほんとに?生き物だとは・・・」
「布みたいな形状で、どこまでも広がれるしどんな形にもなれる。そういう妖怪も居るんだ」
「凄いな。下りる時の螺旋階段の方は?」
「あれは木の切り株から繋がってて、門番の体の一部。門番は切り株から分離して動くことも出来るんだけど、普段はいつも切り株と一体であそこに居る」
「妖怪って言っても、ほんとに色々居るんだな。人間に近い形の小さい存在も見たし。山の主っていうのも妖怪?人や動物じゃないよね」
「もうすぐそこに居るよ」
「え?どこに?」
「今、和人が触ってる」
「・・・え?!これって木の幹じゃ・・・」
和人が触っていたのは、電信柱ほどの太さがあるゴツゴツした物だった。
下の方を見ると、それは鳥の足の形をしていた。
ものすごく大きいけれど、これはもしかして鳥なのか?
そう思って和人が見上げると、巨大で真っ黒な鳥の胸の辺りが見えて、遥か上の方に、尖った嘴と鋭い目があった。漆黒の羽に覆われた全身の中で、嘴と目の色だけは血のように赤い。その大きさだけでも怖すぎて、和人は腰を抜かしそうになった。
「知らなくて触ってしまってすみません!」
そう叫んで、バタバタと数メートル後ずさった。
「何だ?騒がしいな」
今度は背後から違う気配がして、和人に向かって声が飛んできた。
声と言っても耳から聞こえているわけではない。
リキと話す時と同じ、テレパシーだ。
その声の醸し出す雰囲気が、目の前に居る巨大な鳥よりもさらに威圧感があった。
振り向くのが怖い気がするけれど、かと言って見なくても余計に怖くて気になる。
和人は、思い切って声の方に体を向けた。
それは、鳥と同じくらい巨大で、狼のような姿をしていた。全身の毛の色は白く、目は金色に光っている。鋭く尖った二本の牙が見えて、和人はまた無意識に後ずさった。
別に攻撃されたわけでもないのに失礼かと思いつつ、でもやっぱり恐ろしかった。
自分は話しに来たのだ。
何か言わなければ。
そう思うのに、喉がカラカラに乾いて言葉が出てこなかった。
嫌な汗が噴き出してくる。
「大丈夫だよ。落ち着いて。深呼吸。ゆっくり」
隣に居るリキから、励ましが伝わってきた。
和人は、緊張して固まっている全身の力を抜いて、意識してゆっくり息を吐いた。
大地をしっかり踏みしめて、深い呼吸を一回。二回。三回。
そうしていると、頭に上がっていた気が下がり、だんだん落ち着いてきた。
「・・・少しだけ・・話を聞いてください。村で開発の話が進んでしまって、山の中でも何か色々あって・・・俺も村から来たんだけど、開発は止めさせたいと思ってます。その事で、山に棲んでる存在達は皆んな迷惑してるのも知ってます。怒ってるのもわかります。開発は止めさせるように何とかするので、どうか・・・もう少し待っていただけないでしょうか」
和人が言い終わらないうちに、近くで何やらボコボコと水音がし始めた。
驚いて振り返ると、すぐ近くに沼があるようで、そこの水面から泡が出ている。
丈の高い草の向こうで、沼の表面も枯れ草に覆われていたので気が付かなかった。
「え?!何か動いてる?何か居る?」
「山の主は三体なんだ。沼の主も居るから」
リキから答えが返ってきた。
その数秒後に、沼の中から巨大な魚が顔を出した。
体全部は見えなくても、水面に出ている頭の大きさからすると体長3メートル位ありそうに思えた。沼に住んでいるらしいこの巨大魚は、金色に光る鱗に覆われている。ギザギザの歯が鋭くて、和人はまたしても腰を抜かしそうになった。
リキがさっき三体と言っていたからこれ以上は無いのだろうと思い、何とか気持ちを落ち着かせようと呼吸を整えた。
自分の話しの内容に怒って出てきたのではあるまいかと思うと、余計に恐ろしかった。
このままここで食われるんじゃないかと思ってしまう。
ただ、怒りは伝わってこなかった。
「人間が来たのは久しぶりだな」
巨大な白狼から伝わってきた。
「前とは違う奴か?」
「前に来たのは女だった」
沼から出てきた巨大魚と、黒い怪鳥と、三体でやり取りしている。
やっぱり怒りのエネルギーは伝わってこないと、和人は思った。
淡々と事実を思い出して話しているという感じだ。
唐突に、和人の意識の中に映像が飛び込んできた。
この場所に、今自分が立っているのと同じ場所に、若い女性が立っている。
年の頃はおそらく二十歳前後。俺よりも十歳以上は若いと思う。
女性にしては背が高くて、体格はがっしりしている。畑仕事をしていたような服装で、よく日に焼けていて逞しい感じ。一つに束ねて背中に垂らしている豊かな黒髪は長く、目鼻立ちははっきりしていて、意志の強そうな内面がその表情にも表れている。
なんか雰囲気が女戦士みたいな感じだなと和人は思った。
それと同時に、自分は確かにこの女性を知っていると感じた。
なのにどこで会ったのか全然思い出せなかった。
何とか思い出そうと数秒間考えているうちに、和人はいつのまにか、そこに立っている女性の目線になっていた。
自分の意識が、自分の体とは違うところに一瞬で移動した。
不思議な感覚だった。
自分とは違う人物の内側に入った感じだ。
今自分は、この女性としてこの場を体験していると和人は理解した。
空から何が来てる?
凄い速さで近付いて来ている。
上空にそれが来て、辺りに影ができた。
それくらい大きい。
凄い風圧が来て、飛ばされそうになる。
足を踏ん張って耐えた。
大きく広げられた巨大な翼と、自分の顔の数倍はあろうかという大きさの顔が見えた。
鋭く尖った赤い嘴と、血のように赤い目が光っている。
目の前に、黒い怪鳥が舞い降りた。
相手は恐ろしく大きいけれど、敵意は向けられていない。
今度は背後に気配を感じた。
敵意は向けられていないと分かりつつ、一応用心して前方に意識を残したまま振り向いた。
巨大な白狼が、すぐ近くに居た。
いつから近付いて来ていたのか。
この巨体なのに、すぐ近くに来るまで気配すら感じなかった。
やはり、敵意は向けられていない。
今度はボコボコと水音がし始めた。
そうか。そういえばさっき、水の匂いがした。近くに沼があるのか。
落ちた枯葉に覆われていた水面から、巨大な魚が顔を出した。
全身は見えないけれど、先に現れた二体に匹敵する大きさ。
でもやはり、敵意を向けられている感じはしない。
「我々の姿を見ても全く動じない人間も珍しいな」
巨大魚から、そう伝わってきた。
「敵意を向けられている感じがしないから。会ってくれて本当にありがとう。私は村から来た。山道に入ってからここに来るまでの道のりでは、皆がとても怒っているのが伝わってきた。私は生きて帰れなくても仕方ないと思った。激怒しても当然の事が、行われたわけだから。今開発が進み始めていて、山に居る存在達に酷く迷惑をかけていることは私も知っている。開発を進めている者達と同じ人間として、本当に申し訳なく思う」
「開発だけではなく、怪しげな呪術のようなことをやる人間も居たようだな。最近になっていきなり入ってきて挨拶も無く、太古の昔からここに棲んでいる我々に対して、お前達は出て行けと言う」
「何も分かっていない人間が多くて、その事も本当に申し訳ないと思っている。今ここで私が謝ったからと言って事態が変わるわけではないが・・・私はあの開発を止めさせようと思う」
「お前にそんなことが出来るのか?人間の中の権力者というわけでも無さそうだが」
「私はただの村人で、権力は持っていない。けれど、出来るか出来ないかじゃなくて、やらないといけないと思う」
「見たところ若い娘だし、やはり権力は無いか。我々を見ても全く恐れない胆力と、隙の無い身のこなしは見て取れた。武術の心得でもあるのか」
「多少は。けれど、開発を止めさせるのに武力を使おうとは思っていない」
「どうやって止めるつもりか分からんが・・・我々の存在を認識出来るだけでも人間としては珍しいからな。お前ならもしかしたらやれるのかもしれんな」
「話を聞いてくれてありがとう。必ず私が何とかするから、もう少しだけ待って欲しい」
次の瞬間、和人の意識は本来の自分へと移った。
女性の目と心を通して見ていた状況から、元の自分の視点に戻っている。
隣にはリキが居て、三体の山の主に囲まれている。
「今のは・・・」
「ずっと前の、過去の場面を見たんだよ」
リキが答えを返してくれる。
「さっき、俺は俺じゃなかった。違う女の人の視点で見てた」
「誰か分からない?」
「会ったことがある気がするんだ。確かに。でも思い出せない」
「タネさんの若い頃だよ」
そう言われてみて、和人はすぐに納得した。
タネ婆さんが若い頃に、山に居る存在達と話したということは聞いていた。
戦争が終わって間もない頃で、その頃も今と似たような状況があったという話だった。
その頃のタネ婆さんの年齢を考えると、ちょうどさっき見た女性くらいだし、言われてみると確かに面影はあった。
それにしても、自分よりずっと若い時でしかも女性なのに、凄い胆力だなと思った。
気骨のある人だとは今のタネ婆さんを見ても思うけれど、若い時からあんな感じだったのかと妙に納得した。
「それで?お前も同じ事を頼みに来たということか?」
白狼から和人に質問がきた。
「はい。そうです」
「一度は開発を止めることが出来たが、また始まってしまったということは、約束を守れたのはここまでという事だな」
「この程度の期間か」
「時間の流れの感じ方が、我々とは違うのかもしれないが」
山の主達は、三体でやり取りし始めた。
自分に向けられている会話でなくても、和人には内容が分かった。
猫の会議に参加した時と変わらない。
同じ感じで伝わってくる。
さっき見たのが、今は九十を過ぎているタネ婆さんが二十歳くらいの時の場面だとすると・・・七十年以上前のことか。あの時タネ婆さんに聞いた話でも、戦争が終わって間もない頃とか言ってたし・・・その頃にタネ婆さんと何人かの村人達が頑張って開発を止めて、それから最近までの間は平和が保てた。けれどまた同じような状況がやってきたということは、たしかに山の主の言うように、約束が守られたのはここまでということになる。
そんなことを和人が考えていると、それはそのまま伝わっているらしく、白狼から言葉が伝わってきた。
「若い娘だった人間が老人になるまでの期間という事は、人間の感覚からするとそれなりの年月のようだな」
さっきまでは和人やリキが居ても無視して三体で話していたけれど、和人が彼らに意識を向けると、思考を受け取るらしい。
「もう一度だけ待ってやろう」
三体の山の主達から、そう伝わってきた。
「ありがとうございます」
和人は深々と頭を下げてから、ゆっくりと顔を上げた。
その間に、目の前に居た山の主達の気配がフッと消えたのを感じた。
慌てて辺りを見回しても、もう影も形も無い。
「え?消えた?特に鳥の形の山の主は、出て来る時は派手だったけど」
「来る時は、自分達を見て恐れないか試してるのかも。承諾してくれたみたいだし、とりあえずは良かったな」
「そうだな。とりあえずは。約束したからにぱ実行しないといけないし、これからだけど」
「皆んなのところへ戻って相談しよう」
リキは和人を乗せて走り、来た時と同じく白い階段を駆け降りた。
今度は来た時と逆に、螺旋階段の方が上りになるがら、ここからはきつそうだと和人は覚悟した。
体力に自信が無いわけではないけれど、この階段はおそろしく長い。
そう思っていると、リキが上に向かって呼びかけた。
「そっちへ出たいんだけど。頼める?」
「いいけど」
門番から答えが返ってきたらしい。
数秒後、上からスルスルと何かが伸びてきた。
「何だ?!あれってもしかして木の根っこ?!」
和人は、ぼーっと上を見上げたまま固まってしまった。
はるか上の方から、まるで生き物のようにスルスルと伸びてくる木の根っこらしき物。
山の主を見た時も驚いたけれど、それとはまた違う感じのインパクトがあった。
あっという間に、それは和人の目の前まで下りて来た。
近くで見ても、やっぱりそれは木の根っこだった。恐ろしく長い。
「人間の体力では上まで上がるの大変だろ。だから門番に頼んだ。一気に上がるから落ちないようにしっかりつかまってろよ」
リキが伝えてきた。
見れば片手で掴み切れないくらい太さのある木の根っこで、自分がぶら下がっても切れる心配は無さそうだと和人は思った。
木の根っこを両手でしっかり掴み、さらに足を巻き付けてしがみつく姿勢を取った時、グンと上に引っ張り上げられた。
そのままスルスルと上に上がっていく。
スピードはあるけれど、そんなに揺れないので怖さは無かった。
この間リキは、小さく縮んで和人の頭の上に乗っていた。
入り口にある切り株は門番の体の一部だと、リキが言っていた事を和人は思い出した。
それで階段も作っていたわけだから、こういう物が出来ても不思議ではない。木の根っこは、門番の意志で自由に伸び縮みさせられるらしい。体の一部なんだから当然というところか。
和人がそんな事を思っているうちに、つかまっている木の根っこはどんどん縮んでいき、上まで運んでくれた。
来た時と同じく途中からは明かりが灯っていて暗くはなく、終点が近づくと天井がスッと割れた。
下から見ると天井だけれど、門番の体の中に入った時は床だった所だ。
その割れ目を抜けて中へと戻ったと思ったら、木の根っこばスルスルと細くなって消えた。
門番に礼を言って外へ出て、すぐにリキは大きくなって和人を乗せた。
「タネ婆さんの家に、皆んなまだ居るかな?」
「そんなに時間経ってないし居るんじゃないかな」
和人が時間を確認すると、夕方の六時を回ったところだった。
来た時と同じように獣道を走り、もうすぐ山を抜けるというあたりまで来た時、突然地面が揺れた。
下からドーンと突き上げるような揺れが来て、そのあと今度は激しい横揺れが始まった。
最初の衝撃でリキの背中から落ちた和人は、草の上を転がって木の幹にしがみついた。
幸運な事に、地面が柔らかく草が生えている場所だったので、ほとんど怪我はしなかった。
地面はまだ激しく揺れていて、立ち上がることは出来ない。
姿勢を低くしたまま顔を上げると、リキの腹の毛が見えた。
リキが、和人の体を守るように立っている。
「地震だ!リキ!危ないから伏せて!」
「普通の動物じゃないし俺は大丈夫だよ。妖怪だから」
数十秒経って、地震の揺れはおさまった。
和人は立ち上がって、服の泥を叩いた。
手足を多少擦りむいた程度で、怪我らしい怪我はしていない。
「ありがとう。リキ」
「俺が守らなくても大した事なかったよ。この辺りはそう被害はないみたいだな。木がしっかり根を張ってるし」
「村の方が心配だな」
「早く戻ろう」
再び和人がリキの背中に乗って、山を抜け、車の走れる道まで出た。
しばらく行くと、道路脇の斜面が崩れて土砂で道が塞がっていた。
普通なら通れないその場所を、リキは難なく駆け上がり、飛び降りた。
この場所でこれだけ崩れているということは、村はどうなっているのか。
和人もリキも同じ思いで、一刻も早く村へ戻りたかった。
村に近づくと、煙が上がっているのが見えた。
地震が原因で、火災が発生しているらしい。ちょうど夕食時だったので、料理で火を使っている家が多かったのかもしれない。
最悪の事態を見たくないと思いながら、でも行かなければと和人は思った。
和人は、生まれてから今日までずっと、この村で生きてきた。数十人しか居ない村人達とは全員顔見知りで、深い人間関係もあるし家族のようなものだった。
どうか誰も命を落としたりしていませんようにと、心の中で祈った。
山道を抜けて、村までの道を急いだ。途中からリキは、普通の猫の大きさになって和人の横を走っている。
走りながら和人は、今日集まっていたメンバーのうち何人かに電話してみた。けれど、話し中の音がして誰も繋がらなかった。安否を気遣う電話があちこちから入っているのかもしれない。それか、消防とかに連絡電話をかけているのか。
村に着いてみると、辺りの風景は一変していた。
あちこちに倒壊した家屋があり、燃えている家もある。
途中の道が塞がっているため、外からの救助も遅れているに違いない。
家からホースを引いてきたり消化器を持ってきて、自分達で出来る限り火を消そうと頑張っている人達の姿も見えた。
怪我して倒れている人は居ないか確認しつつ、和人とリキは村の奥へ進んだ。
和人の家は村で一番広くて、緊急時には避難所として使ってもらえるよう解放しているので、まずは自宅へと向かった。
今日タネ婆さんの家に集まっていたメンバーも、和人の家に来ていた。
玄関の近くに居た寿江と一番先に顔を合わせたので、和人は状況を聞いた。
タネ婆さんの家に居た自分達は全員無事だったので、困っている人が居たら手伝おうと思ってここに来たという事だった。
タネ婆さんの家も土台がしっかりしていて、かなり揺れたけれど建物は無事で、その時は火も使っていなかったし被害はほとんど無かったという。村全体では怪我人は十数人居るけれど、幸いなことに重傷者は居なかった。
村の危機を救おうと思って山の主に会ってきたのに、その間にまさかこんな事が起きようとは、和人にとっても完全に予想外だった。
でも・・・ものすごく嫌な話だけれど、地震があったことで開発の予定はもしかしたら無くなるのでは?もしそうなら、村を復興させるには時間がかかるけど、開発の結果起きると予想される様々な事は回避出来るかもしれない。和人は、そんな事を考えた。
考えた事はリキに伝わるので、すぐ答えが返ってきた。
「そう簡単じゃないかもしれないぞ。俺も、猫達からの情報で色々聞いている。開発が進んでいる他の地域でも、地震が起きたり集中豪雨で土砂崩れが起きたりしている例は沢山ある。そこが開発の候補地に上がって、なぜかそのあとしばらくして、まるで狙ったように自然災害が起きている。今年に入ってからで既に五ヶ所。去年からも合わせるともっと多い。これが本当に自然なのかどうか・・・」
「自然じゃないって・・・まさか。そこまでやる?それにそんな事出来るのかよ」
「人工的に気象を操作することも、地震を起こすことも、技術的には今は可能らしい。説明会を開いて全員とゆっくり話をするような悠長な事をしているよりも、ある程度の広さの土地を手っ取り早く空けるには、こういったやり方が一番早いからな」
「けどそんな事したら人が死んだりとか・・・」
「あいつらはそんな事気にしてないと思う。あいつらって言っても、説明会に来たような人間は上から言われてやってるだけだから、そんな事は知らないと思うけど。全体を動かしてる、もっと上のやつら」
「もしそうだとしたら、やることがあまりにもえげつないんだけど」
「雨の降り方や地震の揺れ方が、自然に発生するものとは違うらしい。動物はそういうの感覚で分かるし、人間でも、波形を調べたりしてるやつは居るみたいだぜ」
最初聞いた時はまさかと思ったけれど、少し考えてみれば、あり得ない事では無いなと和人は思った。
たしかにこのところ、やたらと自然災害が多かった。
この村は年寄りが多いから、皆昔の事を知っている。今の雨の降り方や地震の揺れ方など「昔とは全然違う」という事も、何度も言っていた。
それに、開発候補地に限って次々と自然災害に見舞われるというのも・・・一回二回なら偶然ということもあるが、そこまで続くとさすがに不自然さを感じざるをえない。
「最終手段としては、村を捨てるしかないかもしれないね」
近くに居たタネ婆さんが、和人とリキにだけ聞こえるくらいに小声で言った。
「山の主には会ってきたのかい?」
「会ってきたよ。過去の場面も見せてもらった。俺より前に交渉に行った、タネ婆さんの若い頃も見た」
和人が答えた。
「もう何十年も昔の話だねぇ」
「今回も、待ってくれるって約束してくれたよ」
「そうかい。良かった。さっきの話だけど、最悪村を捨てる事になっても、開発が山の方に及ばなければ約束は守った事になる」
「そういう事だね」
「今回の地震で、多くの家が潰れた。住み続けられる者は少ないかもしれない」
タネ婆さんの家や、他の壊れていない家から持ち寄った物で、皆で夕食を済ませた。食べ物が普通に食べられただけでも本当に助かったと、全員が思った。
猫達も、他の動物達も、和人の家に移動してきていた。本当なら今日は、タネ婆さんの家で猫の会議があるはずだったから。
今度は和人の家の中の一部屋が、猫が敷き詰められたような状態になっている。和人は猫達の会話を聞くことが出来るので、中に入って一緒に聞いた。リキも和人の横に居る。
「人間ってやっぱりろくでもない事ばっかりやってくれるねぇ」
「手っ取り早く土地を空けたいんじゃない?やり方めちゃくちゃだけど」
「この辺も住みにくくなってきたし、これからどうしようかねぇ」
「いっそ山に住む?」
「山までは邪魔しに来ないといいけど」
猫達の間でも、村を捨てて山に住む話が出てきている。
さっきは、タネ婆さんもそんな事言ってたし。
「リキはどう思う?」
「村を守るのはもう無理かもしれないな。ここは捨てて、そのかわり山から向こうは絶対に守る。この方が現実的かもしれない」
「そうか。正直言うと、俺はやっぱり住み慣れた家をそう簡単に捨てられない。爺ちゃんと婆ちゃんから受け継いだ大切な家で、ここがあったから俺の親が居て、だから俺が生まれて、俺はこの村でリキとも出会ったし。大切な思い出が多すぎる」
「そうだな。その気持ちは分かるよ。俺だって普通の猫だった時はここで育ったし、長い期間居たんだからここに愛着はある。ただ、今回のことが策略だとしたら・・・」
「ここに残ろうとするのはそう簡単な事じゃないよ」
近くに居て、やり取りの内容を分かっていたタネ婆さんが言った。
簡単ではないという事は、和人も十分理解していた。
それでもまだ今は、諦めきれないものがあった。
7月23日
あの地震から丸二日経った。
ほとんどの人はまだ、避難所である俺の家で休んでいる。
怪我をした人の手当てに関しては、昔から伝わる民間療法に詳しいタネ婆さんが居るから安心。
部屋は沢山余ってるし、自分の家が大丈夫だった人達は食糧を持って来てくれるし料理して配ってくれるし。
俺は場所を提供しているだけで、特に何もしなくていいし楽だけど。
気がついた誰かが掃除もしてくれるから、俺だけで住んでいた時よりむしろ家が綺麗になって助かっている。
元々全員顔見知りだし、大変な事が起きたけど皆んな近くに居ることで安心感もある。
野生の動物達は、ほとんど山に逃げたらしい。
残っているのは、誰かの家で飼われていたり、村人の家に出入りしていた動物達だけで、猫が25匹犬が11匹居る。
俺はリキと一緒に村を見て回って、倒壊した家屋がどこまで直せそうか確認したりしている。
7月24日
今月を振り返ってみると、ものすごい勢いで色んなことが起きた気がする。
今月初め頃に、村の開発に関する説明会があった。
色んな事が起き始めたのはその時時からだった。
俺達は開発を阻止したくて色々と動いたから、それもあるかもしれないけど。
結果的には、開発を諦めてもらう作戦は失敗に終わった。
逆に相手を刺激してしまったかもしれない。
自治体の職員達は霊能者を連れてきて変なお祓いの儀式をやったりして、山に居る存在達を完全に怒らせた。
それであの車の事故。
こうなるきっかけを作ってしまったのは俺達でもあるわけだし、何とかしないといけない。
俺はリキの案内で山の主達に会いに行った。
開発を俺達が止めるから待って欲しいという願いを、山の主達は受け入れてくれた。
開発の話はまだ存在するわけだし、やらないといけない事は沢山あるけど、とりあえずは良かった。あの時は、そう思った。
だけどこのあと地震が起きて、死者は出なかったものの、怪我人が沢山出て村は酷い状態になった。
地震があった日にもリキと一緒に見て回ったけれど、潰れたり焼けたりして、とても住める状態ではない家が多い。
夕食の時に火を使っていたとしても、あんなにも酷く燃えて全焼状態になるものなのかと疑問にも思った。
地震があった時はまだ山から帰る途中で、戻ってから俺も消火作業を手伝ったけど。
中から徐々に燃え広がるのではなくて、短時間で外側から黒焦げになった感じ。
まるで火炎放射器かなんかで上空から焼かれたんじゃないかと思うくらいの酷さだった。
消火作業にも救助にも、村の外からはいつまで経っても誰も来なかった。
地震そのものが、自然発生したものではないとリキは言ってたし。
状況から考えて、俺もそっちの方が可能性高いんじゃないかと思う。
考えたくないけど、強行突破で開発を進める方針で、色々起こされてるのかもしれない。
リキが言ってたように、説明会に来てるような人達に何か言ったところで解決は無いと俺も思う。
もっと上からの命令で全てが動いてるとしたら、実行してる人達は言われた通り行動しているだけだから。
計画の全体像なんか知らない可能性も高い。
7月25日
リキからもタネ婆さんからも言われていたし、俺もある程度は予想していたけれど、村から出て行く予定の人がけっこう居る。
村には高齢者が多いけれど皆元気だから、一人暮らしをしていた人、老夫婦だけで暮らしていた人も、今まで不自由無く楽しく生きていた。
けれど今回の地震で家が潰れたり焼けたりして住めなくなった。これを機会に村に住み続けるのは諦めて、街に住む家族のところへ行くと言う。
怪我をしたことでちょっと弱気になった人も居るのかなと思う。
行き先があるということは幸せなことだし、良かったと思うべきなのかもしれないけど。
俺を含め全部で47人居る村人の数が、10人以上減ってしまう。
この事を思うと、正直やっぱり寂しい。
この村では、年を取っても皆病気知らずで活力に溢れていた。
それは、この村にある豊かな自然と食物のおかげだと思う。
俺もこの村で、そういう一生を過ごしたいと思っていたのに。
俺の思っている事は、リキにはいつも全部伝わっている。
リキからは「分かるよ」という、ただそれだけが伝わってくる。
どんなに多くの言葉で慰めや励ましをもらうよりも、これだけで癒されるし安心する。
精神的に崩れそうな時も、リキのおかげで何とか立ち直れるし助かっている。
7月26日
地震から五日経った。
やっと道が通れるようになったらしい。その割には、村の外からは救助も何も来ないけど。
今日は、俺とリキが外を回っていた間に、避難所である俺の家にマイクロバスが来たらしい。
ここから移動して、落ち着ける場所に一旦避難して、村が元通りになったらまたここに戻ってこれるので乗ってくださいと言っていたとか。
俺は後から、タネ婆さんに聞いた。
壊れた家が住める状態になるまでの間、家族の所に帰る予定が無い人のための公的機関からの支援とかいうことらしい。
タネ婆さんが行き先を尋ねると、乗ってから伝えると言われたとか。
行き先も分からないものに乗りたくないし何だか怪しいと思った人達は避難所に残ったけれど、20人が乗って行ってしまった。
また、ごっそりと人数が少なくなった。
家が元通りになれば・・・とか言ってる割には、直そうという気配すら無いのも怪しい。
元通りではなくて、人が居ない間に開発を進めて、以前とは全く違う形にするつもりなのかと思う。
7月30日
家族の所に帰る人達は、街から迎えが来て皆んな去ってしまった。
やっぱり寂しい。
タネ婆さんの所に滞在していた茜さんは、まだ残ってくれている。俺にとってはそれが救い。村の暮らしがすごく気に入って当分帰らないつもりだというのを聞いて、俺もすごく嬉しかった。遊びに来ている時にこんなことになって災難だったし、すぐに帰ってしまうのかなと思っていたけど。いい意味で予想が外れた。
この村が大好きな俺は、同世代の若い女性が「ここの暮らしが好き」と言ってくれるのは本当に嬉しい。
良太くんもそうだけど、若い世代で村に残る人が増えていけば、村はこれからも存続していく。
茜さんがいつまで居てくれるのかは不明だけど、少しでも長く居てほしい。何ならずっと住んでくれたらいいのに。街で両親の商売手伝ってるらしいし無理なのかな。
「それでもとりあえずは、茜さんが当分居てくれる事になって良かったじゃないか」と、リキから伝わってくる。
最初に茜さんを見た時から俺が「ちょっといいなあ」と思った事も、リキには多分バレてると思う。彼氏いるのかどうかは、まだ聞けてないけど。
村に残っている人間は、会合に参加していた俺含め七人と、茜さん。バスに乗らなかった十人。全部でそれだけになってしまった。だけどこの中には怪我人は居ないし、皆んな元気。
地震があった直後は人でいっぱいだった場所から、どんどん人が減っていって、今は人間より猫の方が多い。
それでも猫達が居てくれるおかげで、毎日癒されている。
「人間がずいぶんと少なくなったねぇ」
「なんだか寂しい感じになってきたけど、でも残ってる人間は皆んな元気そうだし何よりだねぇ」
猫達はそんな風に話していて、毎日ここでゆったりと寝転んだり、遊んだり、外を散歩したりして過ごしている。村を離れて山に住もうかという話も相変わらず出ているけれど、急ぐ感じも深刻さも無い。
「どっちにしても何とかなる」と思ってる感じが伝わってきて、猫独特のそんな雰囲気に、俺達人間も救われていると思う。
和人が日記を書き終えた時、リキが机の上にポンと飛び乗った。
今日は、大きくなっても小さくなってもいない普通の猫の大きさだった。とは言ってもリキが普通の猫として生きていた頃のサイズだから、平均的な猫よりはかなり大きめで、机の上がいっぱいになった感じがする。
「和人は最近ずっと深刻な顔してるみたいだけど。一人で悶々と悩んでも解決しないぜ」
「分かってる。かなり強引に開発進める気満々みたいだし、早く何とかしないとって俺も思う」
「このまま行ったら多分、村の復旧工事をやると見せて、開発の方向に持っていくのも流れもあるんじゃないかな」
「全く壊れてないのは、こことタネ婆さんの家ぐらいのもんだからな。今は皆んなここに集まってて、ほとんどの家は無人だし。皆んなが居ない間に好きなように出来るってわけか」
「元通り直してるだけなのか作り替えてるのか、あそこまで全壊とか丸焼けになったら分かりにくいからな。それにほとんど皆んな居ないし」
「家族のところに帰る人が居るのは仕方ないにしても、あのバスはどうも怪しかったよな。皆んなが喜んで乗るって言うなら、俺達が居たとしても止められなかった可能性は高いけど」
「それはそうかもな。でも、最初から一緒にやってきた和人達7人以外にも、残ってくれた人が居て良かったな」
「それは本当にありがたいと俺も思ってる」
和とリキが話していると、隣の部屋に居た猫達がゾロゾロと入ってきた。
猫達も、ここに残るのか村を捨てて山に移動するか、何となく考えているのでこの話題には少なからず興味を持っている。
「和人は、出来たらここに残りたいんだろ?」
「そうだな。一番長くここで生きてるタネ婆さんでさえああ言うんだから、相当難しいのは分かってるけど。どうしてもまだスッキリ諦めきれない」
「和人の場合、自分だけじゃなくて、受け継いだものもあるもんな」
「それは大きい。先祖がずっと守ってきてくれた土地と家を、簡単に明け渡すのは何か裏切りみたいな気がするんだよな。それだけじゃなくて、俺が単純にここが好きなのもあるんだけど」
「たしかにここはなんか居心地いいからねぇ」
「そうそう。安らぐねぇ」
「ここがいいって言うのもね、何となく分かる」
猫達は、長々と寝そべってそんなことを話している。
そんな猫達の様子を見ていた和人は、自分もいい感じで脱力してくる気がした。
深刻になって悲壮な決意で「ここを守らねば」という心境になっていた自分に気が付く。
固くなるとアイデアも出ない。力を抜いていこうと思った。
ここに居る人達も、犬達も、誰かが集まって話していると何となく皆んな近くに来て、意識しなくても情報を共有出来ている。
「山の方がどうなってるかも、ここしばらく見に行ってないから一回行こうかな」
和人は、リキに向かってそう言った。
村の中の様子や、避難所として使っている自分の家にいる人達、動物達の方が気になって、しばらく行っていなかった。
「俺もちょうど気になってたし。行くか」
「ありがとう。リキ。二、三時間留守にしますけど今日のうちには必ず帰ってきます」
和人は部屋に居る人達に向けてそう言って、リキと一緒に出かけて行った。
時刻は夜七時を少し回っているけれど、日の長い真夏なので外はまだ明るい。
暗くて人目が無ければリキは和人を乗せてくれるけれど、まだそういうわけにもいかないので普通に歩いた。
今から真っ直ぐ山へ向かう。
どんなに遅くなっても日付が変わる前には戻ろうと話した。
数分歩いたところで、向こうから誰か近付いてくるのが見えた。
女性のようだ。
「誰だろ?」
「俺も見たことない。村の人じゃないな」
「自治体の職員かな」
近付いて来る女性に対して、和人は軽く会釈をした。
自治体の職員だとしたら、彼らに対していい印象は持っていないけれど、完全無視するのも大人気無いと思った。
和人とリキはテレパシーでやり取り出来るので、さっきのように近くで相手のことを話していても聞かれる心配は無い。
リキの姿も、リキが自分で意識して見せようとしない限り、ほとんどの人間には見えない。
今も多分、相手から見ると自分一人が黙って歩いているようにしか見えてないだろうなと和人は思っている。
「こんにちは」
近付いてきたのは、やはり女性だった。
にこやかに声をかけてきたので、和人も挨拶を返した。
この村ではほぼ見かけることの無い、若い女性だ。若いけれど十分大人の女性で、見たところ二十代半ばくらい。しかも、和人が今まで見たことが無いタイプの、美しく都会的な女性だった。ほのかに薫る香水の甘い匂いに、和人は一瞬頭がぼおーっとなってしまった。
女性はスラリと背が高くて、均整のとれたプロポーションをしている。豊かなバストを強調するように大きく開いた胸元、キュッとしまったウエストに、和人は視線が釘付けになってしまいそうで慌てて目を逸らした。
ヒールを履いているにしても、身長173センチの和人と目線の高さがあまり変わらない。美しく化粧を施した顔は彫りが深く整っていて、西洋人のような印象だった。
髪の色も金褐色だし、目の色は深い青だし、肌の色は透き通るように白いし、日本人じゃないか、少なくとも両親のどちらかは欧米人なのかなと和人は思った。
服装もセンスが良くて都会的で、絶対に村では見かけないタイプの女性。
和人は胸の高鳴りを感じた。
こんな人が自治体の職員ってことも無いと思うんだけど・・・と、和人は考えた。
自治体の職員の中にも女性は何人もいたけれど、彼女のようなタイプの女性はもちろん居なかった。
「すみません。ちょっと道を教えていただいてもいいですか?」
女性は、スマホの画面を指しながらそう言った。
「いいですよ。どこ行かれるんですか?」
自治体の職員じゃなかったのかなと思いながら、和人は答えた。
ふと、背後から強い視線と不穏な気配を感じた。
リキだ。
この女性には、リキの姿は見えていない。
和人は女性の方を向いているので見ていないけれど、リキが戦闘態勢に入っているのが分かる。
全身の毛を逆立てて、低く唸っている。
村人の誰に対しても、リキがこんな風に攻撃的になった事は一度も無かった。むしろ村人皆んなと仲良くやっている。
自治体の職員に対してですら、策略的に怖がらせる事はしたけれど、こんな風にはならなかった。
和人はリキの様子が気になりつつも、女性は普通に話しかけてくるし、急に無視して逃げるわけにもいかない。
「ここへ行きたかったんですけど」
と言って女性が指差したスマホの画面を見ると、この村のさらに奥にある村の方だった。
もっと先の村から始まって、女性が行きたいと言っている村も開発がかなり進んでいる。
宿泊施設もいくつか出来ているし、行きたい人が居ても全然不思議では無い。
事実、和人は今までにも何度か、旅行者らしき人に道を聞かれたことがあった。
「このままここの道を真っ直ぐ奥に進んだら、多分分かると思うんですけど」
「ありがとうございます。助かりました。あの・・・さっきから思ってたんですけど、もしかして、藤野森さんって家の方じゃないですか?私の知ってるのはもう少し年配の方なんですけど。あまりにそっくりなので」
「え?そうですけど・・・父と知り合いだったんですか?」
女性は、和人と父親の名前だけでなく、母親、祖父母の名前まで知っていた。
何でこの女性が、自分の家族の事までこんなに詳しく知っているのか。
和人は一瞬疑問に思った。
けれど、父親と知り合いだということは、父親から聞いたのかもしれないとも思って納得した。父親が亡くなった頃和人はまだ小さかったので、父親にどんな友人が居たのかなんて覚えていなかった。
最初一瞬疑問に思ったものの、話しているうちにこの女性の美しさと魅力に胸が高鳴るのを抑えきれなかった。
都会に住みたいと思ったことは無いし、友人が皆んな街に出て行った時でも自分だけは村に残った。都会への憧れなど無いつもりだったのに、都会的な魅力のある女性を見ていいなあと思ってしまっている・・・和人は自分を観察して、そんな風に思った。
「もし差し支えなかったら、一度家に行ってみたいんだけど」
「え?俺の家ですか?」
「ずっと以前に行ったことがあるもので、あなたを見たら思い出して何だか懐かしくて。外から見るだけでもかまわないから」
「俺は・・・別にいいんですけど」
「嬉しい!行ってもいいのね!」
背後に居るリキの気配が、いよいよ不穏になってきたのを和人は感じた。
刺すようにビリビリと伝わってくる。
ただでさえ普通の猫より大きいリキが、全身の毛を逆立てて倍ぐらいの大きさに見えているだろうと想像出来た。
和人が見る限り、この女性はどう見ても普通の人間で、幽霊や妖怪なんかでも無さそうだし、リキがここまで警戒する理由が全く分からなかった。
女性は和人に対して、最初は敬語だったところからどんどんくだけた感じになってきて、いつのまにか初対面なのにタメ口になっていた。
和人としてはここが気にならないでもなかったけれど、ただフレンドリーなだけかもしれないと思って聞き流していた。
でも、リキからのメッセージを無視する気にもなれない。
リキが普通の猫だった間も、猫又になってからも、いつも一緒に居て、いつも助けてくれている。
今も、自分には分からない何かがあるのかもしれないと和人は思った。
「すみません。急に今からっていうのはちょっと・・・今からは行く所があるので、今日は家には帰らないんです」
和人は、実際これから山へ行くわけだから半分は本当の事を言い、後半は嘘をついた。
「そうなの?残念ね。そしたら近いうちに連絡ももらえたら嬉しいんだけど・・・これが私の連絡先」
女性はそう言って、和人に名刺を渡した。
住所や職業などは書いていなくて、名前と電話番号、メールアドレス、ラインのQRコードだけの名刺だった。
「分かりました。ありがとうございます。俺は名刺って持ってないんで交換できないですけど、そのうちこちらから連絡しますね」
「了解。ありがとう。楽しみに待ってるね」
女性は、艶然と笑って歩き去って行った。
その姿が見えなくなるまで、リキは戦闘態勢を崩さなかった。
女性が離れていくまで待ってから、和人はリキに問いかけた。
「さっきの人って、俺には普通に見えたんだけど、そうじゃなかったわけ?リキがめちゃくちゃ戦闘態勢なのは分かったし」
「関わってはいけない奴って居るもんだぜ」
「あの人って、妖怪とか幽霊じゃないよな」
「人間だと思うけど。ろくでもないこと企んでるし、開発を進めてる奴らの側の人間なのは間違いない」
「リキは、もしかして人の心の中まで読めるの?」
「100%は無理だけど。集中して読み取ろうとすればある程度までは分かる。俺と一緒にいるうちに、和人も色々感覚が鋭くなってきただろ?そのうちこれも出来るようになると思う」
「そうだな。動物達の会話に入れるようになったし。人の精神状態なんかも、前よりは敏感に分かるようになったと思う」
「人の考えてる事を読み取るのはその延長線上の能力で、本来誰にでもあるものだから。今の人間は、頭で考え過ぎたりすぐ理屈で考えるクセがついて鈍くなってるだけで。それがなくなったら、そのうちすぐ分かるようになる」
「そんなものなのかなぁ」
「そんなものだ。ただ、相手が美人だからって鼻の下伸ばしてるようじゃ難しいけどな」
「やっぱりバレてたか。正直、すごく綺麗で魅力的な人だと思った。この辺りでは見かけないタイプだから、余計そう思うのかな」
「男ならほとんどの奴がフラフラ行っちまうような女を差し向けてくるのも、あいつらのやりそうな事だな。小さな村では、権力を持っているのは村長か、長老か、古い家柄で財産家か・・・大体その辺って決まってるからな。そこさえ陥落させれば、あとは容易いと多分思われてる。奴らの狙い通り、和人なフラフラ行きそうだったけど、最後は踏み止まったな」
「後ろから来るリキのエネルギーが凄かったから。助かったよ。これは何かあるなって思った」
「それが分かるだけ和人は敏感だし、感覚が目覚めてきてる。普通だったら気がつかないからな。あの女は、俺が正面からエネルギーをぶつけても気が付いてなかった」
「たしかに・・・そう言われてみればそうだよな」
「これからもこういう事はあると思うから要注意だぜ。感覚はどんどん鋭くなって、そのうち俺が知らせなくても分かるようになると思うけど。あの女の事は、連絡せずにほっとけば多分大丈夫だと思う。名刺の名前だっておそらく本名じゃない。若そうに見えたけどそこそこの年だな。和人の父親を知ってるって話が本当ならだけど」
「・・・そうか。さっき気がつかなかったけどそういえば、俺がまだ小さい頃亡くなった父をよく知ってるってことは・・・」
歩きながら話して、山道に入るあたりまで来た。
少し暗くなり始めているし、周りに人も居なさそうなのを確認して、リキは和人を背中に乗せた。
変わった事が無いか見て回るのが目的だから、ゆっくり目に走る。
以前にも何度か通った、車が走れる山道を逸れて真っ直ぐ奥へ入る獣道では、特に変わった事は無かった。
そこから山の中を横に走って、隣村、更にもう一つ奥の村の方まで行くと、ソーラーパネルが増えているのが目についた。
山林をどんどん伐採してソーラーパネルを敷き詰めるこれが、環境に優しいエネルギーの生み出し方だと謳われているのは、笑えない冗談だと会合では皆んな話している。
開発が進んでいる村では、田んぼや畑の中にもこれがある。
山林を伐採したせいで、土砂崩れも起きやすくなる。
「こっちの方はまだ無事だな。いつまでかわかんねぇけど」
「和人は反対だろうけど、もしも村を捨てて山に逃げるなら、もっと奥まで行かないと無理だな。この辺りはこれからまだどうなるか分かったもんじゃない」
実際村を捨てて逃げるかどうかは別として、それはその通りだなと和人も思った。
山の様子を一通り見て回ってから和人達が家に戻ると、家では騒ぎが起きていた。
避難所になっていて全員が集まっている和人の家から、盗聴器が出てきたと言う。
しばらく使っていなかった花瓶の中から出てきたそれを持ってきて、皆んなが集まっていた。
「花でも飾ったら気分が明るくなるんじゃないかって思ってね。今日摘んできた花を飾るのに、そこにあったこれがいいんじゃないかって思って水入れようとしたんだけどね。そしたら中からこんなのが出てくるし、びっくりだよ」
盗聴器を見つけた時の事を、寿江が話した。
「そのおかげで分かったから、逆に良かったけどな」
近くに居た喜助が言った。
「いつからあったんだろうね。地震があった時はバタバタしてたし、この家に誰も居ない時もあったと思うから、仕掛けようと思えば簡単だったかも」
良太がそう言って、和人は地震があった日のことを思い返してみた。
その日だけでなく、普段から玄関も勝手口も開けっぱなしなのだし、入ろうと思えば誰でも入れる。
普段なら、顔見知りしかいない小さな村で、見知らぬ人間がウロウロしていたら目立つしすぐ分かる。
けれど、地震や火災があった時は普段とは違う。
皆んな災害の方に気を取られて、不審者が居ても見過ごしてしまうかもしれない。
リキの言ってた事は、やはり本当だなと和人は思った。
自分の生まれた家は、古くからこの村に住み続けている一族だし、財産もそこそこあり、緊急事に皆が集まる場所を提供している。
そういった事を知られていて、開発を進めるために自分を陥落させれば後は話が早いと思われているらしいと実感した。
盗聴器の件もそうだし、さっきの女性の件も。
ぼーっとしてる場合じゃないと和人は思った。
あの女性に家族のことを詳しく知られていたのも、ここでの話をあいつらに盗聴器で聞かれたからかもしれない。
「やっぱりここの家って、村の中心として奴らに目をつけられてるな。和人自身だけじゃなくて、この場所も要注意だな」
すぐ近くに、リキが座っていて、そう伝えてきた。
「次からは絶対気を抜けない。あの女に騙されかけたさっきはまずかったし、皆んなが見つけてくれるまで俺は盗聴器にも気がつかなかったし。地震の少し前には花瓶使った覚えがあるから、仕掛けられたのはやっぱり地震の時だと思う。迂闊だった」
「全部抱えなくていいんじゃない?誰かが気がつけばいいんだし」
「そうだな。気をつけるのはいいけど、しんどく考えてもいい事無いし」
「人間ってあんな原始的な道具使って会話の盗み聞きとかするんだねぇ」
近くに居た猫から伝わってきた。
「ご苦労な事だよな。いちいちあんなの使わないと無理ってめちゃくちゃめんどくさいだろ」
今度は犬のシロがそう言っている。
テレパシーで会話が出来る動物達には、そんな物は要らない。
他の猫や犬達も同じような事を言っていて、人間のやってる事は動物達には呆れられているらしいと和人は感じ取った。
「あんなの仕掛けてくるんなら、こっちは会話なんか使わなきゃいいだけだから簡単だな。実際猫の会合の時は人間の会話なんか使わないし。ここに居る人間のメンバーと俺達が話す時はけっこうテレパシーでいけるし。そのうち人間同士もいけるんじゃないかな」
リキがそう言っている。
和人は、今ではリキとも動物達ともテレパシーで普通に会話できるし、聞かれたくたない事はこれで済ませばいいのだし、盗聴器を怖がることも無いのかなと思った。
8月4日
あの地震から、早くも二週間が経った。
昨日あった忘れられない出来事を書き留めておく。
リキと一緒に山の様子を見に行ったのが先月末。
今のところ、この村の近くの山はまだ無事だったけれど。
今の調子でいくと、それがいつまで大丈夫か分かったもんじゃない。
俺は嫌だと思っていたけれど、最終的にはやはり今の住居を捨てて引っ越す事を考えた方がいいのかもしれない。
俺の前にあの女が急に現れたことも、後から考えるとタイミング良すぎたし。俺がこの村の中で権力があると見られているなら・・・同じ手口か違う手口か分からないけど、また何か仕掛けてくると思った方がいい。
あの女は確かに魅力的だったし、リキが居てくれなかったら危なかったと思う。危うく騙されるところだった。その後二日間は特に変わった事は何も無かったから、俺が自分から連絡するまでとりあえず待ってるのかなと思った。連絡があるに違いないと自信たっぷりなのかもしれないし。
リキのアドバイス通り、俺はこの件に対して特に何もせず放っておいた。
8月3日の昨日、タネ婆さんが一旦家に帰るということになった。
特に心配な怪我人も今は居ないし、離れても大丈夫という判断だった。
タネ婆さんの家は地震でも壊れなかったし、今でも普通に入れる。
地震の後こっちに来ていて、しばらく家を放ったらかしにしているから気になっていたらしい。
一日二日帰って、家に風を通して掃除をし、保存している食糧はこっちへ持って来て早めに食べてしまおうという事だった。
茜さんはタネ婆さんについて行くけれど、俺とリキも用心棒としてついて行く事になった。
村の中で長老と言えばタネ婆さんだし、俺の家と同じで代々この村に住んでいる。村の権力者かもしれないと奴らに目をつけられているとすれば、危険が無いとは言えない。
実際、この村では困った事は皆んなタネ婆さんに相談するし、とても頼りにしている。
権力があると言えば、俺なんかよりタネ婆さんの方がそれにあたる。
奴らは俺に対しても仕掛けてきたわけだから、タネ婆さんが安全とは思えない。
家の方は信頼している仲間達に任せて、俺とリキは連れ立って出かけてきた。
タネ婆さんと茜さんが先に帰り、俺達は数時間後に向かった。
どこから見張られているか分からないし、用心棒が居る事を隠しておくためにこういう形にした。
タネ婆さんの直感で「今日は危ないかもしれない」と言っていたから。
何か仕掛けてくるとすれば、用心棒が居ると分かれば相手も多人数で来る可能性が出てくる。
それを避けるために、俺達は夜になってから家を出て、遠回りしてそっとタネ婆さんの家に近付いた。
リキに関しては、姿を見られたくなければ消えるか小さくなればいいので、隠れないといけないのは俺だけなんだけど。
以前から知っている裏庭に通じる扉を開けて、人に見られないように素早く中に入った。
タネ婆さんの家もかなり大きくて、一人で住むには広すぎる感じが俺の家と同じだなと思う。
タネ婆さんが寝室にしている部屋の隣が一番奥の部屋で、茜さんがここに泊まる。俺はリキと一緒に、タネ婆さんの寝室の手前の部屋に入った。
各部屋の間は襖で仕切られているだけで、何かあればすぐに行ける。
外から何者かが入ってくれば、一番先に俺達の部屋の前を通らないと奥へは行けない。
俺達は、寝ないで朝まで見張るつもりだった。
武器としては木刀を持って来ている。
異変を感じたのは、深夜2時を回った頃だった。
家の中に誰かが入って来た。
足音を忍ばせて廊下を歩いて、こっちに向かって近付いてくる。
リキが最初に感じ取って、俺に伝えてくれた。
「すぐ出れるようにそこで待機しよう」
リキは、俺達の居る部屋と隣の部屋を隔てている襖の近くに行った。
「タネ婆さんに知らせないと・・・」
俺も反対側の襖の側に行きながら、小声で言った。
「分かってると思う」
リキがそう伝えてくる。
なるほど。タネ婆さんも、相当に感覚が鋭い。
すでに気がついているということか。
今日は何かあるかもしれないと予測するぐらいだから、不審者の侵入などすぐ気がついてもおかしくない。
タネ婆さんは、自分の部屋の扉の鍵をわざと開けていた。
俺達の居る部屋も同じように開けておいた。
廊下から来て、ドアを開ければすぐ中に入れる。
タネ婆さん、まさか眠ってはいないと思うけど。
茜さんには鍵をかけるように言っていたので、茜さんが先に襲われる事は無いと思う。
先に来るのは、俺達の居る部屋かタネ婆さんの寝室だ。
隣の部屋の扉が開けられた。
侵入者を捕まえるなら今だ。
俺は右手で木刀を持ったまま、左手で素早く襖を開けて中に踏み込んだ。
大型犬ほどのサイズになったリキも、俺と同時に飛び込んだ。
部屋の真ん中には布団が敷いてあり、人が寝ているらしい膨らみ。
扉から入ってきてそこに近づく、屈強な大男が見えた。
その時、反対側の襖が開いたのも一緒に目に入った。
俺達より一瞬先に部屋に踏み込んだ茜さん。
気がついて掴みかかる大男を、茜さんが投げ飛ばした。
棒を持って押し入れから飛び出してきたタネ婆さんが、畳に倒れた男の鳩尾を突いた。
男が痛みにうずくまったところで、今度は首の後ろに一撃を入れる。
俺とリキの目の前で、物の数秒で男が倒された。
「今日は危ないと思ったのは当たりだったね。無警戒で寝てた日には、今頃あの世だったかもねぇ。まあこの年になれば、いつあの世へ行ったっておかしくはないけどね」
タネ婆さんはそう言って、豪快に笑った。
「二人とも凄すぎ。俺達来なくて大丈夫だったかも」
「そうみたいだな。向こうも、女性二人しかいないと思ってナメてかかってたんだろうな。一人で何とかなると思ったんだろ」
リキがそう言った。
タネ婆さんは武道の心得があると、そういえば山の主と話してる過去の場面を見た時、たしか言ってたと思う。けれど、この年になってまだ衰えてないのは凄すぎる。
それに、茜さんまで武道の心得があったとは。華奢で小柄で、腕力があるようにはとても見えないのに。
リキもそれは知らなかったようで聞いてみると、合気道の技だという事だった。突進してくる相手の力を利用するらしく、腕力は必要ないらしい。
「相手が完全に油断してたのもあるんですけどね」
茜さんはそう言って柔らかく笑った。
何でもない事みたいに言ってしまう二人ともほんとに凄すぎて、俺は目が点になった。
この男から何か聞き出せるかもしれないし、とりあえず縛っておくかどこか閉じ込めておくかと話していると、男が意識を取り戻して急に激しく苦しみ出した。
そういう演技をして逃げるチャンスを作るつもりかと最初一瞬思ったけれど、そんな物ではない事は見ていてすぐに分かった。
脂汗を流して顔面蒼白だし、見る間に痙攣が始まった。
俺達ではどうしようもない状況だったので救急車を呼んだ。
家に侵入されたわけだし、警察にも連絡した。
けれど救急車の到着は間に合わず、激しい痙攣が来たのを最後に男の心臓は止まってしまった。
茜さんは男を投げ飛ばしただけだし、タネ婆さんにしても、命を奪うような攻撃はしていない。
もし仮にそういう攻撃をしていたとしても、侵入してきて危害を加えようとした(おそらく殺そうとした)のは相手の方だから、正当防衛だと思うけど。救急車が到着する前、苦しみ出したのを何とかしようと近づいた時、この男が武器を持っている事も確認した。
警察が来て俺達三人とも一通り色々聞かれたけど、警察署には翌日に行けばいいという事になって昨日は行かずに済んだ。タネ婆さんが高齢だからという事もあるんだろうけど。
警察には今日の午前中行ってきたけど、同じ様な事を一通り聞かれただけで終わった。
男は心臓麻痺で死んだらしくて、たまたまあの時、持病の発作が起きたんじゃないかという事だった。
そんな偶然ってあるのか?
今日になっても、昨夜の事件に関しては一切報道されなかった。
事件らしい事件が起きたことも無い平和なこの村で、家宅侵入、殺人未遂、侵入してきた男が突然死んだという不可解な事が起きたというのに。
今朝家に帰ってみると、ここにいる人達も猫達も犬のシロも、俺が話す前に昨日の出来事を全て知っていた。
一足先に帰ったリキから聞いたらしい。
「その男が死んだのは、心臓麻痺なんかじゃないだろう」というのが皆の共通の意見だった。やっぱりそうだよな。
どういう方法でなのかはまだ不明だけど、タネ婆さんを殺すのに失敗したからおそらく消されたのかと思う。
ここまで色んな事が起きてくると、このまま頑張って村に居続けるのも考えものかなあと思う。